The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
キト・テンベ
キト・テンベ
Quito Abrao Tembe

Kinani
コンテンポラリーダンスの普及や若手振付家の育成を目指す国際的なプラットフォーム。2年に1度10月にマプト市において約1週間開催される。毎年各国から約30のカンパニー、約100名のアーティストが参加する。2017年には、14カ国から50名の振付師が参加し、25の作品が上演された。会場として使用されるのは、CCFM、アベニーダ劇場(Teatro Avenida)、漁業博物館(Museu das Pescas)、オルタナティブ・スペースEspaço alternatevo 4ºandarなど。アンスティチュ・フランセ(Instituto France)、カモインス-ポルトガル文化センター(Camões -Centro Cultural Português)、スイス・アーツ・カウンシル、Pro Helveita、CCFM、スイス開発協力庁(The Swiss Agency for Development and Cooperation)、Fundo para o Desenvolvimento Artístico e Cultural(FUNDAC)、ヨーロッパカー(Europcar)などが主な助成団体。
https://www.facebook.com/pg/kinani.moz/about/
Kinaniの様子
Kinani
Kinani Photo: Yassmin Santos Forte
*1 カーザ・ベーリャは植民地時代に建てられた建築物で、独立後はジャーナリストMachado da Graçaを中心とする多くの文化人の支援を受けながら、芝居、舞踊を中心とした文化的活動の会場として用いられるようになった。現在、この建物は文化遺産として保護されている。
カーザ・ベーリャ
カーザ・ベーリャ
撮影:古謝麻耶子
*2 1995年にフランス政府によって設立されたカルチャーセンターで、フランス大使館に併設されている。モザンビークの文化振興などを目的としたアーティストの支援を行っている。
https://www.ccfmoz.com
*3 共に国立歌舞団の振付家、ダンサー。キューバでダンスを学んだ経験を持つ。
*4 ダンス・ホワット・イズ・アワーズ
(Dançar o que é nosso)
http://www.alkantara.pt/dancas-na-cidade/
*5 リスボンを拠点に活動する組織で、2年に一度アルカンタラ・フェスティバルを行う。アーティスト育成プログラム、作品上演、レジデンシャル・アート事業、アート関連の調査研究、国際交流などの活動を展開している。
http://www.alkantara.pt/en/alkantara/
*6 バイラードはポルトガル語で西洋バレエの意味。西洋の舞台芸術の要素を取り入れながら、民族舞踊、民族音楽を用いてストーリーを展開するという新しい芸能のジャンル。通常、数十人の踊り手、数名の伝統楽器演奏者(主に太鼓やティンビラという木琴など)により、セリフを用いず、主に舞踊とパントマイムにより表現。フランス語圏のアフリカの国々においては、アフリカ・バレエと呼ばれる。
*7 アンスティチュ・フランセ(Institute Français)によって1995年に創設されたアフリカで最も規模の大きいコンテンポラリーダンスのプラットフォーム。アフリカ各国を持ち回り隔年で開催。公演以外にも、展示、ディスカッション、インタラクティブ・セッション、交流プログラムなどが行われる。主な助成団体は、アンスティチュ・フランセ、トタル Totalなどである。2015年の第10回Danse L’Afrique DanseはモザンビークでKinaniと共催で行われた。
廃墟での上演
Kinani Photo: Chico Carneiro
Presenter Interview
2018.4.10
Mozambique’s Emerging Contemporary Dance Scene 
知られざるモザンビークのコンテンポラリーダンス・シーン 
アフリカの大陸南東部に位置する多民族国家であり、豊かな民族舞踊を有するモザンビーク。1975年にポルトガルから独立し、15年続いた社会主義時代には国民意識発揚を目的とした舞台芸術を振興。90年以降には民主化による社会変革でニューウェイブが生まれるなどダイナミックに変化している。2005年には首都マプト市でコンテンポラリーダンスの国際的なフェスティバル「Kinani」がスタート。Kinaniは、コンテンポラリーダンスの普及や若手振付家の育成を目指し、市内の劇場だけでなく、建設途中で放置された建物や廃墟などを会場として展開。フェスティバルの仕掛け人、キト・テンベ(1980年生まれ)にモザンビークの舞台芸術の最前線をインタビュー。
聞き手:古謝麻耶子

──キトさんとダンスの出会いを教えてください。
 私は子どもの頃から文化会館カーザ・ベーリャ(Associação Cultureal da Casa Velha)(*1)に通い、民族舞踊団マスカラ(Companhia de Dança Tradicional Mascara)でモザンビーク南部の民族舞踊を踊っていました。また、15、16歳の頃から劇団オラ(Produção Olá)にも所属して役者として活動しました。さまざまな文化的活動が行われていたカーザ・ベーリャは素晴らしいところでしたが、今はもうありません。私がこうしてここにいられるのはカーザ・ベーリャのおかげです。

──文化会館カーザ・ベーリャについて詳しく教えていただけますか。
 カーザ・ベーリャには舞台やいろいろな本や雑誌を揃えた図書館などの設備があり、写真の撮り方とか、どのように俳優になるのかなどさまざまな分野のワークショップが行われていました。ですから、踊りや芝居をするためだけでなく、いろいろな文化活動をするために、私は頻繁にカーザ・ベーリャに通っていました。小さなグループがたくさんあり、互いに学び合うということが盛んに行われていました。私は、幼い子どもたちに読み書きを教えたりもしました。
 ユニークだったのは、カーザ・ベーリャには「仕事」というカテゴリーの活動があったことです。私が初めてお金を稼いだのは、そこでやったピエロの仕事です。カーザ・ベーリャでピエロのグループをつくり、子どものパーティーなどのイベントに出演しました。この経験が私の活動の出発点になりました。
 カーザ・ベーリャの建物は政府によって提供されたものでしたが、運営していたカーザ・ベーリャ・アソシエーションは政府機関ではなく、多くの国々の組織から支援を受けていました。ほんの少しの月会費で、会員はいろいろな活動に参加できました。会員以外も、いろいろな人を広く受け入れていました。

──キトさんがコンテンポラリーダンスに興味を持つようになった経緯について教えてください。
 実はコンテンポラリーダンスは踊ったことがありません(笑)。私は舞台照明の仕事を通してコンテンポラリーダンスの世界に入りました。カーザ・ベーリャの劇団オラで役者として活動するうちに、芝居そのものよりも、芝居を上演する際の技術的なことに興味を持つようになりました。舞台という場にもっと工夫を凝らしたい、演出をより良いものにしていきたいと思い始めたのです。私が芝居を始めた当時は、舞台照明もなく、作品は黒い箱の中で上演されている状況でした。それでまずはこの状況を改善していきたいと思い、独学で工夫するようになりました。
 1997年から3年間、奨学金によりポルトガルで舞台美術を学んだ後、帰国してフリーランスの照明デザイナーになりました。さまざまな劇団や舞踊団、振付家と仕事をした後、2005年からモザンビーク-フランス文化会館(CCFM)(*2)で働き始めました。ちなみに、私はCCFMの照明スタッフになった初めてのモザンビーク人です。そこで多様なジャンルの演出家と関わるうちに、私はコンテンポラリーダンスの世界に魅了されていきました。なぜなら、これまで体験したことのない自由な世界、創造性豊かな世界が開けていたからです。私が伝統的な踊りや芝居から入ったのでますますそう感じたのかもしれませんが、決まりがないので自在に創作ができた。それはもう、本当に私を自由にしてくれる世界でした。
 また、CCFMで仕事をする間に、運営や制作の分野にも興味を持つようになりました。それで、モザンビークで初めての芸術専門大学(Instituto Superior de Artes e Cultura =ISArC)でアートマネージメントについて学び、文化的な組織が活動しやすくなる仕組みづくりについて考えるようになりました。

──モザンビーク国内でコンテンポラリーダンスが盛んになり始めたのはいつ頃ですか。
 今ここではっきりした時期を言うことはできませんが、アウグスト・クビラス(Augusto Cuvilas)やマリア・エレナ・ピント(Maria Helena Pinto)(*3)などの振付家がモザンビーク国立歌舞団(Companhia Nacional de Canto e Dança)で活躍した1990年代後半からだと思います。彼らは国立歌舞団でしばらく活躍し、独立した後プロジェクトを立ち上げました。その後、現在、マプト市でコンテンポラリーダンスを牽引している振付家パナイブラ・ガブリエル・カンダ(Panaibra Gabriel Canda)が登場しました。この3人の振付家はそれぞれスクールを立ち上げ、彼らの下で多くの若い振付家が育っていきました。
 また、1993年にポルトガルで国内外のアーティストが集うコンテンポラリーダンスのプロジェクト「ダンシーズ・イン・ザ・シティ(Danças na Cidade)」(*4)が立ち上がり、その中で1998年から「ダンス・ホワット・イズ・アワーズ(Dançar o que é nosso)」というポルトガル語圏のダンス・コミュニティを巻き込んだ交流が促進されたのも大きかったと思います。このプロジェクトは2005年から「アルカンタラ(ALKANTARA)」(*5)と名前を変え、現在も継続しています。
 ダンシーズ・イン・ザ・シティはポルトガルで生まれたプロジェクトですが、モザンビークの文化機関も関わっていました。その中に振付家育成のプロジェクトがあり、さまざまな若い振付家がマプト市に招聘されました。ちなみに、私は当時、技術部門の責任者として、ダンシーズ・イン・ザ・シティに関わっていました。このような試みが若い振付家の育成に繋がっていきました。
 
──コンテンポラリーダンスの火付け役となった振付家が活動していた国立歌舞団について教えてください。
 国立歌舞団は独立後に新政府によって設立されたものです。モザンビークはポルトガルの植民地時代に民族毎に分断されて統治されていました。ですから、独立当初、民族間の緊張を和らげることはモザンビーク政府にとって一つの課題になっていました。そこで、政府はまず国立歌舞団を設立し、そのメンバーとして全国の多様な地域・民族の人々を採用し、あらゆる民族舞踊が踊れるカンパニーにしました。
 自分たちのダンスを他の民族が上手に踊るのを見て、みんな驚きました。また、国立歌舞団が創作した作品が、さまざまな民族舞踊の要素をちりばめたものであるのを見て、人々は国立歌舞団が全国民のものであること、ひいてはモザンビークはみんなのものであるというアイデンティティを感じました。国立歌舞団は民族間の緊張を緩和し、人々の心を融合するという民族融和のための重要な役割を果たしました。
 ただ、現在の国立歌舞団は当初の役割を終え、少し目的を見失っているようにみえます。民族舞踊の世界にとどまるべきか、コンテンポラリーに進むべきか、道を探しているように見えます。

──国立歌舞団では西洋の舞台芸術の要素を取り入れた舞踊劇バイラード(*6)も創作されています。このバイラードとモザンビークのコンテンポラリーダンスには関わりがありますか。
 バイラードとコンテンポラリーダンスは全く違うものです。国立歌舞団のバイラードでは集団的な表現を追求しています。一方、コンテンポラリーダンスの世界では個人に重きが置かれ、それぞれの意思や表現が反映されます。私の作品、また、多くの世界中のコンテンポラリーダンスの振付家の作品は、より個人の内面を探索することが重要視されます。例えば、私がオーディションをしてあなたを選んだとすると、それはあなたが上手に踊るからではなく、何かのエネルギーがあるだとか、あなたの視点や考えに独特なものがあるといったことが理由でしょう。コンテンポラリーダンスの世界において踊り手という表現者は「個人」であって、ブロックではないのです。

──では、モザンビークではコンテンポラリーダンスと民族舞踊は繋がっていますか。
 民族舞踊とも演劇とも繋がっています。私たちは、「自分たちは何者なのか」「私たちとあなたたちは何が違っているのか」と自問しています。そうしたアイデンティティに関わることについて、民族舞踊や習慣をコンテンポラリーダンスの表現で扱うことは、自分の国籍やルーツを明らかにすることと同じです。つまり、自分たちの伝統文化の一部、断片的なものをコンテンポラリーダンスを通して表現するのです。そういう意味で、コンテンポラリーダンスと民族舞踊や芝居は現在も切っても切れない関係と言えます。実際、モザンビークの多くのコンテンポラリーダンスでは、民族舞踊の動きや独特の音楽性が表現として使われています。
 また、多くのダンサーは民族舞踊の踊り手でもあります。なぜならコンテンポラリーダンスのプロジェクトでは、民族舞踊団に声をかけてダンサーを募ることが多いからです。もちろん、コンテンポラリーダンスからダンスを始めた人もいます。

──Kinaniについてお伺いします。Kinaniという語にはどのような意味がありますか。 また、Kinaniを始めた経緯についてお話いただけますか。
 モザンビーク南部の言葉で「Kinani」は「みんな踊って!」という意味です。私はCCFMで勤めていた時、当時の会館の代表だったジーン・ミッシェル(Jean Michel)に提案し、2005年にKinaniの前身であるイベント「ダンス・ウィーク(Semana da Dança)」を一緒に立ち上げました。当初のダンス・ウィークは、フェスティバルのような形式ではありませんでした。「今週、ダンス・ウィークにしない?」「いいね、やろう!」といった調子でした。しばらくして、ダンス・ウィークを年1回、CCFMで行われる恒例イベントにして、1週間の会期中にたくさんのグループを招聘しました。国内のグループだけでなく、CCFMと関係をもつフランスの劇団なども招聘しました。私がCCFMの照明デザイナーを辞める時に「プラットフォームKinani」(詳細は後述)と名前を変えて継続することを決めました。

──Kinaniのプログラムの組み方について教えてください。
 プラットフォームKinaniは隔年で開催していて、開催されない年に「トリディシプリナル(TRIDISCIPLINAR)」(または「Dança da Semana」)と呼ばれるプログラムを行っています。トリディシプリナルは、ダンス、芝居、音楽の3領域を中心とした多様な領域のアーティストの交流を促進するために行っているプログラムです。アーティストはアイデアを交換しあい、彼らは特に観客に予告することなくパフォーマンスを行います。自由な実験の場として、図書館でパフォーマンスをしてみたり、路上などでやってみたり……いろいろな場所でパフォーマンスを試み、いろいろな議論を行います。多くの場合、そこで議論されたことを元に、次回のKinaniのテーマを決め、そのテーマに沿って開催年のプログラムを組みます。ちなみに、これらのテーマは私たちの中で共有されているので、特に明記されません。
 例えば2017年のプログラムのテーマは「アイデンティティ」でした。なぜなら、2016年のトリディシプリナルでコンテンポラリーにおける伝統的な表現について話し合っていたからです。しかし、「伝統」という言葉が意味するものには注意する必要があります。伝統というと、人々はすぐに民族舞踊をイメージしますが、私たちがいう伝統とはただ単に民族舞踊を指しているわけではありません。服の着方、話し方、立ち振る舞い、すべてのことを指しています。そして、民族的な伝統のことではなく、あなた自身に染みついた伝統のことを言いたいのです。

──その「アイデンティティ」をテーマにした2017年のKinaniでは、マプト市で活動する民族舞踊団ホディ(Associação Dança Cultural HODI)とコラボレーションを行い、注目を集めたと聞きました。
 民族舞踊団ホディのメンバーと2人のコンテンポラリーダンスの振付家によるコラボレーションを行い、『テカ(Theka)』を発表しました。テカは、モザンビーク南部の民族舞踊の踊り手がリズムに乗っているときに発する言葉です。このプロジェクトの目的は、民族舞踊団とともに「表現」について考えることでした。民族舞踊とコンテンポラリーダンスという異なる世界に身を置く踊り手と振付家が表現方法を模索することでどのような表現が生まれるか見てみたかったのです。45分ほどの作品が出来上がりましたが、音楽も打ち込みに加えて、伝統的な太鼓や木琴による生演奏が中心という革新性のあるものになりました。
 このプロジェクトを行うことになったきっかけは、2015年の第6回Kinaniをアフリカ地域で最も影響力のあるコンテンポラリーダンスのプラットフォーム「Danse L’afrique Danse」(*7)と共催で行ったことです。その時、アフリカの多様な地域のコンテンポラリーダンスが上演されました。私はキュレーターとしてそれらを見て、アフリカのコンテンポラリーダンスの表現法が西洋と似たような美的基準を持ち、同じような路線を歩んでいるように感じました。これは奇妙なことだと思いました。なぜなら、私たちには文化的表現や慣習などいろいろな側面で違いがあるはずだからです。この問題意識が私の頭から離れなくなり、2017年の第7回Kinaniでアイデンティティに関わる表現をテーマにすることにしました。
 それで民族舞踊団とのコラボレーションにより伝統的な要素を入れて、自分たちが固有のリズムや表現方法を持っていることを改めて思い起こそうと試みました。現在、このプロジェクトは、世界的なレベルで関心を集めており、6月にドイツで上演する計画もあります。個人的な意見ですが、このような伝統的な音楽を用いる試みは他の振付家、ダンサーにもお勧めしたい。ヨーロッパあるいはアジアなどでいうところの審美観、完成度を追いながら作品をつくるのではなく、まず「私は誰?」という問いを出発点として考えてほしい。そうすることで初めて自分の表現方法でコンテンポラリー作品がつくれるのではないでしょうか。普遍的に確立された完成美という世界にいかなくても、きっと自分のリズムやオリジンを出発点にコンテンポラリーの世界で作品をつくることができると思います。

──そうした試みの結果、モザンビークのコンテンポラリーダンスのオリジナリティみたいなものが見えてきましたか。
 私は「モザンビークの表現のオリジナリティ」、「アフリカの表現のオリジナリティ」というテーマ設定が好きではありません。「現代を生きる人間」という視点で物事を捉えています。私たちはもはや世界中のいろいろなことに影響を受けています。アフリカ、アジア、ヨーロッパ……常に「何か」が影響を与えています。民族舞踊団とのプロジェクトでは、モザンビークのオリジナリティを模索したわけではなく、「自分とは誰か」を世界に発信したかったのです。

──Danse L’afrique Danseは、アフリカの国々のコンテンポラリーダンスにどのような影響を与えているのでしょうか。
 Danse L’afrique Danseを通して、私たちはアフリカの全体的な方向性を把握し、グローバルな視点を持つことができした。観客もまた、コンテンポラリーダンスの世界における「アフリカ」に関して何らかのビジョンを得ることができたと思います。また、アート的な観点から見ても多くのコラボレーション、芸術的な交流が行われ、新しいプロジェクトが生まれています。例えば、私たちはこのプラットフォームでマダガスカルの若い振付家ジュディース・マナンテナゾア(Judith Manantenasoa)と出会い、彼女の舞踊団の作品『メタモフォーゼ(Métamorphose)』をプロデュースすることになりました。この作品はヨーロッパやアフリカの国々で上演される予定で、Kinaniがプロモーションしています。
 このように、Danse L’afrique Danseで発掘したアーティストを自分たちの国に招聘し、作品をつくるためのレジデンス事業を行うことが度々あります。出来上がった作品の多くは、ヨーロッパやアフリカの国々をツアーしています。この他にも、マリや南アフリカの振付家とのコラボレーションなど、アーティスト同士の出会いを通して生まれたプロジェクトは多いです。

──Kinaniでは作品創作も行っているのですね。
 その問いには肯定も否定もできません。私たちは作品創作を行いますが、Kinaniでの上演を目的にしているわけではありません。例えば『テカ』を始めた時は、これが上演できるものになるかどうかわかりませんでした。私たちは、ただアーティスト同士を引き合わせ、そこから何が生まれるか、何を生み出すことが可能なのかを見るだけです。もし議論が生まれたら、それだけで私たちは幸せです。Kinaniではレジデンス事業、創作、交流、展示などをしていますが、上演するための作品をつくることを目的にしたことは一度もありません。もし、自分たちのスタジオが持てるという大きな夢が叶ったら、ともかくいろいろ実験してみたいと思っています。Kinaniで上演するという目的にとらわれず、アーティストにいろいろ挑戦してもらいたいですね。

──Kinaniでは廃墟や建設途中のまま放置された建物などを会場にしています。どうして劇場以外の場所を会場にしているのですか。
 トリディシプリナルで、「アーティストが作品をつくるために使うことのできるスペース」が議題になりました。私たちは自分たちのスタジオを持っていないので、誰も住んでいない建物を使用する試みを行いました。それは、政府に対する提言のようなものでもありました。アーティストがアートのためのスペースを必要としているということ、また、社会にはアートの空間が必要であるということを訴えたかったのです。私たちは劇場で作品を観ますが、それがどこでつくられたかについて意識することはありません。廃墟を会場にしたのは創作する場所についてみんなの関心を集めたかったのと、そのために別に設備の整った建物が必要なのではなく、あのような廃墟も、アーティストはアートの場に変えることができるということを示したかったのです。

──観客はどのような層が多いですか。
 Kinaniが始まったばかりの頃は、観客のほとんどが外国人でした。なので、私たちの当初の大きな目的のひとつが国内の観客を増やすことでした。1週間の会期中、外国人ばかりが集うという状態を変えて、地元の学生たちにももっと見てもらいたいと思っていました。そのためにまず私たちがしたことは、Kinaniに参加する団体の練習をマプト市内の公立高校のスペースを借りて行うことでした。まず、団体の作品を創作し、それを高校などで練習しました。そして、1週間に一度だけ、その学校の学生たちに練習の場を公開しました。
 練習を見学した後、学生との質疑応答を行いました。彼らは「コンテンポラリーダンスってなんだろう」「この動きが意味するものはなんだろう」など、疑問をダンサーや振付家に投げかけ、自分自身でコンテンポラリーダンスとは何かを発見していきました。この試みによって、学生たちが自ら新たなコンテンポラリーダンスのグループをつくるという動きも生まれました。また、興味を持ってくれた人はKinaniを見に来てくれました。1年間かけてこのような観客育成のプログラムを行い、私たちは多くのモザンビーク人の参加を得ることに成功しました。

──こうした取り組みはいつから始めたのですか。
 第3回頃からです。たとえ今は劇場が満席でも、この状態はきっと長くは続かないだろうと感じていました。そのため、地元の若者、未来のコンテンポラリーダンスを考えることのできる人たちを開拓したいと思いました。つまり、次世代のダンサーや振付家になる若者に参加してほしかったのです。ただ、この観客育成プログラムを実施したのは2年間だけです。止めたのはコストの問題もありましたが、目的が達成されたと感じたからです。このプログラムにより、私たちは観客に「今回は何だろう」というKinaniへの好奇心を持ってもらえるようになりました。ですから、彼らの好奇心に応えるためにも、私たちは常に新しいことに挑戦し続けたいと思っています。

──ヨーロッパとの結びつきが強いようですが、アジアとの交流も考えていますか。
 はい、アジアの国々とも交流できたらと思っています。なぜならアフリカの国々は世界全体を知る必要があると思うからです。私たちはアジアの国々の舞踊団とあまり接触がありません。日本で出会ったアーティストに「モザンビーク人です」というと、「OK…」と気まずそうな顔で言われ、その後、気まずい沈黙になる(笑)。そして、私は毎回、「モザンビークはアフリカの東南に位置していて…」と説明しなければならない。この状況にはもどかしさを感じます。でも私たちはアートを通してお互いのことを学び合える可能性を持っています。今後、それをもっと利用すべきだと思っています。
 例えば、日本のグループをモザンビークに招聘するというアーティスティックな交流を通してお互いが学び合うことができます。このような交流により世界の広がりを知ることができます。相手のアーティスティックな表現を見て、伝えようとしているメッセージに思いを巡らせたり、自分たちとの共通点を発見してお互いがそんなに離れた存在ではないことに気づいたりする。ですから、アジアとももっと交流した方が良いと思っています。

──現在のモザンビーク社会においてアートはどのように認識されていますか。
 モザンビークには社会的な問題が山積していますが、アートはそうした身近に存在する多くの問題に取り組むための手段ではなく、人々の「避難所」として機能していると思います。人々は何かに悩み苦しんでいても、音楽をかければ1分後には問題を忘れて踊り始めます。なので、商業的な音楽、ポピュラー音楽は今とてもヒットしていますし、大衆に受け入れられやすいアーティストは人々によく知られています。政府の経済的な援助も予算のすべてがポピュラー音楽に向けられています。それらの多くは人々に現実を忘れさせるかもしれませんが、人々が問題を考え、目を覚ますための音楽ではありません。

──でもキトさんが目指すアートは全く違いますよね。
 全くもって違います。だから、この手の経済支援は全く受けないのです。私たちのアートは知るためのアート、発見していくためのアートです。こうしたアートはとても大切なことですが、経済的な支援を受けるのは困難です。ですから、芸術を行うことよりも、資金的な工面についての議論の方が多いのが実情です。私たちにはCCFM以外に固定した支援団体がありません。インターナショナルな活動資金はそれでなんとかしていますが、地元のグループのための資金にはなりません。本当はアートのことに集中したいのですが、正直、支援者を探すのに疲れています。

──次回に向けてのプランがあれば聞かせてください。
 一つ決めていることがあります。「大衆」について議論するために、独立広場のような大きな広場でコンテンポラリーダンス作品の上演を行いたいということです。ダンスはいつも閉ざされた場所、開放的ではない場所で行われますが、次回は、多くの人たちが集まる場所で、大衆を前に行いたいと思っています。

──2019年のKinaniがとても楽しみです。ありがとうございました。
 
TOP