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八木美知依
八木美知依(YAGI, Michiyo)
愛知県常滑市生まれ。箏演奏家。倉内里仁、故沢井忠夫、沢井一恵に師事。1980年代後半から演奏活動を始める。米国ウェスリアン大学客員講師に赴任中、ジョン・ゾーンら現代音楽の演奏を手掛けたのが、後の活動に大きな影響を与えた。2005年10月、十七弦箏の全自作自演のCD「Seventeen」をリリースした。夫君でプロデューサーのマーク・ラパポート氏によれば、「箏は100年後には消滅しているかも知れない、という危機感を持ちながら、自分の音楽をやる事の大切さを考えているようだ。これまでいろいろなことをやってきて、そろそろまとめる時期にある」。2006年7月から来年にかけて3〜4枚のCDがリリースされる予定だ。
http://www.japanimprov.com/myagi/myagij/
SEVENTEEN
八木美知依「SEVENTEEN」
(ジパング/ZIP-0019)
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an overview
Artist Interview
2006.7.6
A unique world of koto music connecting points and lines
Koto Musician Michiyo Yagi 
点と線をつなぐ独創的な箏の世界 箏演奏家・八木美知依 
きゃしゃな肉体が、ダイナミックな音を奏でる。箏演奏家・八木美知依の箏は強く、しなやかに聴衆の肉体を震わせる。日本の代表的な伝統楽器「箏」は、明治時代に西洋音楽が流入して以来、時代に即した変革を演奏家たちが模索してきた。洋楽の要素を取り入れた作品や十三弦の箏では実現できない低音を補うための十七弦や二十弦の開発。そうした革新の流れの最先端に今、八木は立つ。古典、現代音楽、ロック、ポップス、ジャズ、即興、多彩な共演の一方で自ら作曲を手がけるなど独自の世界を構築している。
(聞き手:奈良部和美)


──八木さんの演奏は私の中にあった「伝統楽器」という言葉で括られる箏のイメージを変えました。ダイナミックで、民族や楽器の違いも音楽のジャンルも軽々と超える。そもそも箏とはどんな出合いだったのでしょう。
母がいわゆる町の師匠で、箏を教えていました。箏が身近にあったことが最初のきっかけですから、それについてとても感謝しています。しかし子どもの頃は母は特殊な音楽をやっているのだと思っていました。学校に入ると音楽の時間に習うのは西洋の七音階。日本の音楽の基礎となる五音階は習わないでしょう。音楽の教科書に宮城道雄作曲の『春の海』が載っていても、先生は「ここはあまり重要ではありません」と飛ばしてしまう。世の中で必要のない音楽だ、というのは子ども心にコンプレックスを植え付けましたね。ですから、箏はなるべく避けたい楽器だと思っていました。
それでも、母のお弟子さんたちの発表会の時は、私も直前に1、2日でワーッと練習して『さくら』など弾いていました。でも、これがいけないんです。ちょっと練習すれば出来る音楽だと思ってしまって。その頃は例えばミとファの音の間に、さまざまなニュアンスの違いや面白みがあることなどわかりませんから、調弦さえ出来ていれば簡単に出来る音楽だと思っていました。それがまた、嫌いになる原因になっていました。
ただ、母は私を音楽家にしたかったようで、5歳ぐらいからピアノを毎日2時間はつきっきりで練習させられました。それに比べると当時は箏はあまりやっていませんでしたね。母から習い始めたのは4歳ごろだったと思いますが、それぐらいから調絃も自分で考え、テレビやレコードで聞いたアニメ番組のテーマ曲や『田園』など有名なクラシック曲を弾いたり、聞いた音楽を箏で再現するのは最も好きな遊びのひとつでした。

──避けたい音楽が、一生の音楽に転換したきっかけは何ですか。
高校生の時にNHK・FMの「現代音楽の時間」を聞いていたら、菊地悌子さんの弾く助川敏弥先生作曲の『独奏十七弦のための第一章』が流れてきたんです。その頃の自分の技術は非常に未熟でしたが、この曲は弾きたいと思ったのですね。今まで聴いていた世界とは違い、とても新鮮に感じました。
ようやく箏を習おうという気持ちが起きたわけですが、母はちゃんと習うには技術もさることながら、親子では甘えが出て駄目だと判断したようで、沢井忠夫先生の内弟子であった倉内里仁先生のところへ入門することになりました。ところが、稽古を始めて1年目に倉内先生の出産を機に、月に1回、東京の沢井先生の稽古場に通えるように取り計らってくれました。そこで、すごいカルチャーショックを受けたのです。

──沢井忠夫さんは箏の世界で革新的な仕事をされた方ですね。優れた演奏家であると同時に優れた作曲家でもあった。現代に生きる箏曲を目指して実験的な試みをし、現代音楽に新しい境地を開きましたし、演奏家の一恵夫人と後進を育てるために沢井箏曲院をつくりました。精力的に仕事をされている真っ最中に、八木さんは稽古に行かれたわけですね。しかもとても感受性の鋭い十代に。
先生の弾かれる箏のドライブ感に感動し、箏曲にこんなにドライブする音楽があるんだと知りました。子どもの頃に感じた古くさい印象の楽器がぐっと自分の中心に入り込んでくる感覚を覚えました。そのうち奥様である一恵先生が「うちで暮らして勉強しない?」とおっしゃってくださいました。それが内弟子です。入ってからは無我夢中の日々で、あっという間の2年間でした。

──最近は内弟子といっても、24時間先生と行動を共にするのではなく、自宅から通って先生の身の回りのお世話をしたり、稽古を見てもらうことが多いようですが、八木さんの内弟子生活はどんな毎日でしたか。
実を言えば、「内弟子に入らない?」と一恵先生からお誘いを受けたときは、内弟子の意味がわからなかったんです。先生と一緒に暮らすってことは、先生のお話がたくさん聞けて、演奏も聴けて、お食事も一緒っていうくらいの認識だったんですね。入ってみると、食事は当然のことながら私たち内弟子が作るんですよね(笑)。お客さんの数がすごく多くて、その当時は毎晩10人以上の食事を作りました。
楽器の準備や先生の身の回りのことなど、やることが山のようにあって、やっと夜中の12時過ぎに自分の時間が出来て稽古をするんですが、もう眠くて。私は一番下手っぴなわけです。心優しい先輩に助けられて、先輩が寝ている隣で練習したこともあります。
 
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