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沢則行
沢則行(さわ・のりゆき)
1961年札幌生まれ。人形劇団ひとみ座、美術教師を経て、1991年に人形劇を学ぶため渡仏。92年からチェコ国立芸術アカデミーDAMU(Academy of performing Arts in Prague)の演劇・人形劇学部で学ぶ。その後同学部の講師 Instructorとなり、同時に人形美術家、演出家、演技者として、現在までチェコを拠点にヨーロッパを中心に活動する。日本でも青山円形劇場プロデュースなどによる定期公演を行うほか、2001年には国際交流基金とチェコの人形劇団Theatre DRAKの共同制作『モル・ナ・ティ・ヴァシェ・ロディ!─ロミオとジュリエット』をプロデュース。代表作は、世界で上演を重ねる一人無言劇『マクベス』、影絵を取り入れた一人芝居『リア王』など。ヨーロッパ文化賞「フランツ・カフカ・メダル」受賞、チェコ共和国ハヴェル大統領府主催・夏のシェイクスピア演劇祭に選抜、プラハ児童演劇祭グランプリ、チェコ・オストラヴァ国際人形劇祭にて「子どものための作品・最優秀賞」受賞等。
http://www.norisawa.net/
沢則行 meets 中西俊博「KOUSKY IV」
(2007年3月/青山円形劇場)
撮影:梶原祥造 STARKA

*KOUSKY(コウスキー)とは
チェコを拠点にヨーロッパで活躍する日本人の人形劇作家・沢則行の小作品集のことで、仮面や人形・オブジェといった生命のない「モノ」と、生命をもつ沢という「ヒト」による、せりふのない芝居。

次回公演予定:
青山円形劇場オブジェクトシアターvol.12
KOUSKY 6〜沢則行 meets 中西俊博〜
出演:沢則行、中西俊博
作・演出・美術:沢則行
音楽:中西俊博
公演日時:2009年2月27日〜3月1日
主催・問い合わせ:こどもの城劇場事業本部
Tel. 03-3797-5678
KOUSKY
KOUSKY
KOUSKY
KOUSKY
KOUSKY
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Artist Interview
2008.7.22
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A look into the world of performer Noriyuki Sawa With the new form of puppetry known as figure theatre  
人形劇の新しいムーブメント「フィギュア・シアター」で独自の世界を切り開くパフォーマー沢則行の感性とは?  
人間も人形も同等に舞台に立つヨーロッパの新しい人形劇のムーブメントであるフィギュア・シアター(日本ではオブジェクト・シアターとも紹介されている)。その手法をチェコ国立芸術アカデミーで学び、チェコを拠点に世界屈指のDRAKをはじめ、数々の劇団と共同制作を続ける現代人形劇パフォーマーの沢則行。仮面と人形を使った一人無言劇『マクベス』、色彩感覚あふれる影絵作品、日本の民話を題材にした小作品など、チェコの人形劇の手法に日本人の感性を融合させた多くのレパートリーで世界各地を巡演する沢に、その歩みと人形劇の現在について聞いた。
(聞き手:塚田千恵美)



──人形劇を始められたきっかけからお話いただけますか。
 私は1961年生まれなのですが、子どもの頃にテレビでみた人形劇の『ひょっこりひょうたん島』(井上ひさし他作、ひとみ座人形劇による60年代大人気だったNHKの子ども向け番組)や『サンダーバード』、着ぐるみでやっていた『ウルトラマン』が大好きでした。当時はテレビに創成期の勢いがあって、その影響は大きかったと思います。母が和服を仕立てる仕事をしていて、家にたくさんあった和服地があった。3歳ぐらいの時には、その切れ端と木の糸巻きで、母と一緒にひな人形や『ひょうたん島』を真似た棒遣い人形などをつくっていました。幼稚園でも人形劇がやりたいと言って、『おおきなかぶ』という家族みんなでかぶを引っこ抜くロシアの民話を演じたり、小学校では学芸会などで仲間を集めて人形劇をやっていました。

──人形は自分でつくっていたのですか。
 そうです。仲間と一緒につくっていました。今で言うオタクだったんですね。発表会などの時には注目されるからリーダーとしてがんばって、それ以外は、引きこもって人形をつくっていた(笑)。

──沢さんより若い世代で人形劇のアーティストとして活躍している平常(たいら・じょう)さんも、札幌出身です。同じように子どもの頃から人形劇をされていたと聞いていますが、札幌にはそういう土壌が何かあったのですか。
 札幌市には日本で初めて設立された子どものための公立の人形劇場があるんです。「こぐま座」(1973年開館)と「やまびこ座」(1988年開館)というのですが、こぐま座は人形劇専門で、やまびこ座はこどもの劇場で児童演劇と人形劇をやっています。両方とも亡くなられた元札幌市長の板垣武四さんがつくったものです。彼は、ミュンヘンと札幌が姉妹都市になる時にヨーロッパをまわり、ミュンヘンの公立人形劇場を見て、戦後立ち直っていく子どもたちのために「これはいい」と、こぐま座をつくったそうです。
 当時の館長は、札幌市職員の加藤博さんという方で、人形劇団プークの代表だった川尻泰司さんの盟友です。お二人とももう亡くなられてしまいましたが、戦後何もないところから人形劇をはじめられた世代です。私の時代は、学生や社会人サークルが中心になってこぐま座で活動していましたが、最近はアマチュアのお母さんたちのサークルにパワーがあります。人形劇団が40ぐらいあって毎週のように上演しています。
 札幌にはそういうものすごく広い人形劇の土壌があり、常くんはそこから出てきた才能です。彼が小学6年生の時にその演技をこぐま座で見ましたが、天才だと思いました。ほかにもすごい若手がいたのですが、問題は、中学、高校とその道を進んでいっても、日本には人形劇家という進路がないということ。人形劇に見切りをつけて役者になる人もいて、もったいないと思います。

──学生時代には、どのような人形劇をつくっていましたか。
 私が学生の頃は、NHKで辻村ジュサブローさんの『新八犬伝』(日本を代表する人形劇のひとつ)が放送されていた時代です。そういうものも見ていましたが、当時は、人形劇といえば子どもを対象にしたものがほとんどで、大学生が見られるようなものがなかった。自分が見たいと思えるものをつくりたくて、好きだった唐十郎さん、別役実さん、福田善之さんら小劇場演劇の作家の作品に影響されたような人形劇をつくっていました。特に、福田さんの『真田風雲録』(1963年作、真田十勇士になぞらえて学生運動を風刺した作品)は好きで、100回ぐらい読んで、人形劇をつくりました。
 『マクベス』を無言劇でつくったこともあります。仲間を20人ほど集めて、人形がたくさんでて、シンセサイザー3台、エレキギター3台、ドラムに民俗楽器を入れたような学生の生バンドも入れて。今ではとてもできない規模ですが、仲間がよく付き合ってくれたと思います。私は教育大学だったので、まだ学生運動の名残があり、人形劇のサークルに入ったのに、芝居をつくる前にデモに行くような時代でした。学生運動をやった最後の世代ですね。

──札幌の大学を卒業して、85年に東京のひとみ座に入団されます。どういう経緯だったのですか。
 ひとみ座の伊東四朗さんが、私の芝居を札幌のフェスティバルか何かでご覧になったのがきっかけで、誘っていただきました。社会人劇団を演出した時だったと思います。学生運動の終わりの頃で、学生にも社会人にも元気があり、北海道のすべての大学・短大に人形劇団がありました。そういう学生、社会人が年1回集まって芝居をつくっていたのですが、それをご覧になったのだと思います。

──当時、ひとみ座では幼児、児童を対象にした学校回りが中心だったように思いますが、やりたいこととイメージが違っていたのではないですか。
 やりたいことと違うのは当たり前で、それでがっかりしていてはダメだとは思ったのですが。当初、私は幼児班で、朝5時過ぎに起きて、横浜や川崎、東京など近隣の幼稚園を回っていました。それが終わってから、ひとみ座にもどって学校公演用の人形や美術をつくって、夜は先輩に「沢、大人向けの芝居をつくるぞ」と言われて、それもつくって、それからお酒を飲む……。そんな生活をしていたら、1年ぐらいで高熱を出して、入院してしまった。
 ちょっと話はそれますが、私は、学生時代にヨーロッパを放浪したことがあって、そのときにパリである牧師さんと出会い洗礼をうけました。それでひとみ座で悩んでいたときに、知人にアドバイスされて東京の教会に行くようになっていた。倒れて入院したときに、そこの牧師さんが出てくる夢をみたんです。
 白い札の出ている曲がりくねった廊下を案内してくれていた牧師さんが、私を見て、後ろの方に向かって「そこにいるのは誰?」と言った。「エッ」と振り返ったら、真っ黒い穴が空いていて、直感的に「これが俺の病気だ。ここに吸い込まれちゃマズイ」と思いました。それで目が覚めたら熱が下がっていて。1カ月ほど札幌で静養することにしたのですが、そのタイミングが偶然、北星学園女子中学校の美術教師の面接試験と重なっていたんです。これも運命かと思い、受けて美術教師になりました。そしたら、美術室の前の廊下が夢に出てきた廊下と同じだったんです。それまでいい加減だったのですが、それからは少しまじめにクリスチャンしています(笑)。

──どうして美術教師を辞めて、ヨーロッパで再び人形劇をやることになったのですか。
 こぐま座館長の加藤さんから、「フランスのシャルルヴィル=メジエールに人形劇の大学院があるみたいだから、行ったら?」と進められたのがきっかけです。私は、フランス語もできないし、高校3年の担任もしていたので無理だと思っていました。そうしたらいろいろな方が尽力してくださって、ダメでもともとと思って申請した公的な助成がすべて通った。これは行かざるをえない、と悩んでいたときに、同僚の先生が、「赤ん坊が生まれた時には1000を超える職業選択の可能性がある。でも今の日本では小学校で500、中学にはいるともう300〜200、高校で進路を決めた時には100ぐらい、大学に行ったら何十になってしまい、進路を狭めるような教育をやっている。君も年々選択肢は減ってくる。でも、明日死ぬと言われたじいさんでも、思いもしなかった才能が目覚めるかもしれないのだから、行ったほうがいい」と背中を押してくれた。それで心を決めました。

──91年ですよね。
 はい、シャルルヴィル=メジエールの大学院が行っている夏の5週間のワークショップ「バベルタワー」に行きました。そのまま大学院に入学するはずだったのですが、行き違いがあって困っていたら、ワークショップを指導していたヨゼフ・クロフタがチェコに誘ってくれて、92年にチェコに行きました。
 
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