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畑澤聖悟
畑澤聖悟(はたさわ・せいご)
秋田県出身。俳優としての経験を土台に、2000年以降、劇作家・演出家としての活動が本格化する。05年『俺の屍(かばね)を越えていけ』が日本劇作家大会2005熊本大会・短編戯曲コンクール最優秀賞を受賞。同年、青森市を拠点に演劇プロデュース集団「渡辺源四郎商店」を設立し、08年に劇団として始動。地元演劇人の育成や、全国を視野に入れた新たなアートネットワーク作りに取り組んでいる。独自のユーモアを交えた深い人間洞察に基づく劇作は、幅広い世代に支持され「劇団昴」「青年劇場」など他劇団への書き下ろしも多い。また、現役教諭として指導した高校演劇部を幾度も全国大会へ導き、05年には『修学旅行』が高校演劇日本一の栄冠に輝く。ラジオドラマで文化庁芸術祭大賞を受賞。

渡辺源四郎商店
http://xbb.jp/wgs/

畑澤聖悟 最新作
渡辺源四郎商店 第9回公演
『3月27日のミニラ』

作・演出:畑澤 聖悟
[青森公演]2009年4月19日〜26日/アトリエ・グリーンパーク
[東京公演]2009年5月2日〜6日/ザ・スズナリ
[秋田公演]2009年5月23日/秋田市文化会館
http://xbb.jp/wgs/minira/index.html


青森中央高等学校演劇部
『修学旅行』(初演版)

平成16年度
青森県高等学校総合文化祭演劇部門
(2004年10月31日/八戸市公会堂)
撮影:西澤勝
修学旅行


*高校演劇
全国の高等学校およびそれに準ずる学校に設置されている演劇部で行われている演劇活動を指す。こうした演劇部が都道府県単位で加盟する全国高等学校演劇協議会が設置されており、その下部組織として全国を8ブロックに分けた北海道、東北、関東、中部日本、近畿、中国、四国、九州の地方連合組織がある。県大会、ブロック大会を勝ち抜いた代表校12校による全国大会が年1回開催され、最優秀校には全国高等学校演劇協議会会長賞が贈られる。
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Play of the Month
Artist Interview
2009.4.27
play
The theater world of Seigo Hatasawa, with its unique focus on “communities” and “schools”  
「地域」と「学校」─ふたつの視点から演劇界を見つめる畑澤聖悟  
青森県を拠点にする演劇ユニット「渡辺源四郎商店」店主・畑澤聖悟。現役高校教師である畑澤の戯曲は、教育現場を知る者ならではの視点を武器に、親子や生徒と教師の関係の歪みを鋭く描き出し、幅広い支持を得ている。現在は劇作のみならず、演劇を介した教育や人材育成、地域劇団間のネットワークづくりにも意欲的に取り組む畑澤の演劇的ルーツと、彼が見つめる地域演劇の未来について聞いた。
(聞き手:大堀久美子)



──畑澤さんは、現在、青森県に住み、県立高校で美術を教える現役教員であり、高校演劇(*)の指導者であり、ラジオドラマのシナリオライター、そして地元を拠点とする演劇ユニット・渡辺源四郎商店店主という複数の顔をお持ちです。演劇と関わるきっかけと、多面的な創作活動を展開することになった経緯から伺えますか?
 演劇に興味を持ったきっかけは、実は非常にバカバカしいことなんです。出身は秋田ですが中学・高校時代はバスケットボール部所属で、生活もバスケ一色。東京の私立大学からバスケットボール推薦まで来たほどの腕前でした(笑)。ただ高校時代、少女漫画との出合いがありまして。ちょうど『日出処の天子』や『綿の国星』、『エロイカより愛をこめて』など、山岸涼子・大島弓子・青池保子ら作家性の高い漫画家の代表作が発表された時代で、すっかり少女漫画にハマってしまった。さすがに自分では買いに行けないので、バスケ部の女子マネージャーに買ってきてもらったりしていました(笑)。
 そうこうしているうちに大学受験が近づき、僕の通っていた県立秋田高校が秋田大学に隣接していて、付属高校のような環境下にあったので、結局、その教育学部に進学することにしました。
 受験勉強に飽きると書店に入り浸っていたのですが、そこで出合ったのが美内すずえの『ガラスの仮面』です。その時点での全巻を読破し、主人公・北島マヤの演技の描写を読んで、なぜか「俺でもできんじゃねぇ?」と思い込んだ(笑)。「入学したら演劇サークルに入ろう」と、その時点で心を決めていました。

──『ガラスの仮面』が入り口ですか(笑)。それでは、大学の演劇サークルは随分様子が違ったのではないですか?
 全く違いましたね。大学に入学したのが1983年で、その年に学内の「北の会」という演劇サークルに入って役者になったのですが、これがアングラどっぷりの暗い芝居で(笑)。でも、芝居をやることは直感どおり自分と水が合っていました。
 初舞台は北村想さん『寿歌』(核戦争直後の世界を舞台に、旅芸人のゲサクとキョウコ、キリストを思わせるヤスオ=ヤソが、地球の終わりに淡々と向き合う静謐な会話劇)です。1年の春いきなり僕はヤソ役。ライトの熱と興奮で鼻血を出したりしましたが(笑)、手ごたえも楽しさもバッチリ感じていました。
 バスケで身体を鍛えていたことが、芝居でも役立ちましたね。足腰がしっかりしていたので、小回りの利くキレの良い動きができたし、試合中の声出しで喉も強くなっていたので、発声も最初からできた。授業の終わる夕方5時くらいから深夜12時まで、毎日のように稽古をしていました。
 2年からは外部に客演するようになって。ちょうど秋田市主催の市民ミュージカルが始まり、劇団のオールスターメンバーで井上ひさしさんのミュージカル『11ぴきのねこ』をやる、という企画があったんです。スゴイ作家がいるものだとハマり、井上さんの戯曲は随分読みました。
 北の会ではその後、竹内銃一郎さんの戯曲などをやったのですが、入って来る後輩たちがサークル気分で、以前の「12時まで稽古」という雰囲気とはだいぶ違ってきた。そこで有志何人かで別にもうひとつの劇団「漫金堂」をつくり、そこには作家がいたので彼の書いたオリジナルを上演し始めました。

──自分で書こうとは思わなかったのですか。
 演出はやりましたが、当時はひたすら役者志向だったんです。当時は学内でふたつ、学外でも「シアター・ル・フォコンブル」に所属し、3つの劇団を掛け持ちしていました。他に美術の研究室にいたので、そこの仲間たちとパロディの8ミリ映画や自主制作映画を撮ったり、色々なイベントを仕掛けたりもしていました。

──そんな大学生活を送ったにも関わらず、卒業後は教職に就かれていますが、役者になりたいとは思わなかったのですか?
 優柔不断というか、流されやすい性質なんです(笑)。教員採用試験も、自分の意志というより教育学部にいれば、当然まわりが受験準備を始めるので、それを見ているうちに「受けたほうがいいかなー」と思い出した。東京に出て、俳優で頑張ろうかという思いもなくはなかったのですが、悩むうちに採用試験を受けていました。最初は2次試験で落ちたのですが、秋田市内の中学校の臨時講師になれたので、1年間は地元劇団で芝居をやりながら講師をやり、翌年には試験にも受かり、比内町(現・大館市)の中学教員になりました。そこではバスケット部の顧問になり、それから3年間は再びバスケに明け暮れる生活を送りました。
 実は、53歳で亡くなった僕の父も同じ教員で、秋田では名の知れたバスケットボールの指導者でもあったんです。父の名を冠した「畑澤正作杯」という大会もあるほどで、その息子が中学のバスケ部を指導するなんて、絵に描いた親孝行だと思ったところもありました。
 でも3年目の頃、ふと先が見えてしまったんです。中学校教師はとにかく忙しくて、ビッチリ授業した後に部活が8時頃まであり、そのあと学校の仕事をして帰宅は毎日11時過ぎ。「このまま親父のようになるのか、芝居はもういいのか……」と考え出したとき、頭に浮かんだのが弘前劇場の存在でした。

──弘前劇場は青森を拠点に活動している劇団ですが、学生時代に観客としてご覧になったことがあったのですか?
 「漫金堂」で本を書いていた友人が弘前劇場のファンで、学園祭に2度ほど呼んだことがあるんです。まだ弘前劇場が出来て5年目くらいの頃で、オリジナルを上演し始めて間もなかったと思います。当時の弘前劇場は今と違ってギラギラとアングラの匂いがしていて、ラストは必ずビートルズがかかる(笑)。特に、今でも看板俳優である福士賢治さんの存在感が圧倒的で、「いつかは一緒に芝居がしたい」と思っていました。
 それで弘前まで何回か通って、自分の足で稽古場を探して顔を出したら大学時代のことを劇団の人たちも覚えていてくれた。それが91年2月頃。その後、すぐに入団を申し出ました。入団後すぐにアトリエ公演で主役をやらせてもらい、演劇に即復帰。東京に出て俳優をやるか、秋田で教員になるかの二者択一だったのが、「弘前なら両方できる!」と気づいたんです。
 入団半年で、当時劇団員だった女優と結婚もして住居も青森に移しましたが、職場は秋田のまま。片道2時間通勤が辛くて(笑)、真剣に青森の学校を探したのですが、4年後にやっと募集があり、95年に青森中央高校(当時は女子校)の美術教員になりました。
 
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