The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
山本佳誌枝
撮影:岩本順平
山本佳誌枝(やまもと・よしえ)
山本能楽堂
〒540-0025 大阪市中央区徳井町1-3-6
http://www.noh-theater.com/
山本能楽堂
撮影:岩本順平
*1 上方風流(かみがたぶり)
芸能の枠を超えて次代の上方文化を担う40歳以下の有志が集まって1963年に発足。親ぼくを深めるとともに同人誌を発行。メンバーは桂米朝、茂山千之丞、藤山寛美、大村崑、坂田藤十郎、竹本住大夫など。
新作能『水の輪』
(2013年10月14日/中之島GATE)
水の輪
写真提供:山本能楽堂
*2 水都大阪
かつて“水都”と呼ばれた大阪の水辺の魅力を再生し、賑わいを取り戻すシンボルイベントとして2009年にスタート。ライトアップ、クルーズ、水辺での各種イベント、アートプロジェクトなどを展開。
シビウ国際演劇祭能公演 ゲリラライブ能
(2016年6月)
ゲリラライブ能
写真提供:山本能楽堂
Presenter Interview
2017.3.10
Yamamoto Noh Theatre and its Quest to be an “Open Noh Theater” 
“開かれた能楽堂”を目指す山本能楽堂の挑戦 
大阪で最も歴史が古く、最も革新的な活動をしている能楽堂・山本能楽堂。10年以上前から初心者向けの夜の能公演をはじめ、複数の上方伝統芸能をダイジェスト版でみせる「初心者のための上方芸能ナイト」などを実施。また、能舞台から飛び出してビルのエントランスや船上で能楽を披露し、現代アーティストとコラボレーションするなど常識にとらわれない幅広い活動を行ってきた。2012年にはブルガリアで初の海外公演、2016年にはシビウ演劇祭から招聘を受けて大成功を収めるなど、海外との交流にも力を入れている。海外との交流が認められ2015年には国際交流基金地球市民賞を受賞。難解で退屈だと思われがちな能楽を、現代を生きる人々と繋ぐあらゆる方法に挑戦している山本能楽堂の、90年におよぶ歩みと、旺盛な活動を支える理念について事務局長の山本佳誌枝さんにインタビューした。
聞き手:山下里加[アートジャーナリスト]

能楽と能楽堂の運営とは?

──私たちは能などの古典芸能を敷居が高いものと思いがちで、どのように運営されているかも知りません。まずは、能楽の運営システムについて教えてください。

 そうですね。能楽は、室町時代観阿弥・世阿弥親子が大成した芸能で日本を代表する伝統芸能です。室町時代から650年にわたって家元から弟子に口伝えで繰り返し教えることで伝承されてきましたので、今も「能の伝承と継承」を目的とする“家”の存在が大きいのです。私ども(山本家)は、世阿弥を祖先にもつ観世流宗家の直門です。
 能楽は、江戸時代は幕府の式楽(公式行事に演じられる芸能)として庇護されていたのですが、明治維新で多くの能役者は失職し、存続の危機を迎えます。特に囃子方(演奏者)の家はこの時代に途絶えたものも多いと聞いています。ですが、武士階級に替わる当時の新興勢力の方々、貴族や華族、財閥がパトロンとなって能楽の支援をしてくださり、新しい家が興りました。その家が現在に続いて3〜4代目ぐらいの家が大半を占めています。
 山本能楽堂も、1918(昭和2)年に主人(山本章弘)の祖父にあたる山本博之が創設したものです。元々、山本家は元禄時代から京都で両替商を営んでおり、大名貸をする五大両替商のひとつでした。当時の商家の当主は芸能をたしなむことが多く、博之の父である曾祖父も能が好きで家元を東京から招いて稽古をつけてもらうなど能楽のパトロンのひとりだったのです。ところが、友人の借用手形に判子を押したために全財産を失い、大阪に出てきた。そこで京都で習い覚えていた能で身を立てることにしたのです。
 でも、全財産をなくしたのであれば、こんな能楽堂なんて建てられないはずでしょう。どうやら当時は「大大阪」と呼ばれるほどの空前の好景気で、商人たちに大きな力があった。その“旦那”たちが好んでたしなんでいたのが、能楽でした。それで、この能楽堂も自分たちが楽しむ場所となるよう、ご支援くださったんです。

──能楽堂は、旦那たちの社交場でもあったんですね。
 そうです。いま、大阪市の助成をうけて京都造形芸術大学の協力で、その当時の資料を整理しています。最初の能楽堂の出資者には、松下幸之助さん(実業家)、武智鉄二さん(演劇批評家、映画監督)らのお名前もありました。当時から今もご縁があるのが船場で繊維商社を営んでいらっしゃった「田村駒」の三代目・田村駒治郎さんです。お父様の二代目・田村駒治郎さんは、プロ野球球団の松竹ロビンスのオーナーとして知られていますが、祖父・山本博之に師事し、熱心に能もお稽古してくださり、関西の財界人で野村徳七とならぶ能の名手と言われました。そういう方々が山本能楽堂の創設を支えてくださいました。最初の能楽堂は、1945(昭和20)年の大阪大空襲で焼失してしまったのですが、5年後の1950(昭和25)年には再建されています。焼け野原のなかで、棟上げ式をしている写真が残っていて、全国で一番早い復興として新聞にも取り上げられました。再建の時も、大勢の方々が、「自分たちの社交場を再開しよう!」と力をお貸しくださいました。

──能楽を継承していく“家”について教えてください。
  東京の観世宗家が家元であり、私どもは、家元に所属する「家」として能を継承させて頂いております。能楽には、台詞となる「謡本」は伝えられ、出版もされていますが、曲ごとに実際にどう演じるかという型付(かたつけ)はいっさい書かれていません。弟子は、師匠に教えを乞い、直接一対一で教えてもらうしかないのです。弟子は、それを自分で書き留めていくのですが、その人だけのメモのようなもので誰でも使えるマニュアルではありません。
 祖父の博之は観世宗家の型付を、その長男で2代目を継いだ勝一は梅若六郎家の型付を、主人は観世宗家の型付を自分で書いて持っています。また、主人の弟子には、主人が観世宗家から学んだ型を教えます。能は無形の舞台芸術なので、すべてそうやって人から人へと口伝で伝えられ、1つのグループ=家が出来ていきます。

──弟子はお月謝を払わって学ぶのでしょうか。
  玄人(プロ)を目指す弟子からはお月謝はとりません。一般の世界から能の世界に入門してきた弟子の場合、約10年間修行をして、やっと1人前になり独立を許されます。趣味として習って下さる一般のお素人の方からはお月謝を頂戴しています。
 戦後の高度成長期から昭和の終わり頃まで、能を趣味として習いたい方がかなりの数いらっしゃいました。私が章弘と結婚した25年前ですら、春と秋の土日は2カ月間ずっとお弟子さんの発表会が続いていたほどです。それだけ同門の数も多かったです。
 
──本業がお弟子さんに教えることだとすれば、裏方の事務仕事は佳誌枝さんのように奥様が取り仕切っておられたのでしょうか。
 能楽の家では、主人(=演者)がほぼすべてを取り仕切ります。舞台上のことだけでなく、公演のチラシのデザイン発注や印刷の手配、チケットの販売はもちろん、当日の出演者のお弁当の手配まで演者がやります。また、客席の様子にも心を配ります。来ていただくお客様に少しでも良いものをと配慮するのも演者の仕事なのです。

──それは驚きました!
 もちろん、弟子が一部を担うこともありますが、それも師匠が采配したのを手伝うぐらいです。演者の目がすべて行き届いているのが基本です。今も、弟子が一人前になった時に自身が主催で開く公演では、そうした裏方の仕事も本人ができるように、主人は指導しています。チラシや当日のパンフレット制作、家元や諸先輩方にご出演いただく手配や謝礼の準備、チケット売りはもちろん赤字が出たときにどうするのかといったことまで、すべてをプロデュースできて一人前だと教えるのです。


開かれた能楽堂としての運営と新たな活動

──能楽の世界では演者がプロデュースも兼ねるのが当たり前なのですね。それが、現在のように事務所機能ができ、佳誌枝さんが事務局長として能楽堂の運営に関わるようになった経緯を教えてください。

 博之には7人の子どもがいて、うち3人が能の道にすすみました。家督を継いだのが長男の勝一です。勝一夫婦に家を継ぐ子どもがいなかったので、甥に当たる主人が2004年に40代で3代目を継ぎました。それをきっかけに、主人は「この家と、この能楽堂を遺していかなくてはいけない」という重責を担うことになりました。一方、能楽堂のお客様は60代、70代の方がほとんど。公演も土日のお昼間にやっていたので、その時間に来られる方に限られる。開催時間も昼の11時から夕方の17時までという長丁場でした。それでは主人と同年代の、会社員として働いている人は観に来にくい。ちょうど能楽堂の2階を住居にしていた叔父夫婦がマンションに引っ越したこともあり、夜に能楽堂が使えるようになった。そこで主人の発案で、夜7時から解説付で能1番だけを上演する「とくい能」を2005年から始めました。当初は、おなかも空いているだろうからと、軽食も出していました。これが好評で、たくさんの方が来てくださった。

──三代目を継いだ章弘さんが能楽の将来に危機感を持っていらした。
 そうです。当時、大阪商工会議所の地域振興部にいらした本奈美(もと・なみ)さんが「とくい能」を偶然観に来てくださって、「何か一緒にしましょう」と声をかけてくださった。この出会いが、その後のいろいろな活動に繋がることになりました。
 その頃、商工会議所は大阪の夜の文化的な遊びを充実させようと「大阪カルチャーナイト」という事業を推進していて、山本能楽堂でも何かできないかということになり、いろいろと相談しました。その中で、主人の亡くなった父が「上方風流(かみがたぶり)」(*1)に所属していたこともあり、主人が、「上方風流」のように、ジャンルを超えた伝統芸能を一緒に上演する企画ができないかと提案しました。そして、2006年の大晦日に商工会議所と山本能楽堂の共催で「初心者のための上方伝統芸能ナイト」をはじめて開催しました。今では、月1〜2回開催しています。能・狂言・文楽・上方舞・落語・講談・浪曲・女道楽・お座敷遊びなどの中から、ひと晩に4種類を、解説付きで上演しています。2時間でお楽しみいただく、上方伝統芸能のショーケース公演になっていて、落語家の方は「デパ地下の試食コーナー」のような公演と説明してくださいます。そして、お客様が気に入った芸能があれば、専用の劇場、例えば文楽劇場や繁昌亭に行かれるよう誘導しています。2008年からは私たちが主催を引き継ぎ、商工会議所・大阪市が共催、大阪観光局が協力にまわってくださり、現在まで同じ体制で続けています。

──能を普及する新しい企画が、能楽堂の内部と外部の連携で実現できるようになったのですね。
 いろんなタイミングがよかったのだと思います。能楽師である主人が柔軟な考えを持っていたこと、自由な気風のある大阪という土壌だったこと、本さんが地域振興部で新しい取り組みを探されていたこと。そしてもうひとつ、自分自身のことを付け加えるなら、私が能の初心者だったこと。本さんは、それまで1回も能をご覧になったことがありませんでした。本さんと私は「能もその他の伝統芸能も、そのまま観ても全然わからへん、わからなさ過ぎる。このままだと、いくら夜に若い人に来てもらっても、楽しんで頂けへんのとちゃいますか?」「ほんなら、どうしましょか?」と言い合える仲になりました。そして、毎日二人でどうしたらいいか、時間を忘れて話し込む日がずーっと続きました。

──2006年に、山本能楽堂の建物全体が、国の登録有形文化財に登録されました。同じ年、山本能楽堂を財団法人化します。 
 国の文化財になったことで、より多くの方々に山本能楽堂に興味を持って頂くことになりました。建築関係の方が、「中を見せて頂けませんか?」と突然お越しになることもありました。そして、自分たちにとっては当たり前の建物である木造の能楽堂が、実は建物として価値があり、多くの人々に愛して頂いてきたのだということに気がつきました。
 当時、能楽堂は株式会社で運営していました。主人が家督をつぎましたが、文化財になったことで、能楽堂を次の世代に守っていくためにどのようにすればよいかということを考え始めました。その対策を考えていた頃、たまたま本屋さんで「財団法人のつくり方」という本を見つけたんです。それで図書館で調べると財団化する方がいいということがわかり、2006年に大阪府教育委員会から財団法人山本能楽会の認定を受けました。3年後には公益財団法人になりました。

──佳誌枝さんが事務局長という肩書をもたれた経緯は?
 本さんと一緒に動く機会が増えたのですが、その頃は「山本章弘の家内です」とご挨拶するだけで名刺を持つこともありませんでした。能楽師の家内が対外的なことで動くのは能楽の世界では異例のことですから。また、法人化に際して、関西の財界の重鎮の方々が理事になって応援してくださり、そうした中に能楽師の身内である私が入るのは恐れ多いことでした。しかし、体外的な活動が増える中で何らかの肩書きが必要になり、収まりの良い「事務局長」にしました。

──そこから能楽堂のプロデューサーとしての活動が始まったのですね。
 いえいえ、私がプロデューサーだとは私もスタッフも思っていません。人を雇う資金的な余裕がなくて、自分たちでやるしかなかったというだけです。能楽堂の台所のテーブルにパソコンを2台置いたのが事務所の始まりです。しかし、2007年に能楽堂が国の登録有形文化財になり、様々な初心者向けの企画を開始し、さらに、能楽堂がある地域の水辺の活性化を目的とした東横堀側水辺再生協議会(e-よこ会)など、地元の活動にも参加することになり、徐々に忙しくなっていきました。

──この頃から、公共空間で行う「ストリートライブ能」や、現代アーティストと協働した子どもへの能の普及プログラムをつくるなど、ユニークな活動をはじめます。
 それも、能楽師である主人がやりたいと言い出したことです。「ストリートライブ能」は、最初は2007年の世界陸上の前夜祭に、ホテルの宴会場でやってほしいというオーダーでした。でも、宴会場はそこに来た人しか観られない。それでは面白くないのでロビーでやりたいと主人から提案しました。そうすれば、通りがかりのお客様も従業員の方も、「あ、あれが能か」と体感していただけるので。それ以来、ホテル、府庁や市役所のエントランス、公園、駅、商業施設、船など、10年間で100回ぐらいやらせていただきました。しかし、能の普及と啓発を目的にしたアウトリーチ活動として無料で開催し、収入がありません。ですから、お金をかけて大がかりな舞台を組むのではなく、その場にあるものを利用したり、パンチカーペットを敷いただけの舞台で、できる限り簡易に、設営も撤去も短時間でできるよう工夫しています。そのような活動の中で、大阪のデザイン集団graf(代表:服部滋樹)さんに移動式のポータブル能舞台も製作していただき、活用しています。
 
──由緒ある古典芸能の世界で、「路上で公演する」ことに反発はなかったのでしょうか。
 もちろん、よく思わない方もいらしたと思います。でも、主人と同じように危機感を持っていた同世代の方は賛同してくださいました。「ストリート能」では、お客様の関心がダイレクトに伝わってくるんです。お能特有のお囃子が始まると、音を聞いてあっという間に大勢の人が集まってくださいます。終演後、大きな拍手を受けると主人も他の能楽師の先生方もモチベーションが上がるみたいです。アンケートにも、最近ではSNSにも、「初めて観たけど感動した」「独特の雰囲気がカッコイイ」といったコメントが返ってきます。それは演者にとって、とても嬉しいことです。また、都市空間の中で上演させて頂くことで「今の時代の中で演じ、楽しんで頂いている」という、時代と共存する気持ちを持つことができ、それは、古典の中で生きている者にとっては、現代社会からの有難い刺激にもなっていると思います。

──現代アーティストと協働した子どもへの普及プログラム「アートによるこどものための能案内」もとてもユニークです。
 同じく2007年から始めました。子どもへの能の普及を考えていた主人が、長時間じっと座って観せるのはよくないと、何かいい方法はないか考えていた時にアートコーディネーターの中西美穂さんと出会いました。中西さんと一緒に、池田朗子さん、井上信太さん、山本太郎さんといった現代アーティストの方々がプログラムをつくってくれた。たとえば、池田さんは『小鍛冶』に登場する狐の冠を、子どもたちが自由にペイントしてつくり、それをかぶって狐の気持ちになって能をみるプログラム。井上さんは、能舞台の背景に必ず描かれる老松を子どもたちが創作し、その前で能を舞うプログラム。そうすると、子どもたちが能の世界にのめり込むように観てくれて、能を大好きになってくれました。この経験は私たちにとっても有り難く、手応えを感じ、大きな喜びになりました。
 
──それまでは能楽堂として公的な助成金を受けることはなかったのですが、こうした活動を行うために助成金を申請するようになります。
 最初は助成金がいただけるということも知りませんでした。「アートによるこどものための能案内」の時に中西さんが助成金の申請をしてくれて、その後は試行錯誤しながら、申請書を書き始め、助成金を頂けるようになりました。助成金を受けている分、活動をより広く知っていただく必要がありますから、プレスリリースを作って、本さんと一緒に、ずいぶん関西の新聞社や雑誌社を回りました。そのときに知り合った方々に今もいろいろと助けていただいています。
 本さんから私が学んだ一番大きなことは、自分たちで出来ることは自分たちでやるという姿勢です。お金を使って外部に丸投げをするのではなく、身の回りにあるものを工夫してやりたいことを実現していく。助成金をいただく事業はたいがい赤字なので、だからこそ気持ちを共有できる人とやりたいことをやりたいと思っています。
 
──山本能楽堂には、「アートによるこどものための能案内」以外でもさまざまなアーティストが関わっています。
 中西さんとの出会いをきっかけに、現代アートに関わる方々との繋がりができました。2009年に開催されたフェスティバル「水都大阪』(*2)では、主人が創作した新作能『水の輪』を、レストラン船の船上で舞い、お客さんは岸辺から見るという試みも行いました。この時、設営から舞台美術、照明、上演まで現代アートに関わる方々と一緒に舞台をつくりあげる喜びを共有したことが大きな契機になりました。
 2014年から文化庁の「文化芸術による子供の育成事業〈巡回事業〉」に採択されて、全国の小中学校、特別支援学校で能の出前公演、ワークショップなどを実施していますが、そこでも舞台美術やテクニカルスタッフとして現代アートの方に関わっていただいています。1年間で20カ所近くの学校を訪問するので、かなりの時間を一緒に過ごしています。

──一種のカンパニーのようになっているのですね。どのようなメンバーがいるのですか。
 舞台美術とワークショップ講師には、美術家の井上信太さんが参加してくれることが多いです。舞台監督と舞台の設営には、大阪のアートプロジェクトを支えている古谷晃一郎さん、やなぎみわさんの舞台公演にも参加している黒飛忠紀さんなどに手伝ってもらっています。学校以外の能舞台以外での場所での公演や海外公演には、アーティストグループのダムタイプのメンバーでもある藤本隆行さんや、粟津一郎さん、照明家の筆谷亮也さんなどが参加してくれています。

──他ジャンルの人が関わり、能の現場がわかる裏方として育つことは能の可能性を広げていくことにもなります。
 2016年12月に、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会に向けた文化庁のbeyond2020事業として『水の輪』を複合商業施設のグランフロント大阪の広場で催しました。舞台背景として、文化庁の事業で出会った全国の子ども2000人が描いた老松の絵を使い、円形の舞台をつくりました。『水の輪』の水鳥の役として、インターナショナルスクールに通う15カ国20人の子どもたちが参加し、間狂言(能の前場と後場の間で上演される狂言)の場面で、子どもたちに自分たちの国の海や川のエピソードを紹介してもらい、「水を大切にする気持ち」で世界をひとつにつなげました。短い舞台設営時間しかありませんでしたが、学校公演などで息の合ったスタッフが素晴らしい働きをしてくださいました。

──能楽堂の建物そのものの活用にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。
 山本能楽堂は227席という小さな劇場で客席数が限られるためチケット収入だけで収支を成り立たせることは難しいです。でも、昔の芝居小屋のように演者の息づかいが聞こえ、汗まで見えて、音響設備に頼らない生の音が聞き取れる。そんな特徴をとらえて力を入れるようになったのが、初心者向けの普及・啓発活動です。
 加えて、能楽堂の空間の魅力をもっと知って欲しい、いろんな方に活用してほしいと思いました。当時は能楽堂を身内の能楽師が公演会場として利用していたぐらいで、一般の方にお借りいただく時の料金体制もわかりにくいものでした。それを公民館などの貸し出しを参考に、誰にでも使えるように4時間単位の料金設定をしました。備品の貸し出し料金も定めました。今では伝統芸能や演劇、クラッシックコンサートなどに加え、様々なパーティ、生け花などアートイベントの展示にも使っていただいています。また、国の登録有形文化財になったことで、建物の見学をしたいという方も増えました。その見学会や、能の体験講座のプログラムなどもつくり、料金表をホームページに掲載しました。今では日本の方はもちろん、海外の方からも多くご利用いただいています。

──敷居が高いと思っていた能楽堂が自分たちで使えるとなると親しみも増しますね。
 そうです。すべてオープンにすることで、能楽堂に足を踏み入れていただけるようになりました。それに、体験講座の講師を若い能楽師がやることで、彼らの勉強や経験にもなり、収入にもなる。そうやって若い能楽師が働ける場をつくっていくこともとても重要だと思っています。また、2011年から3年かけて行った能楽堂の改修工事以降は、観光庁が推進している「ユニーク・ベニュー」事業に参加し、各国のお客様を迎えて会議やパーティを行う場所としても使っていただいています。スロバキアワインの試飲会や、シャンパンの帝王と称されるフランスのKRUGの世界初のイベント会場にもなりました。

──能楽堂は神聖な場所、能舞台は能楽師しか上がってはいけないというイメージがありますが、本当に開かれた能楽堂として活用されているのですね。
 創建当時は、旦那衆たちの遊び場でしたから。主人も幼い頃に船場の旦那衆が能の発表会の後、客席で宴会をしていたことを覚えていたので、「とくい能」でも終演後に一般のお客様と懇親会をしていました。改修工事を経て、建物だけでなく、まちと能楽堂の関係もより創建当時の姿にもどしていこうというのが、私たちの方向性でした。

──2011年から3年間にわたって行われたという改修工事について教えてください。
 思い返しても大変な3年間でした。能楽堂でいろんな新しい活動が始まっていましたが、当時のこの建物は老朽化が進んでいて…。舞台は1950年の創建当時のままですが、その後、無計画な補修が高度成長期に行われていました。財団化して能楽堂の存続には目処が立ちましたが、建物の老朽化については課題が残ったままでした。ちょうどタイミングよく、2011年に文化庁の重要建造物等公開活用事業が始まり、その最初の事業として採択され、改修工事が実現しました。
 半額助成だったので、残りのお金を準備するのも苦労しました。事業の最初に、詳細な保存活用の計画書を作成することが義務づけられていて、当時は大変でしたが、今となっては何よりの経験になりました。山本能楽堂の設立の経緯、現在の活動状況、改修後の計画、安全面…。その過程で能楽堂を建物としてどのように活用するかを徹底的に考えることになりました。国の初めての事業だったので、何も手本にするものがなく、すべてゼロから考えました。この事業に採択されたのも、能楽振興だけの場所ではなく、「初心者のための上方芸能ナイト」「体験講座」「見学会」「ストリートライブ能」など地域に開かれた活動をしてきたことが評価されたのだと思っています。
 改修にあたっては、サントリーホールなども手がけていらっしゃる安井建築設計事務所さんとgrafさんがタッグを組んで、私たちの意図をくみ、それをよりよいカタチで実現してくださいました。

──改修のコンセプトは?
  “開かれた能楽堂”です。社交場の機能をよみがえらせ、様々な人が行き交うことで新しいことが生まれる場所になれば、と思いました。また、一番力を入れたのは、お客様に快適に過ごしてもらえるようにすること。昔ながらの木造の能楽堂は、冬はとても寒いので床暖房を入れて、年配の方でも使いやすいトイレを増やしました。服部さんとは彼が学生時代からの付き合いで、最初に「いま100%完成させるのではなく、余白を残しておき、長い時間をかけてつくりあげていく空間にします」と言ってくれた。90年続いてきた能楽堂を、次の90年にどう繋いでいけるかを私たちと同じ気持ちで考えてくれたと思います。

──新しい試みとして、能舞台をLED照明にし、3階にアーカイブ専門の部屋をつくられました。
 改修前から、コンピュータ制御によるLED照明の先駆者でもある藤本さんに照明デザインしていただく、特別な能の公演を開催していました。その時は、機材はすべて持ち込みでやっていただいたのですが、それが素晴らしくて! 昔の能は、野外で朝から夕方まで行われていて、自然の光の移り変わりがそのまま演出効果になっていたのではないかと一緒に検証し、公演に取り組んできました。それで、改修するときに舞台照明をすべてカラーLEDにしていただきました。藤本さんからは自然光の再現は不可能ですよと言われたのですが、LED照明にすることでいろんな可能性が広がりました。主人は、公演の前に舞台に衣装を置いて衣装が一番きれいにみえるよう照明を微調整しています。お客さんにはわからないほどのわずかな差ですが、やはり違います。

──並行してアーカイブ・プロジェクトを立ち上げました。
 改修工事中に押し入れで眠っていたいろいろな資料が出てきたんです。主には祖父の博之が遺したもので、公演のプログラム、個人的な手紙、写真、能の音源など本当に次々と出てきて。演者は芸能の道を極めるのが仕事ですから、資料の整理には思い至らなかった。でも、捨てることもなかったのが幸いしました。2015年から大阪市の助成金を得て、専門家と京都造形芸術大学の学生さんたちに整理していただいているのですが、とても興味深いものがでてきています。1957年に博之がパリで行った能の公演に、当時パリで暮らしていた藤田嗣治が手助けしてくれたこともわかりました。藤田と祖父がどうしてつながったのかも明らかになり、藤田のメッセージなどもでてきました。


海外との交流

──海外との関係についてお話をうかがいます。山本能楽堂の活動には、外国人の観客向けに行われているものと、演者が海外に出て行くものがあります。

 大阪商工会議所さんと大阪市さん、大阪観光局さんが「初心者のための上方伝統芸能ナイト」公演をご主催いただいていた当時、国土交通省の「訪日旅行推進事業(ビジット・ジャパン)」の助成金があり、2008年にそれを使って日本の現代語、英語、中国語2種、韓国語の翻訳をつくり、能楽公演のときに舞台にプロジェクションできるようにしました。まだ、インバウンドという言葉が一般的でない時代から取り組んできました。言うのは簡単ですが、能の詞章は650年前の室町時代の言葉です。これを翻訳するためには、まずわかりやすい日本語にして、それから翻訳する必要がありました。かなり大変でしたが、でも、手づくりでやったことで能やその他の伝統芸能に対する理解も深まったと思います。その時作成した5カ国語の芸能の資料を印刷物にして無料で配布もしています。
 その後、「初心者のための上方伝統芸能ナイト」の100回公演記念で、「すべて英語による公演」を実現しました。司会者も英語で話し、英語で落語や講談を演じてもらいました。能や文楽などの英語で上演できないものには字幕を付けた。これは、お陰様でご好評をいただき、現在でも年4〜5回ほど続けています。
 このような公演を繰り返していく中で、外国人の方を受け入れる体制が整い、現在は頻繁に外国からのお客様を受け入れて公演や能の体験講座を行っています。海外のメディアでもよく取り上げていただきます。

──海外での公演は?
 外国人に向けた公演をはじめた2008年頃に、大阪大学の先生が留学生をつれて「初心者のための上方伝統芸能ナイト」を観に来てくださいました。その中にブルガリアからの留学生のペトコ・スラボフさんがいました。「能に興味を持っているから彼を入門させてほしい」と先生から紹介されました。そうしたお申し出はよくあるのですが、なかなか続きません。でも、ペトコさんはとても熱心で、礼儀正しく、公演も積極的に手伝ってくれました。能の勉強もしていましたから、海外からのお客様対応も彼がやってくれました。
 ペトコさんとは1年半ぐらい家族同然の付き合いをしていましたが、彼が大学院の修士課程を終えて帰国するとき、「ブルガリアに一緒に来てもらえれば恩返しが出来る」と主人を母国に誘いました。そこで主人は能衣裳をトランクに詰め、能面を手にブルガリアに行き、彼の出身校であるソフィア大学の学生や国立芸能アカデミーの学生を集めてワークショップをしました。それが私たちが主催する海外公演のはじまりです。

──招待公演でもなく、助成金をとったわけでもなく、単身で乗り込んでいったのですね!
 そうなんです。ペトコが能を舞い、主人が地謡を謡って、大好評でした。ブルガリアは多くの学校で日本語の授業が行われていて、親日家がとても多いんです。ワークショップの後、大使館を表敬訪問したら、「ブルガリアでは能の公演が行われたことがないので、歓迎します」と。帰国してから、本格的に能の公演をするにはどうしたらいいんだろうと、海外公演の経験が豊富な藤本さんに相談しました。それで文化庁の海外国際交流事業の助成金を申請したら、本当にブルガリアに行けることになったんです。
 それで、2012年、初めての海外公演として『水の輪』と『羽衣』をソフィア市立ソフィア劇場で上演しました。ペトコさんが劇場や大使館などとの現地コーディネートをすべてやってくれて、日本からは能楽師と一緒に、設営と舞台監督として古谷さん、舞台美術として井上さん、テクニカルスタッフとして藤本さんと粟津さんが同行してくれました。みなさん、海外での経験が豊富で、彼らの欧州の友人が国境を越えて助けに来てくれました。
 この年は、ブルガリアの子どもたち25人が水鳥の役として舞台に出てくれて、大阪弁(笑)で語りました。衣装も井上さんがワークショップを開催して一緒につくりました。
 
──翌年は、ブルガリアとスロバキアで公演します。
 文化庁に申請したら運良くまた助成をいただけた。ブルガリアでは、首都ソフィアのアートセンターで『水の輪』、ブルガリアの第2の都市、プロブディフにある古代ローマ劇場で『葵上』を、スロバキアでは郊外のニトラ市の森の中で『羽衣』、大使館前の広場で『葵上』を上演させていただきました。そのまた翌年には、スロバキアの首都ブラスチラヴァにあるブラスチラヴァ城での公演と、第2の都市コシツェで公演を行いました。
 スロヴァキアは公演場所の確保が大変で、ブラスチラヴァ城は外国人に貸したことがないと当初は門前払いだったのですが、たまたま大統領の通訳の方と知り合い、実現できました。コシツェは2013年の欧州文化首都に決まっていたので、日本での窓口であるEU・ジャパンフェストの事務局に相談しました。

──本当に人の繋がりでいろいろなことが実現していくのですね。章弘先生や佳誌枝さんの行動力にも感服します。
 4年目はどこからも助成していただけなかったのですが、主人がソフィア大学から講師の招聘を受け、能の講義をし、同時に自費でブルガリアで能のワークショップを行いました。この年は、能の公演はできませんでしたが、その分、ブルガリアの方との繋がりを育もうと、現地の人に本格的に舞台に立ってもらう企画を考え、その準備を始めました。『紅葉狩』という、前シテが5人、後ツレが5人の10人が出演する演目があるのですが、その10人をすべてブルガリア人に演じてもらったら、真の意味での国際相互理解が深まると思いました。
そして、翌年は国際交流基金の助成をいただくことになり、10月の「日本文化月間」のオープニングで、この『紅葉狩』を実現させました。8月にまず主人が一度ブルガリアに伺い、集中的に10人のブルガリア人に能の稽古をつけました。そして、10月まではペトコさんが指導しながら自主的に稽古して、公演の2日前からまた主人が教える。本番は見事にみんなが演じ切ることができ、大喝采を受けました。ペトコさんが現地にいるので、こういう企画もやれたのだと思います。

──2016年6月には、ルーマニアの「シビウ国際演劇祭」に招聘されます。能が招聘されるのは初めてで、しかもクロージング公演でした。
 とてもありがたいことに、満場のお客様からスタンディングオーベレーションを受けました。実は、前からルーマニアで公演をやりたいと思っていました。夢物語ですが、舞台が上演できる船を仕立ててドナウ川を下りながら、港ごとで能の公演をしたいとみんなで話していて。シビウ演劇祭から誘っていただく前からドナウ川沿いのルーマニアには行きたいねと話していたので、とても嬉しかったです。
 また、演劇祭の総合監督のコンスタンティン・キリアックさんも、能にとても感銘を受けてくださり、「日本の古典芸能が世界で一番素晴らしい」と評価してくださいました。今後もシビウとの交流を深めていければと思っています。

──海外にも積極的に出て行く一方で、能楽をスマートフォンやタブレット端末で楽しめるアプリの開発もされています。
 最初からアプリをつくりたかったわけではなく、学校の先生からのご要望に応えさせていただき、アプリを開発することになりました。学校での出前公演をやる中で先生達が能について全くご存じないことに気づきました。それで、先生に能を教えるワークショップを行ったのですが、その時にある先生が、「iPadを使ってギターやピアノが弾けるアプリのように、能の楽器に触れられるアプリがあればいいのに」と言われたんです。そしたら、コンピューター技師でもあるペトコさんが「私、つくれます」と。2週間ぐらいでプロトタイプを見せてくれて、能の楽器の演奏体験ができるアプリ「Ohayashi Sensei」ができました。
 「Ohayashi Sensei」は無料でダウンロードでき、ゲーム感覚でお能の楽器演奏を楽しめます。使っている音や声は電子音ではなくて、本物の能楽師の演奏を録音した生音です。今の私たちは普段の生活のなかで太鼓や鼓、笛といった日本の伝統楽器の音を聞くことはほとんどありません。でも、このアプリがあれば、お囃子の音が生活の隙間に入っていける。例えば基本的な楽器の生音が入っているので、もし高校の演劇部で太鼓の音を効果音に使いたければ、自由に鳴らして、使うこともできます。
 その次にペトコさんが開発したのが、「We Noh」という5分間で能楽を解説するアニメ仕立てのアプリです。能楽の基本から代表的な演目の物語までアニメでみることができます。もちろん彼がひとりでつくっているわけではなく、主人がひとつひとつチェックしますし、楽器の解説などは私が日本語で書いたものを彼が翻訳しています。まだ試験中ですが、2016年の冬には新たに字幕アプリもつくりました。スマートフォンやタブレット端末にダウンロードして、Wi-Fiに繋ぐとリアルタイムで能の詞章と現代語訳と英語がみられます。新しく能の謡を学ぶアプリ「Super Utai」も開発しました。

──章弘さんが家督を継がれてから、本当にいろんな活動を展開されてきました。これからはどういう方向に注力していこうと考えていますか。
 これまでの10年を振り返ると、自分たちの力だけで事業を行ってきたのではなく、いろんな人に関わっていただき、支えられてきたことを改めて実感しています。何よりこの能楽堂がある大阪で、地域の人々に教えて頂きながら、まちと伝統芸能の関係を新たに考えさせて頂いてきたように思います。さまざまなまちづくりのプロジェクトから声をかけていただき、大阪で長年お商売をされている方や老舗料理店の方、大学の先生などたくさんの方々からいろいろと教えていただきました。そこで思ったのは、芸能だけが盛んな街というのはありえないということ。食文化や建物、歴史、そこで生きている人、いろんなものが重なり合って都市の魅力になり、そのなかに芸能が入り込むことで、まちに賑わいが生まれ、活性化して、次の世代に引き継いでもらえるのだと思います。

──芸能だけの生き残りを考えていても無理で、まちの人々と共に、まちをつくっていく必要があり、まちがなければ芸能もないということですね。
 そう思います。みんなに守られてこその芸能だと思っています。伝統芸能をやっている者だけが「これは崇高だから」と言っていても絶対に残っていかない。まちの人から「私には関係ない」と言われたら終わりです。芸能は街の人に育まれてこそ生き残っていけます。来年、山本能楽堂は90周年を迎えますが、この長い年月をまちの人に支えていただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。この先の90年もやっぱり支えていただけるような存在になれるよう、努力していきたいと思っています。
 
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