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金井勇一郎
金井勇一郎(かない・ゆういちろう)
1960年東京生まれ。東京理科大学理工学部建築学科卒。2006年に父・俊一郎氏から金井大道具株式会社を継いで社長に就任。2001年に日本演劇協会大賞、04年に読売演劇大賞優秀スタッフ賞を「夢の仲蔵千本桜」と平成中村座「加賀見山再岩藤」で、06年に同最優秀スタッフ賞を『NINAGAWA 十二夜』の美術で受賞。08年には『憑神』の美術で伊藤熹朔賞を受賞。

金井大道具(株)
http://www.kanainet.co.jp/
シス・カンパニー『瞼の母』
原作:長谷川伸
演出:渡辺えり
(2008年5月〜6月/世田谷パブリックシアター)
撮影:金井勇一郎 / © SIS company
瞼の母
瞼の母 瞼の母
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Artist Interview
2008.10.10
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Meet set creator Yuichiro Kanai, 4th-generation president of a Kabuki set production company and set designer for contemporary theater and new Kabuki  
歌舞伎大道具会社四代目社長に就任 現代劇と新作歌舞伎を股にかける舞台美術家金井勇一郎  
蜷川幸雄の歌舞伎初演出作品「NINAGAWA十二夜」でアールヌーボーのデザインや巨大な鏡を取り入れ、伝統の歌舞伎美術を革新した金井勇一郎。ニューヨークのメトロポリタンオペラハウスでの研修をきっかけに舞台美術界に飛び込み、市川猿之助のスーパー歌舞伎の美術を手がけるなど、伝統的な舞台大道具の世界に新風を吹き込む。老舗の歌舞伎大道具会社四代目社長に就任した金井に、現代劇と古典を股にかける革新の舞台づくりについて聞いた。
(聞き手:草加叔也[(有)空間創造研究所代表取締役])



──長年、金井大道具で歌舞伎の背景画の責任者をされていた釘町久磨次(くぎまちくまじ)氏が、85歳のときに自らの仕事について振り返った著書『歌舞伎大道具師』を出版されています。昨年、新装版が発行されたばかりですが、今回のインタビューにあたって久しぶりに読み直してみました。
 歌舞伎の舞台装置は「道具帳」という原画にもとづいて大道具師(大工、経師屋、絵描き)がつくりますが、墨のメモ書き程度だったものを、釘町さんが徐々に変えていって、釘町流道具帳と呼ばれる実物の50分の1で書く現在のスタイルを確立されたわけです。この本には、彼が明治45(1912)年、10歳で名大道具師・十四代長谷川勘兵衛に絵師として弟子入りしたときからの話が書いてあって明治・大正・昭和にわたる歌舞伎大道具師の仕事がどのようなものだったのかがよくわかります。
 もともと歌舞伎の大道具は小屋づきの仕事だったのが、江戸日本橋の宮大工をしていた長谷川勘兵衛が1650年代から専門の大道具師として独立し、長谷川という屋号(今で言う会社)で仕事をするようになった。金井さんが四代目を継がれた金井大道具は、長谷川大道具にいた絵師の釘町さんと、同じく勘兵衛の弟子で棟梁だった金井由太郎が、のれん分けする形で大正13(1924)年に創業されたものです。

 その通りです。大道具という職能は江戸時代にはすでに確立され、当時は長谷川大道具だけが屋号をもって活躍していました。その長谷川大道具の流れを汲む大道具会社で現代まで続いているのは、金井大道具だけです。ちなみに長谷川大道具は、会社名を変えて、現在は歌舞伎座の大道具だけ製作する歌舞伎座舞台株式会社として松竹が運営しています。
 2006年に歌舞伎の大道具を専門にやってきた父(故・俊一郎氏)がなくなり、私が金井大道具の四代目社長に就任しました。

──そもそも勇一郎さんご自身はどのようにして舞台美術家になられたのですか。
 このような家庭環境に育つと、子どもの頃から劇場に出入りしたりする人もいるかもしれませんが、実は私は大学に入るまで自分の父親の仕事を知りませんでした。これは、親の教育方針で、あえて教えなかった。要するに、子どもの頃から劇場に出入りして芸を覚える役者のようなことをする必要はないわけですから、親の仕事に気づいたときにやりたいと思えばやればいい。ですから、小中高は普通に育って、大学に入って初めて、自分の家と父の仕事について知りました。
 大学はたまたま建築科に進み、父の会社でアルバイトをするようになりました。1983年に歌舞伎が初めてニューヨークのメトロポリタンオペラハウスで公演することになり、同行したんです。私は大学3年生で、その頃は大道具のおの字も知りませんでした。

──正式なスタッフとして同行したのですか?
 いわゆるパシリ、雑用係です(笑)。そこで舞台大道具の現場を目の当たりにし、これは面白い仕事だと思いました。その後、大学を卒業して金井大道具に入り、85年に団十郎さんと玉三郎さんが再びメトロポリタンで歌舞伎公演をした際には、いよいよスタッフとして同行しました。英語ができたので重宝されたこともあり、一緒に仕事をしたメトロポリタンの技術監督だったジョー・クラークに勉強にこないかと誘われて、文化庁の在外研修制度で2年間研修に行くことにしました。

──研修とはいえ、米英の劇場の裏方スタッフといえばユニオンが厳しいので、その組合員資格をもっていないと最前線での仕事にはなかなかタッチできないでしょう。
 ところが、向こうで「おまえは何ができるんだ」といわれたときに、建築科だったので「図面なら描けます」といって描いてみせたら、「これは使える」と。当時のメトロポリタンで図面を描いていたのは、アシスタントテクニカルディレクターのパトリック・マークひとりしかいなかった。それでいきなり全ての大道具の寸法を測ってそれを図面に落とすといった舞台美術の図面を記録・整理する仕事をさせられたわけです。その図面がプロダクションの記録としてストックされ、再演時にその図面を使ってマイナーチェンジをするなど、今でもずっと使われています。
 要するに、仕事を任されたというよりは、人手が足りないから何でもやることになったんですが、とにかくそれがよかった。研修といえば、ただ見ているだけとか資料整理程度のお手伝いになりがちでしょ。私の場合はプロダクションの打ち合わせにも参加して、当時の世界的なデザイナーのスケッチを図面に落としたりする作業もさせてもらった。当時のメトロポリタンは、アシスタントテクニカルディレクター2人と、あとはパトリック・マークだけでしたから、作業は3人よりは4人のほうがいい。おまえも一緒にやれということで、2年目からは担当公演ももたせてもらいました。
 研修期間の2年を終えた時にもっと残ってくれと誘われたのですが、このままだとアメリカ人的な考え方が身に付いて日本に順応できなくなりそうだったので、アメリカとの縁が切れることはないと思って帰国しました。
 
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