The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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マーク・テ
マーク・テ
Mark Teh


ファイブ・アーツ・センター
Five Arts Centre
http://www.fiveartscentre.org/
* 当時マレーシアの副総理大事であったアンワル・イブラヒムが首相の腐敗を訴えたため、異常同性愛の嫌疑で不当逮捕されたことを契機に勃発した反政府デモ。その後、イブラヒムは野党連合の指導者となった。
Presenter Interview
2016.12.13
Five Arts Centre   Emergence of a new generation of artists 
新世代アーティストが台頭 ファイブ・アーツ・センター 
多様な民族と文化・言語が共存するマレーシアで1983年に設立されたアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」が2016年高松宮殿下記念世界文化賞「若手芸術家奨励制度」を受賞した。マハティール首相による高度成長期に育ち、学生時代にファイブ・アーツに参加したマーク・テ(1981年生まれ)は、地域のアートプロジェクトを手がけ、マレーシア独立問題を歴史資料や生き証人たちに取材した『Baling』プロジェクトを10年以上追求するなど、新世代アーティストとして注目されている。マークに「マハティール・ベビー世代」と呼ばれる彼らを取り巻く環境と、フロントランナーとしての活動について聞いた。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」は1984年にクアラルンプールで設立されました。創設メンバーは、演出家クリシェン・ジット、振付家マリオン・ドゥ・クルーズ、演出家兼作家のチン・サン・スーイ、劇作家KSマニアム、ビジュアル・アーティストのレザ・ピヤダサの5人です。あなたは創設の3年前となる1981年に生まれた、新世代のアーティストといえます。なぜそもそも自分の年齢と同じほど歴史のある組織に参加しようと思われたのでしょうか。
 演劇と政治の双方に興味があった私は、テイラーズ・カレッジのAレベル(大学入試資格学校)で学んでいたとき「ARTicle19(後年、中心メンバーでAkshenという別グループを設立)」という 学生劇団を仲間たちと旗揚げし、ポリティカルな演劇公演を行っていました。けれど大学進学と同時に、ほとんどのメンバーが欧米に留学してしまった。取り残された私は、演劇活動をなんとか継続するためにファイブ・アーツに所属することにしました。まあ、ほかに選択肢がなかったし (笑)。それは冗談として、確かにファイブ・アーツは長い歴史がある組織ですが、だからといって既得権益にしがみついている古臭い集団には見えませんでした。彼らは常に権力の「中枢」ではなく「周縁」に身を置いてきた。そのスタンスが気に入り、私はファイブ・アーツに所属して、創作活動のかたわら、最初はコレクティブの広報部長として働きはじめました。マリオン・ドゥ・クルーズが「空間を好きに使っていい」と言ってくれたことも大きかったですね。

──1981年は、マハティール・ビン・モハマド第4代首相が就任した年でもあります。マハティールは以後22年間首相を務め、国の経済力を飛躍的に発展させます。あなたはいわゆる「マハティール・ベビー世代」といわれる若者なわけですが、どのような文化的・社会的影響を受けて育ったのでしょうか。
 マハティールは社会に矛盾した影響を及ぼしました。まず、経済発展、産業促進、グローバル社会への参入といった「ポジティブな」影響を与えた。90年代には誰もが、この国は「近代化」と「進歩」の道を歩み、世界市場に参入するのだと信じていました。もう一方で、この経済一辺倒な政策の陰で、他の様々なビジョンが置き去られていった。共産党の歴史は忘れ去られ、表現の自由は経済活動の拡張に取って代わられました。つまり私と同世代のマレーシア人の多くは、かなり偏ったビジョンしか持たない人間に育ってしまった。言い換えるなら、人びとはマレーシアの国力に自信を持ちながらも、よくよく考えると何に対して自信を持っているのかわからない状態に陥ってしまった。経済的発展が加速していくなかで、内省的な時間は止まったまま。豊かな物質以外に何が自信の源になっているのかを考える暇もないまま流されていったんです。まあ、よくある「希望に満ちた西洋近代化」の罠にはまったわけです。

──マハティール元首相は1991年に「ワワサン2020(ビジョン2020)」という政策を掲げ、2020年までにマレーシアが「先進国の仲間入りを果たす」というスローガンを普及させた。と同時に、その思想を学校教育にも取り込んでいきました。
 「ワワサン2020」は強硬政策というよりも、柔和なプロパガンダのようなものでした。おそらく上層部から具体的な指令が出ていたわけではなく、学校の先生たちは自主的に、希望に満ちたビジョンを子どもたちに教えていった。ご多分にもれず、当時まだ小学生だった私も学校の先生にマハティールの指針を刷り込まれていったわけです。もちろん第一に掲げられたのは経済政策で、「先進国=高所得国」というビジョンに基づき、一人あたりの国民総所得を15,000米ドルにする目標を政府は掲げた。ただ他にも民主主義、倫理、内心の自由、科学の発展といった9項目でビジョンが打ち立てられました。
 子どもたちはそのビジョンに則り、「2020年」というタイトルの短い作文を書くことを薦められたり、自分の想像する2020年の絵を描いたりしました。最近、次のプロジェクトのリサーチのために当時の子どもたちが授業で描いた絵を集めていたら、そこにはまるでSFのような未来都市が描かれていました。高層ビル街、宇宙旅行、空飛ぶ車などです。いま思うとバカげていますが、あまりにもそのビジョンが徹底して刷り込まれたこともあり、私もある時期まで、「ワワサン2020」こそマレーシアの未来だと信じ込んでいました。それこそが自分たちの「運命」(笑)だと信じていたのです。

──「5.13事件」として知られる1969年の大規模な民族衝突以後、民族をマレー文化のもとに調和するマレー人優遇政策(ブミプトラ政策)が施行されます。1971年の国民文化会議では「1、国民文化は地域の土着文化に根ざしていなければならない。2、他の文化の適切な要素は国民文化の一部として取り入れる。3、イスラームは国民文化形成の重要な要素である」という3つの原理が提示されました。この会議で演出家クリシェン・ジットは「Our Theatre…Where are your Roots(私たちの演劇…そのルーツはどこにあるのか)」という論文を発表し、英語劇からマレー語劇の創作へと方向転換します。この70年代の愛国主義的な原点回帰運動を、あなたの世代の作家たちはどのように捉えているのでしょうか。
 マレーシア人の根源に戻ろうという回帰運動は、主に70年代の潮流だったと私は認識しています。意識的に脱植民地の問題と向き合い、その地域のローカルな、あるいは土着の、芸術表現を発掘する試みでした。このプロセスはマレーシアのみがくぐりぬけたものではなく、他の東南アジア諸国やポストコロニアリズムを経験した国々にもあてはまる歴史です。その後、80年代には運動への反動から、逆に英語表現の文学や演劇が増加します。ただ私が演劇を創作しはじめた90年代後半に入ると「どの言語で表現すべきか」という問いはもはや過去のものになっていました。その作家がいちばん表現しやすい言語で表現すればよかった。まあ、このような考えを持っていたからこそ、わたしは複数言語での表現が許されていたファイブ・アーツで活動することにしたのかもしれません。
 ただひとつ付け加えておきたいのは、いまマレーシアではクリシェン・ジットが唱えた原点回帰とはまた別の意味で、マレー文化回帰運動が興っているということです。つまり極めて国粋主義的な意味で、英語話者が茶化されるような場面に出くわすことがある。「こいつ英語なんて話して、なに気取ってやがるんだ」みたいな批判がそこには含まれるわけです。先月(2016年9月)、マレーシアの副首相が国連でスピーチをしましたが、彼の英語があまりにも拙いため国内で物議を醸しました。リベラルなスポークスマンたちは「まともな英語を話せない人間が国家の上層部にいるなんて世も末だ」と訴えた。これに対して右側の人間は「正しい英語なんて話せなくてもいいじゃないか」と反論した。この事例が示すように、マレーシア社会はいま深く分断されています。

──あなたは流暢な英語を話し、英語劇を創作されています。
 私は義父がイギリス人だったんです。その助けもあったかもしれませんが、思い出してみると、義父に会う前からわりと流暢な英語をしゃべっていたように思います。学校教育や、テレビから自然と学んでいたんでしょうね。2011年から1年間、ロンドン大学ゴールドスミスの修士課程(芸術政治学科)でも学びました。自作では、たまにマレー語や、中国語方言を使用することもあります。そのとき共同作業をしているパフォーマーの言語能力にあわせて、使用言語を選んでいます。

──政治劇に興味を持つ学生は、1990年代〜2000年代頃は多かったのでしょうか。
 いえ、多くなかったと思います。というのもマハティールが教育相だった74年に「政治活動を行った者は、無期限で大学から懲戒処分する」という法律を施行したので。怖くて誰も政治について語れなかった。ただ変な話、これは国立大学の生徒にのみ科せられた法律だったんですね。だから私立大学に通っていた私には当てはまらなかった。とはいえ、98年〜99年頃は、公共の場で学生デモなどに参加すれば、誰もが催涙ガスや放水砲などで攻撃され、警察に逮捕された時代です。あえて政治劇を上演しようと考える人間は少なかった。私はテイラーズ・カレッジで師事した教師がたまたま政治的な人で、98年のレフォルマシ(改革)抗議デモ(*)の際に生徒をムルデカ・スクエア(独立広場)に連れて行って、しかもその広場の地下劇場でゲリラ的に上演されていたインディペンデントな政治劇を目撃させた。これは衝撃でしたね。頭上ではデモがリアルに過熱していて、眼前ではデモを彷彿とさせる政治劇が上演されている。この経験が決定打となり、私は演劇活動にのめりこんでいきました。

──テイラーズ・カレッジ時代、あなたは「ARTicle19(のちAkshen)」のメンバーたちと1999年頃から創作活動をはじめます。処女作はどのような作品だったのでしょうか。
 ムルデカ・スクエアでの出来事に衝撃を受けて、私はARTicle19のメンバーと共に大学の教室を利用して毎週公演を行うようになりました。ほんの20分程度の短いものですが、創作にあたり3つのルールを設けました。1つは、自分たちで脚本を書くこと。2つ目は、現実社会で起きる問題について思考すること。3つ目は、毎回、違う方法で空間を使用すること。私は文学を学ぶ生徒で、ファーミ・ファジルは社会学を専攻していました。誰も演劇の専門家ではなかった。でもとにかく頭をひねり、どう空間を演劇的に使えるかを考えていった。劇団名はお察しの通り、国連が1948年に発表した「世界人権宣言」の第19条「すべての人は、意見及び表現の自由に関する権利を有する」を元に名づけました。マレーシアでは果たして「表現の自由」が十分に行使されたことがあるのか。それを議論する作品を、短いモノローグ、スポークン・ワード・ポエトリー、実験的ダンスやパフォーマンスの形式で発表していきました。ちなみにこうした教室公演のひとつをマリオン・ドゥ・クルーズが観に来てくれたことをきっかけに、私はファイブ・アーツと関係を結ぶようになりました。

──あなたはいちども演劇を高等教育機関で学んだことがないんですよね。
 そうですね。私だけでなく、私の作品に携わるメンバーの多くは、完全に独学でアートを学んでいます。なので、どうやって演劇について学んだかと問われたら「実地に学んだ」と言うほかない。ファイブ・アーツでマリオン、チー・シック・ティム、ジャネット・ピライなど多くの先輩方のプロジェクトに関わったことからも多く学びました。それと私はかなり早い段階で、自分には自力で前に進もうとするエンジンが備わっていることを自覚していた。だからどんな問題に阻まれようと、人と対話することでそれを解決していく能力を身につけていました。社会の現場であれ、舞台の現場であれ、私は問題解決が好きなんです。「社会に関わりたいなら、問題を楽しめるようにならないと」とある人に言われたことがありますが。本当にその通りだと思います。

──ファイブ・アーツ所属後、初めて手掛けたのは地域アートのプロジェクトです。2002年から2005年にかけて、あなたはクアラルンプール南西部のタマンメダン地区で、地域の若者たちと連続ワークショップを開催します。
 若手作家のナイーブな悩みだと言われたらそれまでですが、私は徐々に自作の観客について悩むようになっていました。劇場に来る観客は誰なのか、来てくれない観客は誰なのか、後者の人々とどのように関係性を結べばいいのか。つまり私は自作の射程の狭さにフラストレーションを感じはじめたために、劇場を抜け出し、地域の人々と実地に関わるようになった。一緒に活動してくれたのは、同じ焦燥感を抱えていた映像作家やビジュアル・アーティストたちです。ちなみにタマンメダンは、貧困、移民の流入、民族衝突など多くの問題を抱える地域です。これらの問題をどうアートで取り扱ったらいいのか。そのような問題意識から、私は地域に住む10歳から16歳の若者たちと「教室を都市に見立てる」連続ワークショップを行いました。

──その後は劇場空間に戻り、バリン会談に光を当てた小規模な演劇作品を発表します。以後、あなたは現在に至るまでこのテーマを10年以上追求し続けています。05年に発表された『バリン(メンバリン)』は、どのような作品だったのでしょうか。またそもそもなぜ、マレーシアの独立問題に光を当てようと思われたのでしょうか。
 大きな質問ですね。文脈的なことからお話ししましょう。まず03年のマハティール退陣が大きいです。彼が政権から離れたことで、かつてマレーシアの独立運動に携わった左翼共産党員たちの声がはじめて社会に響くようになった。すでに80代〜90代の老人や老女である共産主義者たちが、突如、自伝を発表しはじめた。そのひとつが03年に発刊された、陳平共産党書記長による自叙伝『My Side of History』です。この本は一時、マレーシアで発禁処分になるのではないかと物議を醸しました。最終的に発禁にはならなかったものの、いきなり暴露される「もうひとつのマレーシア史」に多くの人が衝撃を受けた。私もそのひとりでした。彼らは誰なのか、なぜ独立のために戦いながら亡命者として生きねばならないのか、なぜいきなり社会で声をあげはじめたのか、という一連のことに興味を持ちはじめました。
 リサーチを始めて最初に行き着いたのは、かつてのマラヤ共産党員が住むタイ南部の小さな村でした。4つの小さな村からなる「平和村」と呼ばれるその場所に、かつての共産党員たちが大勢住んでいた。そこで目にしたのは「生きた歴史」でした。傷跡と、手榴弾と、歪められた身体によって語られる歴史です。と同時に、それは自分が初めて耳にする史実でもありました。この「生きた歴史」をぜひとも舞台化したいと考えた私は、クアラルンプールに戻り、当時まだ存命だったクリシェン・ジットに企画を持ちかけました。彼は興味を持ってくれて、それで『バリン(メンバリン)』という作品が誕生したわけです。これはバリン会談のテキストを読みあげることをベースにした極めて小規模な集団創作劇で、国内にある11の大学で上演されました。

──バリンもメンバリンもマレー語で「投げる」という意味だそうですね。
 そうです。これはバリンという町に根付く、ある伝説に引っ掛けて付けたタイトルです。昔、バリン周辺地域には、ある王様が住んでいました。その王様は政治的に腐敗していて、地域住民の生き血を吸って暮らしていた。そのうち、彼は吸血鬼に変貌してしまいます。吸血鬼になったことで生活がままならなくなった王様は、あるとき飲血の習慣を止める決意をします。そして、自分の牙を折って投げる。その牙が落下した場所に、バリンという地名が与えられたという伝説です。この「投げる」というキーワードを活かして、私は演出プランを考えていきました。
 上演場所にはホールや講堂ではなく、自分たちは歴史の「推移」や「変遷」のただなかにいることを具現化するため、廊下を選びました。廊下の真ん中には陳平に扮したパフォーマーが座り、バリン会談のテキストを読みあげます。彼の朗読は、他の二人のパフォーマーが投げつける椅子によって妨害される。当時流行っていたフィジカル・シアターの潮流にあわせ、極めてフィジカルで、暴力的で、即興的なパフォーマンスに仕上がりました。

──あなたはマラヤ緊急事態へのリサーチをさらに推し進め、08年には「エマージェンシー・フェスティバル」をザ・アネックス・ギャラリーで開催します。これはマラヤ緊急事態にまつわる、様々な展覧会、パフォーマンス、トーク、映像などを発表するフェスティバルでした。あなたはこのイベントの若手キュレーターのひとりであり、『1955 Baling Talks』という朗読劇を上演されました。
 フェスティバルに携わった他のメンバーには、かなり直接的にマラヤ緊急事態に介入しようと考える人もいました。例えば映像作家のファーミ・レザは、マラヤ緊急事態を反植民地主義革命として描くドキュメンタリーを発表しようとした。ただ、この映像作品は様々な理由から日の目を見ることはありませんでした。ちなみにこの映像の断片が、現在の『バリン』の最終場面で採用されています。
 私はどちらかというと政治の核心に介入するのでなく、歴史の周縁部をぐるぐるとリサーチすることに興味がある人間です。また当時からそろそろ政治的・軍事的文脈からではなく、文化的コンテキストからもマラヤ緊急事態を読み解く必要があると感じはじめていました。そこで私はタイの平和村から共産党員3名を密入国させようと試みたとともに、歴史に「政治的」にではなく「芸術的」に介入しようとする映像作家、パフォーマンス作家、リサーチャーも紹介した。そして様々な人の視点から、バリン会談のテキストを朗読してもらうことにしました。
 フェスティバルの前には、担当弁護士とともにクアラルンプール警察本部に呼ばれました。「Extreme Politics Department(過激政治部門)」という表札がかけられた一室で、「なぜこのフェスティバルを開催するのか、出資者は誰か」といったことを尋問された。またフェスティバル会期中も、つねに私服警官が会場をパトロールしていました。幸いなことに、なにも大事に至ることはありませんでした。

──「エマージェンシー・フェスティバル」の直後、海外のフェスティバルから招聘依頼があったにも関わらず、オファーを断ったそうですね。理由を教えて頂けますか。
 クンステンフェスティバルのクリストフ・スラフマイルダー芸術監督芸術監督に2008年に声をかけて頂きました。ファーミ・ファジルがその前年にクンステンの若手作家育成プログラムに参加していたこともあり、わざわざ彼はクアラルンプールを訪れてくれたのです。そして『1955 Baling Talks』を招聘したいとオファーしてくれた。でも当時の私は、これほどマレーシア史に特化した作品をベルギーで上演する意味が見いだせなかった。観客は誰なのか、どういう文脈で紹介されるのか、なぜプログラマーはこの作品に興味を持つのか。答えが見いだせなくて、断ることにしました。今からすれば、少し偏狭なものの見方をしていたかもしれません。いまだにメンバーにはあの決断はバカだったと怒られます(笑)。
 今でも私は「どこで作品が上演されるのか」というコンテキストを大切にしています。ですから、2015年に『バリン』が韓国光州で上演されることが決定した際にも悩みました。光州の観客がいったいどんな客層になるのか、まったく想像がつかなかったのです。もちろん光州は民主化運動の歴史的現場となった土地ですから、そういった意味で関連性はある。でも学術的なレベルを超えて、実質的に光州での『バリン』上演にはどのような意味があるのか? それについては、随分とメンバーと議論しました。

──光州で世界初演を迎えた『バリン』最終版は、ケララ(インド)、横浜(日本)、シャールジャ(アラブ首長国連邦)、 クアラルンプール(マレーシア)、ブランシュヴァイク(ドイツ)、京都(日本)と世界ツアーをします。この最終版に至るまで、戯曲はどのように改変されていったのでしょうか。
 現在では字幕の問題もありフィックスされた戯曲が存在しますが、かなり最近までテキストは改訂され続けていました。なぜならこの作品ではバリン会談に記された「歴史的な声」と同じぐらいそれを読みあげるパフォーマー「個人の声」も大事だからです。作業としては、ファーミ・ファジル、イムリ・ナズシォン、アン・ジェイムス、ファイーク・シャズワン・クヒーリ、といったメンバーそれぞれに私が資料を与えて目を通してもらい、それで彼らの意見を聞いて、一緒にセリフを考えていくというプロセスをくり返しました。確かにバリン会談は、マレーシアの「もうひとつの歴史」です。けれど私はその「カウンター・ヒストリー」を唯一無二の物語として届けたいとは思わなかった。ばらばらな声の集積として、観客に提示したかった。それで、このような様々な角度の視点から語られるパフォーマンスに落ち着いたわけです。
 特筆すべきは、2015年の『バリン』以前は、陳平書記長について「直接的には」一言も触れなかったということです。彼について語ることはタブーだと考えられていたのです。でも次第に、どうしても陳平という「亡霊」について語ることは避けられないような気がしてきて。それでようやく数年前に、陳平についての具体的なリサーチをはじめました。そうしたらあるメンバーが「以前、タイで撮影した陳平の映像を見直してみようよ」と提案してきたり、別のメンバーが「実は彼の葬式に行ったんだよね」と打ち明けてきたり。「えっ、葬式に行ったの?」という感じで、驚きでしたよ(笑)。そこから政治的な声だけではなく、「私的」で「詩的」な声を通して「陳平」という人物像がどう形成されていったのかを模索する表現を考えていけるようになりました。

──記録するだけのドキュメンタリー演劇を越えるには、「詩的」言語を構築できる可能性を探る必要があったわけですね。
 ええ。さきほどタイ南部で暮らす旧共産党員を訪れたときのことを話しましたが、そこで私は作品の核となるような、ある掛け替えのない言葉に出逢いました。どんなイデオロギーを標榜していたのか、どんなマルクス=トロツキー文学に傾倒していたのか、といった極めて政治的な意見をひとしきり交わした後、私はある共産党員に「なぜこの革命に参加したんですか?」と問いました。そうしたら彼は、あまりにも気取らない言葉で「怖かったんだよ」と言ってきた。この言葉を聞いた途端、あらゆることが腑に落ちました。どんな戦いであれ武具のようなイデオロギーを剥ぎ取ったら、残るのは極めて平凡な心情なんです。家族を守りたい、自分の身を守りたい。その偽りのない心情を舞台から伝えることこそが、私は重要だと思いました。ロマンティックすぎる解釈だと批判する人もいるでしょう。でもそもそもマレーシア共産党の問題は、まだまったく解決されていませんから。あらゆる視座が存在していいと私は考えています。

──あなたは常にプロの俳優ではなく、個々に様々な政治活動に携わるパフォーマーたちと創作を続けてきました。演者が自分のアイデンティティを保ったまま舞台に立つことが、あなたの作品では重要なわけですね。
 そうです。パフォーマーが陳平になりきってしまうのではなく、個人として距離を保ったままセリフをしゃべる。その「距離感」からあぶり出されてくる表現が、極めて大切です。Akshenの仲間たちと作品を作りはじめた頃からすでに、私はこの「距離のドラマツルギー」を採用していました。そのためにまずパフォーマーには「自分のフルネームを述べて、身分証明書番号を述べて、それから舞台に上がってください」という枷を与えた。「マーク・テ、xxxxxx番、ファーミ・ファジル、xxxxxx番」という感じです。私にとって劇場とは、すべての発話を批評的に分析する場であり、また様々な発話を集団的に集めていく場です。また何より「不可視なものを可視化していく場」でもあります。だからこそセリフを話す人間は誰か、見えない歴史を可視化していく人間が誰か、という要因が無視できないわけです。プロの俳優がどれほど巧みにバリン会談のセリフを朗読したとしても、もしその俳優が社会活動にまったく関与していなかったら、この作品はあまり刺激的な芝居にはならないでしょう。だからこそ私は信頼関係のあるパフォーマーたちと、10年、15年と創作活動を続けているのです。

──マレーシアでは、演劇を生業として生きていく若手世代は増えているのでしょうか。
 かつてとは比べものにならない数の劇場が、いまクアラルンプールには存在します。ただハードウェアがどれほど増加しようと、クリエイターの生活を幇助するような機構にならないのがマレーシアの問題です。ですからプロの演劇作家として働く人間の多くは、マレーシアとシンガポールの双方で創作活動を展開しています。シンガポールのマーケットの方がずっと大きいですから。また表現的にも、マレーシアの演劇作品の多くはいまだ近代劇の枠内に留まっています。海外留学から帰国した作家たちが、この保守的なマーケットをどのように変えていくか。これからの変化に期待したいです。

──あなたの今後のプロジェクトについて教えてください。
 2017年秋に、ミュンヘンの「シュピラート・フェスティバル」で新作を発表する予定です。冒頭で少し紹介した「ワワサン2020」の未来が具体的に迫ってきていることを鑑みて、現実の2020年がかつて想像していたビジョンとどれほど異なるものになるのか。マレーシアの過去と未来に、同時に想像力を拡張していくようなプロジェクトになります。また東京をはじめ、他のアジア諸国の「2020年」のビジョンについても触れる予定です。このプロジェクトは『バリン』同様、長い年月をかけて展開させていくつもりです。

──見えない未来であれ、隠された過去であれ、どうやらあなたは演劇というメディアをオルタナティブな現実を可視化するための装置として捉えているようですね。
 クリシェン・ジットは「新しいアイデアは演劇から生まれない」と言いました。その言葉に賛成するかどうかはさておき、彼は続けて「演劇はオルタナティブなアイデアを試す場である」と説きました。これには文句なく同意します。私も演劇は、異なるビジョンを可視化するための装置だと考えています。演劇という装置から、マレーシアの「新たな過去」や「異なる未来」が透けて見えてくると思っています。
 
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