The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ラウラ・スタザネ
ラウラ・スタザネ(Laura Stasane)
New Theatre Institute of Latvia(NTIL)
New Theatre Institute of Latvia
Presenter Interview
2018.3.23
New Theatre Institute of Latvia (NTIL)   Leading the Latvia Performing Arts World since the 1990 
90年代以降の舞台芸術シーンを牽引するニュー・シアター・インスティチュート・オブ・ラトビア 
バルト海東岸に位置し、1991年にソ連から独立したラトビア共和国。首都リガを拠点に活動し、同国を代表する舞台芸術フェスティバル「Homo Novus(ホモ・ノヴォス)」を手がけるNew Theatre Institute of Latvia(NTIL)の共同プロデューサー、ラウラ・スタザネ(Laura Stasane)。日本にはほとんど知られていないラトビアのインディペンデントな舞台芸術シーンについてインタビュー。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

──ラトビアは1991年にソ連から独立し現在の形となりました。2004年にはEUに加盟しています。ラトビアのアーティストの環境はどう変わったと思いますか。
 最も大きな変化はモビリティです。昔はラトビア国外に出るにはビザを取る必要があり、他国から人が来るのにも様々な制約がありました。海外の空港でEUパスポートの人たちの列を見ると、うらやましかったものです。他国への往き来が楽だったら、ラトビア人アーティストはもっと外に出ていたでしょう。
 現在はEUから芸術的な活動に対する様々な助成金が出ていますし、アーティストの活動の範囲や可能性が大きく広がったといえます。私たちのプロジェクトも、規模やできることが変わりました。独立したとはいえ、大国ロシアとの関係を考えると、ラトビアがEUに加入して良かったと思っています。

──ラトビアは人口約196万人(栃木県の人口とほぼ同じ)です。人口比率でいうと、約60%がラトビア人、約25%がロシア人です。歴史的にもロシアの影響下にいた時期が長かった。今もロシアの文化は影響していますか。
 それはあります。芸術においても一般的なものの見方においてもロシアからの影響はあります。しかし、ロシアとラトビアの文化は、融合というより並行して存在している感じで、自然にそうなってきています。

──あなたはNTILのプロデューサー兼プログラム・ディレクターです。まずは、あなた自身のバックグラウンドについても聞かせてください。
 私がソ連時代に生まれ育ったこと、そして1991年のラトビア独立を経験したことは非常に重要です。私の生まれた国はもう存在しておらず、同じ町に住んでいても違う国なのですから。「独立後は自由であるべき」という考えを、ラトビアの社会はずっと持ち続けてきました。それは私の祖父母の世代が第一次大戦後に経験した最初の独立(1918年)の記憶であり、自由を希求する気持ちは私たちの世代にも引き継がれていました。ただ私が生きている間にソ連から独立できるとは思っていませんでした。でも、私がまだティーンエージャーだった1991年、独立が実現しました。
 18歳のとき、私はノルウェー語を学びにノルウェーに留学し、高校に通いました。多感な時期にノルウェーの田舎の小さな村で過ごした経験は大きかったですね。帰国後は首都リガにある大学の国際文化関係の学科に通いましたが、水準的に満足できず1年で退学。ノルウェーの大学に移ってビジュアル・コミュニケーション学を学びました。これは建築・映画・文化人類学など様々な分野について、イメージを使ってどうコミュニケーションするかという研究です。視覚教育と概念について考えることが中心でした。
 勉強を終えて帰国したとき、リガで精力的に活動しているダンサーで振付家のオルガ・ズィトゥルヒナの公演を観ました。コンテンポラリーダンスは、私の中でそれまで学んできたビジュアル・コミュニケーション学とぴったり合うと思いました。ダンスはあらゆる意味で演劇以上に視覚的で抽象的な芸術であり、あらすじや物語を追う必要はありません。

──オルガさんはどんなダンサーでしたか。
 彼女はラトビアのコンテンポラリーダンスのパイオニアです。元々バレエの教育を受けていましたが、90年代にバルト地域のダンサーと共にアメリカンダンスフェスティバルのサマーコースを受けて、コンテンポラリーダンスと出会った。彼女は帰国後にカンパニーを設立し、この新しい様式を教え、後に大学にダンス学科を創設します。
 私も評判を聞いて彼女のクラスを受けました。そしてオルガはリガのアカデミー・オブ・カルチャーにダンス学科を創設します。このころ私は、広告会社でフルタイムで働いていたのですが、いてもたってもいられなくなり、上司の許可をもらい、朝ダンスの授業を受けて、昼から仕事に戻るというハードな毎日を送っていました。やがてオルガのマネジメントも手伝うようになり、広告業かマネジメント業か、どちらかを選ばなければいけなくなった。「指を入れたなら、手まで全部入れろ」というラトビアの言い回しがありますが、私は思い切って広告の仕事を辞めてフリーになりました。

──しかしラトビアのダンスのマネジメントでフリーで生きていくのは……。
 思ったより、ずっと厳しかったです(笑)。私がフリーになって最初に国外から招いたダンサーのことは忘れられません。フランスのザヴィエル・ル・ロイのコンセプチュアルな作品で、いわゆるダンスではありません。レクチャーパフォーマンスとダンスで、ラトビアでは見られないファンタスティックな作品です。でも、リガでフリーランスでコンテポラリーアートの仕事をするのには限界があり、いつもお金がなくて生活のためにアルバイトをしていました。そんな時、現在勤めているNTILでアートマネージャーの研修プログラムを受け、2005年にチームの一員になりました。


New Theatre Institute of Latvia(NTIL)とフェスティバル

──NTILは1998年に33人のインディペンデント・アーティストが集まって設立された団体です。

 はい。創立メンバーは俳優・監督・マネージャーと多彩で、それぞれが今では有名になっています。彼らも当時は若くて血気盛んでした。団体を設立するときには、保証のために財産を用意する必要があったのですが、金のなかった彼らは自転車などゴチャゴチャした物をもってきたそうです。
 NTILはもともと「Homo Novus」という国際演劇祭を運営するために設立されました。当時はパフォーミングアーツにおける国際交流はほとんど行われていませんでした。Pēteris Krilovsという映画監督が演劇を教えていた当時、リトアニア、エストニア、フィンランドなどの近隣諸国と学生同士の交流の場を作りたいと考え、第1回のHomo Novusは彼の学生たちと協力して手づくりで行われました。非常に雰囲気の良いフェスティバルで、こういうモチベーションの高さは、いわゆる正統派の教育より大事です。大学でアートマネジメントの学位を持っているかどうかより、やりたいと強く思うことのほうが、よほど大事です。

──あなたがNTILに入った2005年当時、スタッフは数人しかいなかったそうですね。
 4〜5人でしたね。でも今よりも多いです。私が入ってすぐにやめた人もいます。次の世代に引き継ぐまでギリギリ頑張っていたという感じです。最初のうちは知識のないまま、興味だけの手探りでした。国際的なシーンもほとんど知りませんが、待っていてもアーティストはラトビアに来てくれません。私たちはとにかく海外に出て行って、何がリガのフェスティバルにふさわしいのか、見て考えました。

──ラトビアでコンテンポラリーダンスが始まったのはいつ頃だと考えていますか。
 いい質問ですね、コンテンポラリーダンスをどう定義するかによって違いはありますが、まずは、現在のラトビアの様式を作り上げたのはオルガです。さらに同時代の80〜90年代に活動したアンシス・ルーテンタルス(Ansis Rūtentāls)も重要人物です。ルーテタルスは20年にわたり自身のカンパニー「ムーブメント・シアター」を率い、アバンギャルドでメッセージ性の強いパントマイムの作品を発表していました。残念ながら2000年の彼の死後、彼のカンパニーには勢いがなくなってしまいました。
 私たちは「コンテンポラリーダンス」を認知してもらうよう長い間努力していますが、ラトビアでは現在でも、単純に「ダンス」と言ったときに人々が頭に浮かべるのはバレエや社交ダンス、フォークダンスなどです。
 ソ連時代からバレエはとても強固なものでした。フォークダンスは少し複雑で、ソ連時代に禁止されていたラトビアの国民的なアイデンティティを象徴するものでした。しかし同時に労働者のためのものとして受け入れられています。よってどんな小さな村や学校にもフォークダンスのグループがありました。なかには非常にレベルが高いものもあります。ですので、実際はどこか「民族舞踊風のバレエ」のようでもあり、現在の様式とはほとんど無関係です。

──そういう背景のところに、1991年の独立で西側の自由な表現が一気に入ってきたわけですが、「世の中にはコンテンポラリーダンスという自由で豊かな表現があるのか!」という、若いアーティストのフィーバーはなかったのですか。
 ……なかったですね。静かで、なぜだろうと私も驚きました。ラトビアは地理的にヨーロッパの端に位置する国です。他国と文化やアイデアの交流はあまりありませんでした。人々が流動的に動き回って交流しているフランスやドイツ、ベルギーのような文化的な国々とは異なります。EU加盟で移動や渡航の自由が生まれたのは確かです。しかしラトビア人は一般的に、今いる場所に留まる傾向があり、いったん海外に出るともう戻ってこないという感じです。

──話をNTILに戻しますが、年間予算はどれくらいですか。
 年によりますが、国の経済状況によります。数字はいえませんが、ドイツやベルギーの組織やフェスとは比べものにならないくらい小さな予算ですが、内容はちゃんとしていると思います。ラトビア人は私たちに予算以上の大きな期待を寄せてくれています。
 文化省が公募する3年間の補助金を得て、運営費の一部をカバーしています。残りの予算は他の助成団体からの支援です。もっとも大きな財源はラトビアン・ステート・カルチャー・キャピタル・ファウンデーション(SCCF)からの支援で、プロジェクトや特別なプログラムに対して定期的に公募が出ます。あとは年に一度、シティ・カウンシルにも応募できます。しかし、地元の財源だけでは国際的な活動はできません。私たちは現在、EUの「クリエイティブ・ヨーロッパ」プログラムのネットワークパートナーとなり、経費の50%をEUからサポートしてもらっています。

──劇場は持っていないのですか。
 ありませんが、私たちは公演だけでなく様々な活動を行っています。トレーニングやレジデンス、教育プログラムなど、一般向けに限らず様々なイベントを行っています。また、他の施設や、都市空間をつかったコラボレーションも多彩です。つまり一般に向けた定期的なプログラムを行う劇場をあえて持たない、という意図的な選択をしていますし、それによりまったく異なるリアリティーを持っています。

──NTILは1995年からフェスティバル「Homo Novus」を開催しています。
 大多数のラトビア人にとって公演やコンサート、展覧会に出かけること自体は生活に根付いていましたが、ソ連時代には日常の生活に自由を感じられる場所はありませんでした。レパートリーシアターというソビエトの伝統的なシステムは今日も根強くあります。質は高いですが、新しいフォーマットのものはほとんどありません。Homo Novusでは、観客に対し、アーティストが責任をもって新しい体験や考え方を紹介したり、新しいアプローチやフォーマットを提案したりしています。世界の別の場所で起こるコンテクストや問題を通して、自分たちだけが孤立した存在ではないことを気づかせる作品を提示したり、今も1995年と同じぐらい大事な時期であることを気づかせてくれるのです。フェスティバルは現在、街のいたるところで行われています。廃ビルや廃工場などを使って、地元の人々が自分たちの街と新たな関わりをもつきっかけをアーティストを通して提供します。つまり、ありきたりの作品のリズムから、新しいコンテクストを得て新たな機会を生み出しているのです。

──レジデンス・プログラムもあるようですね。
 はい。といってもオフィシャルなレジデンスの場所というものがあるわけではありません。ラトビアは小さな国で、関係者は大体知り合いなので。場所は、スタジオ、個人宅など多様ですが、基本的に私たちがキュレーションします。
 リガにはソ連が崩壊したときに停止したままの工場や建物が残っていますので、それらを「資源」として使うことが創作にどう作用するか、可能性として面白いと思っています。2009年の欧州債務危機(ギリシャの債務危機がヨーロッパ全体に波及した)の頃は、さらに多くの建物が空きましたし、建築途中で放棄されたりしました。都市のあちこちに空きスペースが転がっているので、「使わせてほしい」と電話をかけるとOKしてくれる方が多いです。これもアーティストや観客が私たちの住む地元の方と強いつながりをつくる方法でもあります。

──場所の使用料は払うのですか。
 契約内容によりますが、払う場合でも劇場を借りるよりはずっと安いはずです。2011年には、廃校になっていたリガの古い音楽学校をフェスティバルセンターとして使いました。町の中央にあり、美しい木造建築で素晴らしい庭までありましたが、空家になっていました。しかしフェスティバルを契機に、建物のポテンシャルが再評価され、若者たちによりアートセンターとして再生されました。今ではリガの若者の人気スポットとなり、バーも併設してコンサートや映画上映、パフォーマンスの会場にもなっています。フェス自体は永遠のものではありませんが、それをきっかけに街の恒久施設が甦るのは素晴らしいと思います。

──公共の場所でやるのはユニークですが、集客の面では厳しくないですか。写真で拝見すると住居ビルの間のスペースでやったものなどもありますが、一度に観られる観客数には限りがあります。
 あのビルは9階建てで、周囲のビルからも大勢がバルコニーに出て見ていました(笑)。まるで円形劇場みたいでした。劇場のダンス公演でも100〜200人くらいですから、ずっと多かったんじゃないでしょうか。ただ本当に大切なのは人数よりも、いかに観客の胸を打つものを見せるかです。以前、図書館で地元の人々とジェスチャーについてのプロジェクトをやったことがありました。ずいぶん後になって、そのときの参加者から「あれは奇妙な体験だった。素晴らしさを実感するのに時間がかかったけど」と言われました。それが重要なことだと思います。


欧州文化首都と「Dance Moves Cities」

──2014年にリガは欧州文化首都に指定されました。プロジェクトにも大きな予算が付きました。

 しかし、私たちはそこで一度立ち止まって考えました。確かに従来のフェスティバルの型を踏襲すれば、大規模のものができるでしょう。しかしどうせなら、ありきたりのフェスティバルのフォーマットに当てはまらないようなことを試してみようと思ったのです。そこでフェスティバルの気分を超える新しいプロジェクトを1年を通して行いました。一年中毎月のように何か大きなイベントがあるようなプログラムになりました。

──日本からはcontact Gonzo(コンタクト・ゴンゾ)が招聘されました。
 私がキュレーターをしている国際プロジェクト「Dance Moves Cities」で招聘しました。これは、アーティストを招いて数カ国でレジデンスを行い、地元のアーティストと作品をつくるプロジェクトです。EUの出資でリガ・クラクフ(ポーランド)・テルニ(イタリア)の3都市共同の2カ年プロジェクトになったんです。contact Gonzoは、2011年に横浜の美術館ロビーで彫刻とからむ5分程度の作品を見て「なんだこれ?!すごい!何とかして一緒に仕事しなきゃ!」と胸を掴まれました。
 彼らはリガの近くに3週間滞在し、地元のダンサーと一緒にクリエイションをしました。その結果、歴史的建造物がたくさんある場所で、インスタレーションをし、ライブパフォーマンスを行いました。それはもう黙示録さながらの光景でした! 欧州文化首都イベントなので国内から多くの人が見に来ました。地元の住民も「何をやってるんだ?」と興味津々でした。contact Gonzoはラトビアのダンサーたちに新しい視野を与えてくれました。通りすがりの人たちが、激しく身体をぶつけ合うパフォーマンスをみて、喧嘩しているのではと心配したり。パフォーマンスのあと、何人かの淑女が来て、このイベントのためにリガからはるばるやって来たんだと言うので、私は腹を立てているのでは、と最初は心配していたのですが、彼女たちはとても喜んでくれました。

──地方に持っていくのなら、誰でも喜ぶような「美しいダンス」の方が安全だとは考えませんでしたか。
 私自身、そういうダンスには飽きているんです(笑)。contact Gonzoの正直さ、ユーモアのセンスも好きです。真剣に戦っているかと思ったらいきなり笑えるようなことやる。生真面目なアーティスト然としてなくて、もっと人間的な尺度ですごくパワフルなことをする……そこにインテリジェンスを感じました。たった5分間の喧嘩に見えるけど粗暴じゃない。
 彼らがパフォーマンスを行ったのは通常、リガの住民も立ち入り禁止の場所です。ですから、厳密な見方をすると違法(笑)。使用許可を申請したら、まず下りないところです。でも彼らがつくった美術は素晴らしかった。ならば、やってしまおうと決めました。もしも誰かが警察を呼んでいたら中止せざるをえないところでしたが、2晩やって誰も警察を呼んだりしませんでした(笑)。

──それはまた根性が座っていますね(笑)。
 もちろん別の場所では「町の平和と秩序が乱れる」と警察に通報されたことはあります。人の反応は面白いですね。本当に危険な場所での公演は受け入れられて、安全だと許可を得た地域で通報される。地域からネガティブな反応を受けるのは、アーティストにとっても私たちにとっても現実を知るためにも、時に大事な経験になると思います。

──Dance Moves Citiesでは、ブリュッセルとオセロを拠点に各国の非演劇空間でパフォーマンスを展開している「fieldworks」を主宰するハイネ・アヴダルと篠崎由紀子も招聘されました。彼らは日本の庭園の「借景」という概念を用いた「Borrowed Landscape Project」の一環で『青山借景』(2015)などを発表しています。大小様々な箱を変化する舞台装置として使って、最後は観客にシャンパンを振る舞って終わる(笑)。
 彼らには小さな町にレジデンスしてもらい、町のコンテクストを用いて地元のパフォーマーと作品をつくってもらいました。パフォーマーが少人数のグループの観客を導いて古いヴィラを通り、そこに現れる謎めいた大小ある黒い部屋で言葉を用いずに行われるパフォーマンスです。一度に少人数のグループなので、観客は最後の一人まで見ることができるよう、公演期間を延ばし続けました。最後にはみな本当に疲れ果てましたが、素晴らしいことでした。しかもその後、地元のアーティストがハイネと由紀子の作品に加わり、今一緒にツアーしているんですよ。


未来に向けて

──あなたは以前、「ラトビアには良いダンサーはいても良い振付家は難しい」とおっしゃっていました。どこの国も抱える問題だとは思いますが、教育についてはどう思われますか。

 残念ながら、これという答えはありません。私たちにできるのは、基本的にアーティスティックなプロジェクトを通してサポートすること。そしてダンス教育を受けてきた若いアーティストを他国のアーティストとコラボレーションさせる機会をつくることくらいです。そして大切なのは対等に付き合うことです。
 空間との関わり方、使える可能性のある表現方法、ドラマトゥルギーのセミナーなど、多角的にアプローチするトレーニングプログラムも提案しています。ラトビアで「ドラマ」といえば芝居のことを指すので、「ダンスにドラマトゥルギーを取り入れる」といっても、なかなか理解されませんが、テキストに書かれた物語と、ダンスで語る物語はどう違うのかを学ぶ必要があります。これは私が個人的に興味を持っていることでもあります。
 またラトビアで振付家として生き残るには、演劇などの仕事、教育、自分のクリエイションなど、臨機応変に色々やっていく必要があります。でもとにかく忙しければ良いというわけではなく、考える時間をしっかり取ることが大切です。2時間でつくった作品は、そういう風に見えてしまいますから。とはいえ、経済的な余裕がなくてそんなことを言っていられないこともありますが。

──若いアーティストにこそ国は助成すべきだと思います。
 演劇にも映画にも音楽にも国からの継続的な助成はありますが、コンテンポラリーダンスにはありません。プロジェクト毎に申請して、公演が終わればそれで終わり。育成するために継続して行われるものではありません。欧州文化首都のとき、1年間にわたって毎月何かが起こっているような長期型のプロジェクトにしたのは、そういう意図もありました。

──バルトの他の国との交流は盛んですか。
 動静を知ってはいるけど、交流はそんなにありません。エストニアとは定期的な交流も多く、共同制作やゲストパフォーマンスなどのコラボレーションを行っています。
 バルト三国は、2018年に独立100周年を迎えます。その記念としてラトビアとエストニアのアーティストによる初めての共同制作が進んでいます。かつてバルト海に近いラトビアとエストニア両方にまたがって住み、現在では絶滅しかけているマイノリティ民族のリボニア人の運命を題材に選びました。面白いのは、若いアーティストたちは国家のアイデンティティというよりも、絶滅することが本当に悲劇なのかどうかという哲学的な問いを投げかけている点です。

──独立100周年という節目であれば、国家のアイデンティティを問い直すことにもなるでしょうね。
 答えはイエス・ノー両方です。ラトビアでは私たちはこの問題に対して健全な態度を取っているとは思いません。私たちは変わりゆく世界の現実を直視する代わりに、過去の古き良き時代にすがっているとも言えます。そう考えるのは、自分たちは小さい弱国だという思いがあるから、そしてロシア統治時代の記憶、ダメージ、ロシアに対する恐怖感がまだあります。1990年代の市場経済の暴落は、91年の「歌う革命」で結束を固めていた人々があっという間に分断されてしまいました。そして現在は90年代生まれの若い世代が現れ、自由と独立した国家しか知らないのです。複雑な価値観であることは間違いありません。

──ラトビアでは政治的メッセージ性の強い作品が多いですか。
 演劇ではいくつかありますが、ダンスではほとんどないですね。一般的な雰囲気として、そういうことに注目していない感じがします。ラトビア人が話したがらない近代史や政治的な問題をテーマにしたプロジェクトをやっている若いアーティストが出てきています。しかし、これらはごく個別のものです。多くの人が追い求める方向ではありません。それはおそらく芸術における教育の影響と結果であろうと思われます。Homo Novusフェスティバルは、その点でも別の視点をもたらそうとしています。 Homo Novusでは多くの作品が政治的なメッセージを持っており、ラトビアの観客はそのような作品を非常に高く評価してくれています。

──あなたが注目している若いラトビア人アーティストはいますか。
 クリスティン・ブリニーナ(Kristine Brinina)はcontact Gonzoや、様々な人とコラボレーションしています。クリサニス・サンツ(Krisanis Sants)は2015年に初めて作品を発表して以来、様々な賞をとっています。二人ともP.A.R.T.S.(ベルギーのローザスのダンス学校)出身です。

──基本的にアーティストはインディペンデントなのでしょうか。
 はい、そう思います。ただ、インディペンデントであることは評価され、支持されるべきです。私はもうカンパニーの時代ではないと思います。階層的な意味合いよりももっとコラボレーションであるべきだし、共存するものなのです。

──民族舞踊とコンテンポラリーダンスのコラボレーションはありますか。
 ほとんどありません。外国の振付家からよく聞かれます。外からそういう意見が出るのは面白いです。「民族舞踊は生活の中にあるのに、コンテンポラリーダンスとして探求する必要がどこにあるの?」という気分です。おそらく両者を遠ざける必要はないと思います。ラトビアの人間は誰でも民族舞踊を踊れるとわかると、外国人は驚きます(笑)。

──海外からのコンテンポラリーダンスの招聘公演に観客は来ますか。
 はい、私たちはそのために努力しています。リガの人々は劇場との結びつきが強いので、ある程度は内容に関係なく人が来ます。例えば、オペラハウスにアーティストを呼ぶと、劇場に付いているオペラファンが見に来てくれます。同じアーティストで、廃工場でやっても見に来てはくれないでしょう。また逆も同じです。何年も前、ダムタイプの作品をオペラハウスで上演することになり、彼らは全く知られていないのにすぐにソールドアウトになってしまいました。

──最後に、あなたがディレクターとして、今後活動していく方針を聞かせてください。
 答えは一つではありませんが、国際的なものと現地的なコンテクストにおいて何が起こっているのか、それらをどうやって結びつけるのか、単に地理的なことだけではなく未知の領域へ行くにはどうすればいいのか。アーティストと観客の間の寛大さを生み出すにはどうすればいいのか。今回セゾン文化財団のプログラムの客員研究員として来日し、神戸のダンスボックスなどに行きました。自由度のある多領域の中に音楽や詩のプロジェクトなどが自然に含まれているのが気に入りました。また、城崎国際アートセンターでは、レジデンスアーティストが24時間利用可能であるという方針がありました。アーティストや創造性が常に中心であり、そこから作品を生み出すという姿勢に感動しました。いずれの現場も温かい雰囲気をもっています。来日中に訪れたほとんどの現場で感じた寛大な精神をラトビアに持って帰ろうと思います。
 
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