The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ラウラ・スタザネ
ラウラ・スタザネ(Laura Stasane)
New Theatre Institute of Latvia(NTIL)
New Theatre Institute of Latvia
Presenter Interview
2018.3.23
New Theatre Institute of Latvia (NTIL)   Leading the Latvia Performing Arts World since the 1990 
90年代以降の舞台芸術シーンを牽引するニュー・シアター・インスティチュート・オブ・ラトビア 
バルト海東岸に位置し、1991年にソ連から独立したラトビア共和国。首都リガを拠点に活動し、同国を代表する舞台芸術フェスティバル「Home Novus」や「Dance Moves Cities」を手がけるNew Theatre Institute of Latvia(NTIL)のプロデューサー、ラウラ・スタザネ(Laura Stasane)。日本にはほとんど知られていないラトビアのインディペンデントな舞台芸術シーンについてインタビュー。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

──ラトビアは1991年にソ連から独立し現在の形となりました。2004年にはEUに加盟しています。ラトビアのアーティストの環境はどう変わったと思いますか。
 最も大きな変化はモビリティです。昔はラトビア国外に出るにはビザを取る必要があり、他国から人が来るのにも様々な制約がありました。海外の空港でEUパスポートの人たちの列を見ると、うらやましかったものです。他国への往き来が楽だったら、ラトビア人アーティストはもっと外に出ていたでしょう。
 現在はEUから芸術的な活動に対する様々な助成金が出ていますし、アーティストの活動の範囲や可能性が大きく広がったと言えます。私たちのプロジェクトも、規模やできることが変わりました。独立したとはいえ、大国ロシアとの関係を考えると、EUには加入して良かったと思っています。

──ラトビアは人口約196万人(栃木県の人口とほぼ同じ)です。人口比率でいうと、約60%がラトビア人、約25%がロシア人です。歴史的にもロシアの影響下にいた時期が長かった。今もロシアの文化は影響していますか。
 それはあります。バレエの先生は伝統的にロシア人ですし、レッスン用語もロシア語です。ロシア人同士はロシア語で話します。もちろんコンテンポラリーダンスのレッスンはロシア語ではありませんが、ロシア人の生徒もたくさん来ます。ラトビアのコンテンポラリーダンスのパイオニアのひとり、オルガ・ズィトゥルヒナ(Olga Zitluhina)はロシア人で、生徒はラトビア人です。ただロシアとラトビアの文化は、融合というより並行して存在している感じで、自然にそうなってきています。

──あなたはNTILのプロデューサー兼プログラム・ディレクターです。まずは、あなた自身のバックグラウンドについても聞かせてください。
 私がソ連時代に生まれ育ったこと、そして1991年のラトビア独立を経験したことは非常に重要です。私の生まれた国はもう存在しておらず、同じ町に住んでいても違う国なのですから。「独立後は自由であるべき」という考えを、ラトビアの社会はずっと持ち続けてきました。それは私の祖父母の世代が第一次大戦後に経験した最初の独立(1918年)の記憶であり、自由を希求する気持ちは私たちの世代にも引き継がれていました。ただ私が生きている間にソ連から独立できるとは思っていませんでした。でも、私がまだティーンエージャーだった1991年、独立が実現しました。
 18歳のとき、私はノルウェー語を学びにノルウェーに留学し、高校に通いました。多感な時期にノルウェーの田舎の小さな村で過ごした経験は大きかったですね。帰国後は首都リガにある大学の国際文化関係の学科に通いましたが、水準的に満足できず1年で退学。ノルウェーの大学に移ってビジュアル・コミュニケーション学を学びました。これは建築・映画・文化人類学など様々な分野について、イメージを使ってどうコミュニケーションするかという研究です。視覚教育と概念について考えることが中心でした。
 勉強を終えて帰国したとき、リガで精力的に活動しているダンサーで振付家のオルガ・ズィトゥルヒナの公演を見ました。彼女のダンスは、私の中でそれまで学んできたビジュアル・コミュニケーション学とぴったり合いました。ダンスは演劇以上に視覚的な芸術であり、あらすじや物語を追う必要は必ずしもなく、イメージや視覚で気になったところをとらえるわけですから。

──オルガさんはどんなダンサーでしたか。
 彼女はラトビアのコンテンポラリーダンスのパイオニアです。元々バレエの教育を受けていましたが、90年代にバルト地域のダンサーとともにアメリカのダンスフェスティバルを訪れて、コンテンポラリーダンスと出会った。彼女は帰国後にカンパニーを設立し、ダンスを教えていましたが、後に大学でダンス学科を創設します。90年代のバルトのアート業界では、彼女がアメリカで学んできたことが非常に影響力を持っていました。
 私も評判を聞いて彼女のクラスを受け、やがてダンサーとして関わるようになりました。この頃は、広告会社でフルタイムで働いていたのですが、リガのアカデミー・オブ・カルチャーにダンス学科が創設されたことを知り、いてもたってもいられなくなりました。上司の許可をもらい、朝の10時から12時までダンスの授業を受けて、ランチタイムから仕事に戻るというハードな毎日を送っていました。やがてオルガのマネジメントも手伝うようになり、広告業かマネジメント業か、どちらかを選ばなければいけなくなった。「指を入れたなら、手まで全部入れろ」というラトビアの言い回しがありますが、私は思い切って広告の仕事を辞めてフリーになりました。

──しかしラトビアのダンスのマネージメントでフリーで生きていくのは……。
 思ったより、ずっと厳しかったです(笑)。私がフリーになって最初に国外から招いたダンサーのことは忘れられません。フランス人のコンセプチュアルな作品で、いわゆるダンスではありません。観客はレクチャーを受けてからショーを見て、帰ってから「私は何を見たのだろう」と悩むような作品です。脈絡のないショーはラトビアになかったので、私にはファンタスティックなアートに思えました。でも、フリーでやることには限界があり、ボロボロになって生活費のためにアルバイトをするところまで追い詰められました。そんな時、現在勤めているNTILのことを知ったのです。そこでアートマネージャーの研修を受けた後、2005年に採用されました。


New Theatre Institute of Latvia(NTIL)とフェスティバル

──NTILは1998年に33人のインディペンデント・アーティストが集まって設立された団体です。

 はい。創立メンバーは俳優・監督・マネージャーと多彩で、それぞれが今では有名になっています。彼らも当時は若くて血気盛んでした。団体を設立するときには、保証のために財産を用意する必要があったのですが、金のなかった彼らは自転車など自分たちの身近な日用品をもってきたそうです。なので、いまでも自転車が公式に協会の財産となっています(笑)。
 映画を教えていたアカデミーの教授が中心になって、国際映画祭を企画したこともあります。国際といっても近隣諸国だけですが、若いアーティストをリトアニア、エストニア、フィンランドあたりと交流させるのが目的でした。ほとんど手づくりでしたが、「いろいろな都市の劇場と協力することで、劇場という空間はまだまだパワフルな存在でありうるんだ」と実感できました。こういうモチベーションの高さは、教育より大事です。大学でアートマネージメントの学位を持っているかどうかより、やりたいと強く思うことのほうが、よほど大事です。

──あなたがNTILに入った2005年当時、スタッフは数人しかいなかったそうですね。
 3〜4人でしたね。私が入ってすぐに辞めた人もいます。誰かに引き継ぐまでギリギリ頑張っていたという感じです。疲れてしまったんじゃないでしょうか。とにかく待っていてもラトビアには重要なアーティストは来てくれないので、最初のうち、私たちはとにかく海外に出て行って、いかに良いダンスを見つけてくるかに力を入れました。

──ラトビアでコンテンポラリーダンスが始まったのはいつ頃だと考えていますか。
 いい質問ですね、コンテンポラリーダンスをどう定義するかによって違いはありますが、まずは、先ほどのオルガと同時代、90年代に活動したアンシス・ルーテンタルス(Ansis Rūtentāls)が重要です。「ムーブメント・シアター」と称してメッセージ性の強い作品を発表していました。残念ながら彼の死後、カンパニーは解散してしまいました。
 私たちは「コンテンポラリーダンス」と連呼て認知してもらうよう努力していますが(笑)、ラトビアでは現在でも、単純に「ダンス」と言ったときに人々が頭に浮かべるのはバレエや社交ダンス、民族舞踊です。実際ダンサーのほとんどはバレエ学校で教育を受けた後、コンテンポラリーに方向転換するパターンです。バレエの基礎のないアンシスのような演劇的なムーブメントは今でもアンダーグラウンド扱いです。
 ソ連時代からバレエは確固たるものでした。民族舞踊は少し複雑で、国民的なアイデンティティなのでソ連時代は禁止されていました。しかし同時に労働者のためのものとして表向きはサポートするポーズもとられていました。いくつかの民族舞踊団は非常にレベルが高かったとはいえ、どこか「民族舞踊風のバレエ」を見ているような感じでしたね。

──そういう背景のところに、1991年の独立で西側の自由な表現が一気に入ってきたわけですが、「世の中にはコンテンポラリーダンスという自由で豊かな表現があるのか!」という、若いアーティストのフィーバーはなかったのですか。
 ……なかったですね。とても静かで、なぜだろうと私も驚きました(笑)。ラトビアはヨーロッパのごく端に位置する国です。他国とアイデアのやり取りをするということ自体があまりありませんでした。人々が流動的に動き回って人も文化も交流しているフランス・ドイツ・ベルギー・オランダのような国々とは異なります。EU加盟で流動性が出てきたのは冒頭に述べたとおりですが、ラトビア人は、今いる場所に留まる傾向があり、移動するときは完全に去るという感じです。

──話をNTILに戻しますが、年間予算はどれくらいですか。
 年によりますが、大体平均すると20万ユーロです。ヨーロッパのフェスとは比べものにならないくらい小さな予算ですが、内容はちゃんとしていると思います。周りのラトビア人は潤沢な資金があると思っているかもしれませんが、実際は戦いの連続です。
 国の補助金としては、3年ごとに文化省から得ているものがあります。パフォーミングアート領域では政府がNGOに委託して公募し、選ばれた団体を3年間助成していますが、それで基本的な経費は何とかカバーできています。残りの予算は他の助成団体からの支援です。大きいのは全ての芸術を扱っているラトビア・ステート・カルチャー・キャピタル・ファウンデーション(SCCF)からの支援で、プロジェクトのクオリティに応じて助成が受けられます。あとは年に一度、シティ・カウンシルにも応募できます。「ヨーロッパ・パートナー・プロジェクト基金」はヨーロッパの他国とのコラボレーション・プロジェクトに関して、経費の50%を助成してくれます。また「EUネットワーク」からも支援を受けています。

──劇場は持っていないのですか。
 ありません。プロダクション中心の運営とは違い、建物にかかるコストを払うのが大変なので、現状では劇場を持つことは難しいと考えています。

──NTILは1995年から「ホモ・ノヴォス(Home Novus)」というフェスティバルを開催しています。
 ラトビア人にとって公演やコンサート、展覧会に出かけること自体は生活に根付いていましたが、ソ連時代はどの劇場でも決められたレパートリーの公演ばかりでした。質は高いですが、新しいものはほとんどありません。その流れで、今でも新しいコンテンポラリーダンスの公演をプログラムする劇場はほとんどないのが現状です。そのため私たちのフェスティバルでは、まちなかや廃工場など、劇場以外の場所が主な会場になっています。ちなみにラトビアは小さな国なので、NTILのような組織も、国際フェスもひとつだけです。

──レジデンス・プログラムもあるようですね。
 はい。といってもオフィシャルなレジデンスの場所というものがあるわけではありませんが、「うちのアーティストをレジデンスさせてくれませんか?」と声をかけるのは自由ですからね(笑)。ラトビアは小さな国で、関係者は大体知り合いなので。場所は、スタジオ、個人宅など多様ですが、基本的に私たちがキュレーションします。
 リガにはソ連が崩壊したときに停止したままの工場や建物が残っていますので、それらを「資源」として使うことが創作にどう作用するかが、可能性として面白いと思っています。2009年の欧州債務危機(ギリシャの債務危機がヨーロッパ全体に波及した)の頃は、さらに多くの建物が空きましたし、建築途中で放棄されたりしました。都市のあちこちに空きスペースが転がっているので、「使わせてほしい」と電話をかけまくっていますが、OKしてくれる方が多いです。こういう上演スタイルは、「パフォーマンスが劇場以外の生活空間に出て行くこと」なので、観客もフェスティバルに強い結びつきを感じてくれます。

──場所の使用料は払うのですか。
 契約内容によりますが、払う場合でも劇場を借りるよりはずっと安いです。2011年には、廃校になっていたリガの古い音楽学校を使いました。町の中央にあり、美しい木造建築で素晴らしい庭までありましたが、省みられなかった。しかしフェスティバルを契機に、建物のポテンシャルが再評価され、アートセンターとして再生されました。今ではリガの若者の人気スポットとなり、バーも併設してコンサート会場にもなっています。フェスが建物の可能性を引き出して、それを誰かが引き継いでいくのは素晴らしいと思います。

──公共の場所でやるのはユニークですが、集客の面では厳しくないですか。写真で拝見すると住居ビルの間のスペースでやったものなどもありますが、一度に見られる観客数には限りがあります。
 あのビルは9階建てで、周囲のビルからも大勢がバルコニーに出て見ていました(笑)。まるで円形劇場みたいでした。劇場のダンス公演でも100〜200人くらいですから、ずっと多かったんじゃないでしょうか。ただ本当に大切なのは人数よりも、いかに観客の胸を打つものを見せるかです。私の人生を変えたような、そういう作品を誰かの元に届けたいんです。以前、図書館で地元の人々とジェスチャーについてのプロジェクトをやったことがありました。ずいぶん後になって、そのときの参加者から「あれは素晴らしい体験だった。素晴らしさを実感するのに時間がかかったけど」と言われました(笑)。それでいいと思います。今では観客が自分からネットで検索してみに来てくれるようになりました。


欧州文化首都と『Dance Move Cities』

──2014年にリガは欧州文化首都に指定されました。フェスティバルにも大きな予算が付きました。

 しかし、私たちはそこで一度立ち止まって考えました。確かに従来のフェスティバルの路線を踏襲すれば、最大規模のものができるでしょう。しかしどうせなら、普段のフェスティバルではできないようなことを試してみようと思ったのです。そこでいくつかのプロジェクトを立ち上げ、開催期間を1年間に延ばし、毎月何か大きなイベントがあるようなプログラムにしました。

──日本からはcontact Gonzo(コンタクト・ゴンゾ)が招聘されました。
 私がキュレーターをしている国際プロジェクト「Dance Move Cities」で招聘しました。これは、アーティストを招いて数カ国でレジデンスを行い、地元のアーティストと作品をつくるプロジェクトですが、これも2014年は特別なものになりました。EUの出資でリガ・クラクフ(ポーランド)・テルニ(イタリア)の3都市共同の2カ年プロジェクトになったんです。contact Gonzoは、2011年に横浜の美術館ロビーで彫刻とからむ5分程度の作品を見て「なんだこれ?!すごい!何とかして一緒に仕事しなきゃ!」と胸を掴まれました。
 彼らはラトビアの地方都市に3週間滞在し、地元のダンサーと一緒にワークショップとクリエイションをしました。近所に木造の歴史的建造物がたくさんあったので、インスタレーションをつくり、そこを起点にして近所の古いレンガの廃墟を巡りながらパフォーマンスをしていく。公演のことは欧州文化首都を通じて告知されていましたが、地元の人も「何をやってるんだ?」と興味津々でした。近所のおばさんたちが、激しく身体をぶつけ合う彼らのパフォーマンスをどう思うか心配でしたが、とても楽しんでくれました。ニュースを見て隣の地域から来てくれた人もいた。地元の人たちはリアクションが正直なんです。

──地方に持っていくのなら、誰でも喜ぶような「美しいダンス」のほうが安全だとは考えませんでしたか。
 私自身、そういうダンスには飽きているんです(笑)。contact Gonzoの正直さ、ユーモアのセンスも好きです。真剣に戦っているかと思ったらいきなり笑えるようなことやる。生真面目なアーティスト然としてなくて、もっと人間的な尺度ですごくパワフルなことをする……そこにインテリジェンスを感じました。たった5分間の喧嘩に見えるけど粗暴じゃない。
 彼らがパフォーマンスを行ったのは通常、住民も立ち入り禁止の場所です。ですから、厳密な見方をすると違法(笑)。使おうと思った古い建物は老朽化が激しくて危険だし、地盤を掘ったりもできない。使用許可を申請したら、まず下りないところです。でも彼らがつくった美術は素晴らしかった。ならば、やってしまおうと決めました(笑)。もしも誰かが警察を呼んでいたら中止せざるをえないところでしたが、2晩やって誰も警察を呼んだりしませんでした(笑)。

──それはまた根性が座っていますね(笑)。
 もちろん別の場所では「町の平和が乱れる」と警察に通報されたことはあります。イタリアのヴィットリオ・シェーンの作品は、自転車に乗った人々が公道にしばらく倒れ、また元の日常に戻っていくものだったのですが、「事故が起こる」と通報されました。そこはちゃんと許可を取っていた場所だから助かりましたが、人の反応は面白いですね。本当に危険な場所での公演は受け入れられて、安全だと許可を得た地域で通報される。「みんなに喜んでもらいたかったのに」とダンサーが憤慨したこともありますが、地域からネガティブな反応を受けるのは、アーティストにとってとても良い経験になると思います。彼らは自分の居場所を得るために、ときに社会と戦うことも必要で、いつでも歓迎されるわけじゃない。様々なリアクションから自分を守るために心の準備をしておく必要がありますから。

──「Dance Move Cities」では、ブリュッセルとオセロを拠点に各国の非演劇空間でパフォーマンスを展開している「fieldworks」を主宰するハイネ・アヴダルと篠崎由紀子も招聘されました。彼らは日本の庭園の「借景」という概念を用いた「Borrowed Landscape Project」の一環で『青山借景』(2015)などを発表しています。大小様々な箱を変化する舞台装置として使って、最後は観客にシャンパンを振る舞って終わる(笑)。
 あれは良い作品ですね。彼らにはリガ郊外の小さな町にレジデンスしてもらい、町の中心にある住宅地の古いヴィラの中を回りながら見る作品を、地元のパフォーマーとつくってもらいました。一度に8人くらいしか参加できないツアー形式で、アーティストはキューブの中に隠れていて、こっそり観客の後ろを付いていく。やることはそれだけで、冬でしたし寒いし誰も来ないだろうと思っていましたが、ものすごく沢山人が来て、さばくのが大変でした。でも素晴らしかった。しかもその後、地元のアーティストがハイネと由希子と仕事を始めて、今一緒にツアーしているんですよ。


未来に向けて

──あなたは以前、「ラトビアには良いダンサーはいても良い振付家は難しい」とおっしゃっていました。どこの国も抱える問題だとは思いますが、教育についてはどう思われますか。

 残念ながら、これという答えはありません。私たちにできるのは、基本的にアーティスティックなプロジェクトを通してサポートすること。そしてダンス教育を受けてきた若いアーティストをベテランや他国のアーティストとコラボレーションさせる機会をつくることくらいです。そして大切なのは対等に付き合うことです。ラトビア人アーティストが、有名な外国人アーティストのアシスタントになってしまっては意味がない。
 空間との関わり方、使える可能性のある表現方法、ドラマトゥルギーのセミナーなど、多角的にアプローチするプログラムも持っています。ラトビアでドラマといえば芝居のことを指すので、「ダンスにドラマトゥルギーを取り入れる」といっても、なかなか理解されませんが、テキストに書かれた物語と、ダンスで語る物語はどう違うのかを学ぶ必要があります。これは私が個人的に興味を持っていることでもあります。
 またラトビアで振付家として生き残るには、演劇などの仕事、教育、自分のクリエイションなど、臨機応変に色々やっていく必要があります。でもとにかく忙しければ良いというわけではなく、考える時間をしっかり取ることが大切です。2時間でつくった作品は、そういう風に見えてしまいますから。とはいえ、経済的な余裕がなくてそんなことを言っていられないこともありますが。

──若いアーティストにこそ国は助成すべきだと思います。
 演劇にも映画にも音楽にも国からの継続的な助成はありますが、コンテンポラリーダンスにはありません。プロジェクト毎に申請して、公演が終わればそれで終わり。育成するために継続して行われるものではありません。欧州文化首都のとき、1年間にわたって毎月何かが起こっているような長期型のプロジェクトにしたのは、継続助成につながればという意図もありました。

──バルトの他の国との交流は盛んですか。
 動静を知ってはいるけど、交流はそんなにありません。エストニアには定期的に行っていて、フェスティバルや通常の公演も協働でやっています。
 バルト三国は、2018年に独立100周年を迎えます。その記念としてラトビア、エストニアで共同プロジェクトが進んでいます。バルト海に近いラトビアとエストニア両方にまたがって住んでいるマイノリティ民族のグループがいます。彼らの言語はエストニア語に近いものの、今では人の名前や地名ぐらいしか残っていないので、ラトビアでは事実上彼らは「いなくなった」ことになっています。実際、かなり同化してしまっているので、もう一度自分たちの言葉を覚え直している現状です。彼らのことを研究している人もいるので、今回はそこにダンサーや映画監督やサウンドアーティスト、写真家などがレジデンスします。これまでもエクスチェンジの経験ならありますが、両国のアーティストが一緒に新しい創作を行うのは初めてです。
 これは前衛的な取り組みというよりも、国や国民のアイデンティティに重きが置かれているプロジェクトなので、少し恐い気もしています。今のヨーロッパでナショナル・アイデンティティに注目しようとする選択は、個人的には賛同できない事もいろいろありますから。

──独立100周年という節目であれば、国家のアイデンティティを問い直すことにはなるでしょうね。
 はい。実際ロシアは昔と変わらずそこにありますし、また占領されるんじゃないかという恐怖感は拭いがたくあります。いつも何かのもめ事が起こり、これからどうなるか予測不可能です。過去のソ連併合はラトビア国民にとって結構なトラウマになっています。自分たちが何者なのかよく分からなくなった。多くの信頼、責任、オープンさといったものを失った。今も自分たちが何者なのか、自問し続けています。

──ラトビアでは政治的メッセージ性の強い作品が多いですか。
 演劇ではいくつかありますが、ダンスではほとんどないですね。一般的な雰囲気として、そういうことに注目していない感じがします。90年代にはすごく強かったのですが、考えすぎて疲れてしまったのか、情熱的ではなくなりました。91年の独立直後は、ある意味カオスでした。そして文化的に国のリーダーだった人たちが予算の取りあいや醜い権力闘争を繰り広げて、活動を止めてしまったり、実業家や政治家になった人もいました。そういう人たちを見てきた若い人は政治的な活動に幻滅した面があります。
 ただ他国のアーティストと交流することで、影響を受けている人もいます。ラトビア人が話したがらない近代史や政治的な問題をテーマにしたプロジェクトをやっている若いアーティストが出てきています。ある人は「イギリスの人と仕事をしたとき、アートで政治的なメッセージを伝える活動もできるんだと初めて気づいた」と言っていました。例えばドイツでは社会的なメッセージなしに芸術の場所を獲得できませんが、ラトビアはそれとは全く違いますが、交流の影響や変化はあると思います

──あなたが注目している若いラトビア人アーティストはいますか。
 クリスティン・ブリニーナ(Kristine Brinina)はcontact Gonzoや、様々な人とコラボレーションしています。クリサニス・サンツ(Krisanis Sants)は2015年に初めて作品を発表して以来、様々な賞をとっています。二人ともP.A.R.T.S.(ベルギーのローザスのダンス学校)出身です。

──基本的にアーティストはインディペンデントなのでしょうか。
 そうですね。ダンスカンパニーを名乗っている人もいますが、実情は個々がそれぞれのスタイルを追求していて、必要なときにコラボレーションしている感じです。もうカンパニーの時代ではないと思います。

──民族舞踊とコンテンポラリーダンスのコラボレーションはありますか。
 ほとんどありません。外国の振付家から、「なぜラトビアは伝統的な民族舞踊を探求しないのか」とよく聞かれます。外からそういう意見が出るのは面白いです。私たちにすれば、ソ連時代に民族舞踊は嫌というほどやらされてきましたから。「民族舞踊は生活の中にあるのに、コンテンポラリーダンスとして探求する必要がどこにあるの?」という気分です。ラトビアの人間は誰でも民族舞踊を踊れるとわかると、外国人は驚きます(笑)。民族舞踊が一般的ではなくなってしまっている国の人に限って、「コンテンポラリーダンスに民族舞踊を!」と訴える。彼らはコンテンポラリーダンスに組み入れることで民族舞踊をリサイクルしてるんじゃないでしょうか。高尚な芸術に進化したものもありますが、ラトビア人にとって民族舞踊は基本的には小さな部屋に近所の人が集まってビールを飲みながら踊るようなものなんです(笑)。

──海外からのコンテンポラリーダンスの招聘公演に観客は来ますか。
 ビッグネームには人が来ます。リガの人々は劇場との結びつきが強いので、ある程度は内容に関係なく人が来ます。オペラ座はいつも満席です。日本のカンパニーでは、私は20年ぐらい前にダムタイプをオペラ座で見ましたし、最近では梅田宏明も人気でした。

──最後に、あなたがディレクターとして、今後活動していく方針を聞かせてください。
 大きな質問ですね。正直わからないです。アーティストも流動的に活動領域を広げていくので、私もダンスから少し離れてフィールドを拡大したいと思っています。今回、セゾン文化財団のヴィジティング・フェローで来日して、神戸のダンスボックスにも行きました。その時にダンスの話だけでなく、音楽や詩のプロジェクトなど多岐にわたって話し合いました。これは私にとって少なからず驚きでした。ラトビアではダンスの人はダンスだけ。自分が学んだジャンルから動かない。こういう広がり方は素晴らしいと思います。今仕事をしているラトビアのスタッフもボーダーレスにジャンプするタイプなので、いろいろと今回の成果を持ち帰ってみたいと思います。
 
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