The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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渡邉尚
渡邉尚(わたなべ・ひさし)
1986年生まれ。20歳からジャグリングを始め、次第に興味が身体そのものへと移り、ダンサーとしても活動を始める。2013年からはダンスカンパニーMonochrome Circusのメンバーとして国内外の公演に出演。2015年にソロジャグリング作品『逆さの樹』を発表。同年、カンパニー「頭と口」を結成。旗揚げ公演『MONOLITH』を行い、ダンス、ジャグリング、サーカスの各界から注目を集める。2016年、トヨタ・コレオグラフィー・アワードのファイナリストに選出。同年、旗揚げ直後のカンパニーとしては異例な抜擢を受け、KAATでの単独公演『WHITEST』を行う。
*コンテンポラリー・サーカス
1970年代、観客の減少により歴史のあるサーカス団の倒産が相次ぐ中、ジェローム・トマ、クリスチャン・タゲ、フラテリーニらによる「ヌーヴォー・シルク」が生まれ、1980年代にはジャック・ラング文化大臣時代にフランスの「国立サーカス芸術センター」「国立サーカス学校」が創設されるなど、サーカスや大道芸に対する支援が強化された。その代表が、1984年にカナダ・ケベック州で設立されたシクル・ドゥ・ソレイユだ。演者としての人間に着目し、アクロバットやジャグリングだけでなく、演劇、ダンス、音楽、美術など多様な表現に跨がったこうした「アート・サーカス」は、世界に広がり、コンテンポラリー・サーカスと総称されている。日本では1992年にシルク・ドゥ・ソレイユ初来日公演が行われたのをはじめ、現在では、フランスやベルギーなどからカンパニーが招聘されるようになっている。
『逆さの樹』
© Road Izumiyama

逆さの樹
逆さの樹
『WHITEST』
© bozzo

WHITEST
Artist Interview
2017.2.17
dance
“What new realms of physicality can “Floor Juggling” open up?  
フロア・ジャグリング”が切り拓く新たな身体の地平とは?  
近年、舞台芸術界でコンテンポラリー・サーカス(※)が注目を集めている。その中で、自らのスタイルを“フロア・ジャグリング”と名付け、コンテンポラリーダンスとジャグリングの境界に彗星の如く現れたのが渡邉尚(カンパニー頭と口)。驚異の柔軟性とコントロール力という身体能力をいかんなく発揮したソロパフォーマンス『逆さの樹』、ジャグラーとのデュオ『WHITEST』など。子どもの頃から自らの身体に向き合った結果というそのユニークな表現と身体哲学に迫る。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

フロア・ジャグリング

──ここ10年ほど、舞台芸術におけるコンテンポラリー・サーカスの重要性は大いに増してきています。私も興味をもって海外の取材をしてきましたが、渡邉さんのソロパフォーマンス『逆さの樹』を2015年に見て驚きました。ジャグリングのみならずダンスの人々にも大きな衝撃を与えたと思います。

 ありがとうございます。『逆さの樹』を作ったのは、関西のモノクローム・サーカスというダンスカンパニーで3年ほど活動し、もう一度自分のやりたいことを見つめ直していた時期でした。自分の生き方を賭けた作品なので評価されたのはものすごく嬉しいですね。僕はその頃ジャグリング界とは接点がなかったのですが、過去にネットに上げていたソロパフォーマンスの動画をサーカス・プロデューサーの安田尚央さんが気に入ってくださり、2013年に東京に呼んでくれました。それを契機にジャグラーの山村佑理と「頭と口」というカンパニーを結成し、旗揚げ公演の『MONOLITH』(2015年12月)につながりました。

──『MONOLITH』は二人それぞれのソロで構成したもので、渡邉さんは『逆さの樹』を上演されました。『逆さの樹』というタイトルから、生命系統樹を遡るようなことをイメージしました。波音やジャングルの鳥の声などが流れ、異常に発達した背筋や並外れた柔軟性を持つ渡邉さんの身体は、アメーバ状にも様々な生物のようにも見えた。ジャグリング用の白い球(革の中に種子を入れて縫ったビーンバッグ)は、「お手玉」のように上に投げるのではなく、床に置いたり口にくわえたり、ほとんどが床へのアプローチになっています。渡邉さんはそれを「フロア・ジャグリング」とおっしゃっています。これについては後ほどゆっくり伺います。まずは『逆さの樹』について伺えますか。
 これはアフォーダンスを扱った作品です。アフォーダンスとは、例えばコップに取っ手がついていると、説明されなくても自然にそこを掴みますよね。そういう身体が導かれる、操られるようなデザインのことです。一方、箸は一対の棒にすぎませんが、使う者のテクニックによって食事をするための道具として機能する。こういう“特定の物と契約することで、その能力を引き出す”という状態は、まさにジャグリングです。ただの棒がフォークの代わりになるように、球やリングがそれ以上の存在になる。自分に能力さえあれば、あらゆる物から力を引き出せるし、その物から自分の力も引き出されるんです。
 ではアフォーダンスのない状態ではどうか、というのがテーマのひとつです。「人間の身体が、動かし方もわからない原生生物のようなものだったとすると、床にある球に対して、どうアプローチするか」。身体のあらゆる部分が等価だとすると、おそらく球を視認した目の近くにある口を使うだろう……そうしたことを積み重ねてつくっていきました。

──床に置かれた球は、ランダムかと思うといつの間にか一直線になっていたり、不意にルールや規律が現れる。その瞬間がすごく面白かったですね。砂丘に風が吹いた後に美しい砂紋が現れるような。
 そうなんです。そういう「有機物と幾何学形態」というのもテーマの一つです。幾何学形態は人工物の象徴のように言われるけど、雪の結晶などのフラクタル模様など、自然現象の中にたくさんありますよね。実は、『MONOLITH』の前に儀保桜子(『頭と口』メンバー)が教えてくれた原理的なシュミレーションゲームの「Conway’s Game of Life」が僕にとってブレイクスルーになりました。単純なプログラムなんですが、小さな点が動いて、どんどん自動生成していろいろな形になっていくんです。自分の意志で動いているつもりの僕らも、実は簡単なプログラムの下で反応しているだけなんじゃないかと思い、発想が変わりました。

──「反応しているだけ」では作品にすることはできないと思いますが、作品化することについてはどのように考えているのですか。
 僕は京都精華大学で染色を学んでいたのですが、作品と称してゴミを作っている学生がたくさんいました。普段は芸術を語っていても、課題の提出期限前に大騒ぎで大きな作品をつくって、1週間後には焼却場に置いてある。彼らの言う「やりたいことをやる」というのは、ゴミをつくることと同じじゃないかと思いました。中には、ゴミじゃないと感じられる人もいて、そういう人は、何というか自分の意志でやっていないかのように見えました。無理して芸術家という立場に立とうとするのではなく、「今やる必要があるからやっている」というか、そういうスタンスの方が作品をつくることに対して純粋な感じがしました。
 それはダンスでも同様です。すごいダンサーになりたいとか、認められたいとか、そういう人は、もっと普通に楽しく生きたいんだと思います。そのために無理してゴミをつくるのなら、やらない方がいい。もちろん他人から見てゴミでも作者にとっては必要なことかもしれません。ただ、僕自身はゴミはつくりたくないし、「やりたいことをやるのではない。必要な時にそれは起こる」と思っています。

──2016年2月に福岡ダンスフリンジフェスティバルで『逆さの樹』を上演し、それを見た韓国の振付家兼ディレクターのユ・ホシクが8月末にソウルの「ニュー・ダンス・フォー・アジア国際フェス」に招聘しました。このときダンサー向けのジャグリング・ワークショップも行いました。7月には京都でジャグリング・ユニットのピントクルと『持ち手』を上演。そして11月には新人カンパニーとしては異例の抜擢でKAATでの単独公演『WHITEST』が実現しました。床に寝てパフォーマンスをしているのですが、球を動かしたり、転がしたりする方向や身体の動かし方で、まるで重力の方向が床の上で自由に変わるような錯覚を覚えました。
 カンパニーとしての長い作品は『WHITEST』が初めてでした。チャンスを与えてくれたKAATさんにはとても感謝しています。だからこそKAATというすごい場に、全てを取り去った、真っ白な状態で立つ、というのが『WHITEST』のイメージでした。しかし全てを捨て去ろうとしてもどうしても逃れられないものが二つある。それが呼吸と重力です。やってみたのですが息は2分間くらいしか止められない(笑)。じゃあ重力をテーマにしようと考えました。

──作品はどのようにつくるのでしょう。
 頭で考えるよりも、ひたすらインプロを繰り返して、良かったと思うところをピックアップしていきます。ただ、僕はあまり長く記憶してられなくて、振付としては覚えられない。でも「置かれた球」に対してどう動くかを、身体が覚えているというか、対応が自然にでてくるので、球に振り付けられているようなものです。そういう動きはすべて映像で記録していて、後で何度も見返します。


フロア・ジャグリング

──渡邉さんの作品で特徴的なのは、球を投げ上げるのではなく、球を床に置いたり、床で転がしたり、床に落としたり、床へのアプローチを意識した「フロア・ジャグリング」という考えです。この言葉は渡邉さんの造語ですか。

 そうです。ヨーロッパの身体に対する考え方とも関係してきますが、そもそもジャグリングは“上へ上へ”という指向で発展してきました。そのため、「ナンバーズ」という競技で投げる物体(球、クラブ、リング等)の数やどれだけ続けられるかを競い合ってきた。そういう文化では、床に道具を落とすことはミスであり、許されない。球が落ちてもまるでなかったかのように無視される。でも僕にはそれは失敗ではなく、球が床に受け止められたようにしか見えなかった。球がそうしたいのなら、初めから床にある球へのアプローチとしてジャグリングを捉えれば、ミスではなくなるんじゃないか、というのが発想の原点です。ジャグリングを始めて2年目にはそんなことを考えていました。

──ジャグリングはいつ始めたのですか。
 20歳のときです。でも僕は、ほとんどの日本のジャグラーが通過する「ジャパン・ジャグリング・フェスティバル」(JJF)という日本最大の大会に一度も行ったことがありません。いわゆるジャグリングの文脈に乗ってない、アウトローなんです。彼らと僕ではジャグリングについての考え方も違うし、自分のスタイルを区別したい気持ちもあって「フロア・ジャグリング」を提唱しました。

──床に注目したきっかけは?
 床があることで、全てのものが強制的に同じ平面上に存在させられる、というのが、僕にとってはすごい気付きだったんです。どんなに精密に投げ上げても、球の高さは毎回違う。でも床に置かれた球は確実に同じ高さに存在する。こんな明確な基準を使わない手はない。むろん同じ重力の影響を僕の身体も受けていて、同じ床の上にいる僕自身とボールに差がないことも一目瞭然です。
さらに「落下している球が床に受け止められたとき、球が持っているエネルギーが床の下に抜け続けている」と僕は考えています。だから、落ちた直後の球は手に取りやすいのですが、時間が経ったものはエネルギーが抜け落ちてしまっているので触り難くなる。球のもっているエネルギーが、その都度、「この角度で」「この身体の部位で」取りたいと思わせるんです。つまり、僕の身体は、僕が「こうしよう」と思って動いているのではなく、球に動かされているわけです。球からエネルギーを感じるというのは僕の思い込みじゃないかと疑っていましたが、ジャグラーの友人も同じようなことを言っていたので、きっと何かあると思うんですよ。この見えないエネルギーについての認識を他の人と共有できるよう研究中です。

──渡邉さんが使っているビーンバッグ(お手玉)は、床に落ちると、トサッと止まるので今のエネルギーの話はどことなくわかります。でも転がる球だと感覚が違うのではないですか。
 それはとても重要ですね。ステファン・シング(Stefan Sing)というドイツの伝説的なジャグラーが2015年に来日したとき、「転がらなければボールではない」と言っていたんですね。実はジャグリングで扱う「球・クラブ・輪」は、それぞれ「点・線・面」という次元に対応したものと捉えられています。しかし、概念上の点や線に面積はなく、面は無限に広がっているから、実際には存在し得ないものです。でも、ジャグリングでは「そういうもの」として捉えている。では僕のビーンバッグはどうだろう。転がらないから球ではないとすると、何なんだろう……と思った時に「有機物なんだ」と気づきました。点・線・面ではなく、アメーバ状の、カオス状の何か。これは世界中のジャグラーのほとんどが取り組んでいないことだから、僕はもっとジャグリングの深部に迫れるんじゃないかと思っています。

──普通のジャグリングは、「物をいかに上手く扱うか」で、エネルギーの流れが一方向なのに、渡邉さんの場合は「有機物」として捉えているからか、双方向な感じがしますね。
 そうかもしれませんね。僕自身、ジャグリングを始めた頃は技に頼っていた経験があるので言えますが、どれだけ技を鍛えても、環境、もっといえば物の影響からは逃れられません。最強の動物も、違う環境では最強ではなくなる。例えば、コンテンポラリーダンサーと言われている人たちは、基本的にリノリウムの床かフローリングの上でしか踊っていないでしょう。同じことを砂利道の上ではできない。つまり、コンテンポラリーダンスはリノリウムの床との関係を結んだ上での身体の動かし方ということですよね。つまり、コンテンポラリーダンサーは、「床を使い、床に影響されて踊っている “床ジャグラー”なんじゃないか」と思っています。床だけでなく、全てのものを使え、あらゆる環境に適応できる能力を持ち、世界で最も自由なのが僕の思うジャグラーなんですよね。


驚異の身体

──渡邉さんの驚異的な柔軟性をもつ強靱な身体は、どうやって創られたのでしょう。

 物心ついた頃から、床を這ったり、動物のように四つ足で歩いたり、猫がやれるんだったら自分も出来るはずだと2階の屋根から音を立てずに飛び降りる練習をしたりしていました。一度夜中に犬の散歩をしているおじさんの前に飛び下りてしまって、四つん這いのままついていったら警察に通報されちゃった(笑)。そんなことを小学生から中学生までずっとやっていました。
 ちなみにスポーツは、学生の頃に剣道と卓球をやっていたぐらい。後、ジャグリングを始めて1年ぐらい経った時にバレエとブレイクダンスを始めました。日本のバレエ界では男性ダンサーは優遇されているので、鍛えればプロになれると言われましたが、バレエではジャグリングやブレイクダンスを活かせないので辞めてしまいました。

──動物のようになりたかったのですか。
 子どもの頃からもののけ姫のサンとかターザンとかスパイダーマンとかは好きでしたね。それと生まれつき足首が柔らかくて、四肢が長かったから座るのもこういう姿勢(しゃがんで両手を前に置き、カエルのように座る)が普通でした。ダンスをはじめた当初はストレッチが好き過ぎて、いろんなところの関節を1日8時間ぐらいずっと伸ばしていました。やり過ぎて、両手首、両肘、両肩、首、背中、腰、膝と全部痛めて、全身激痛で1カ月ぐらい立ち上がるのも辛かったことがあります。それでも、少し関節の力を抜いてから伸ばすとか、別の指を意識しながらやると、まだまだ伸びる余地を発見できるんですよ。そうやって自分の身体の未知の領域に踏み込んでいくのは楽しかったですね。

──普通はダンスでもスポーツでも、何かが上手くなるために身体を鍛える。それが訓練の基本的な考え方だと思いますが、渡邉さんは自分の身体そのものが目的なんですね。
 自分の身体は無限に冒険できますからね。「人の形はしているけど人の動きじゃない」ことに興味があったんです。『もののけ姫』はアニメだからああいう動きができると人は言うけど、人間の発想なんて自然界を模したものでしかないでしょ。例えばペットボトルは、「水分を包んで携帯できる」という点で、果実を模したものだと僕には思える。だからアニメの動きも魔法のように見えて、原イメージにあたるような事象はきっとあるからできると思うんです。
 いまの身体は、学生であるとか父親であるとか、社会的な役割に合わせて強制されていて、できないと思い込まされているだけだと思います。鼻をほじりたい、屁をこきたい、という感覚はそのときの身体に必要なことなのに、人前でやってはいけないことになっていてできない。例えば、僕はずっと全裸で生活したかったけど、実行すると警察に捕まってしまうから着ているわけです。そういう抑圧されていること、小さいからって無視されていること、隠されていることを捨て去りたくないんです。

──社会に適応するために獲得された身体を脱ぎ捨てたいということですか。
 そうです。たとえば、手を手のように使わないといけないなんて誰が決めたんでしょうか。猿は手と同じように足を使ってものを取るじゃないですか。だから僕も足を自由に使えるように訓練しました。左手も右手と同じように使えるように訓練しました。いまでは自由に足も手も使えます。ジャグラーは球を口でくわえたり、足でキャッチしたり、手足以外でも身体を自由自在に使って球をコントロールします。これこそ“生命力”への入り口で、ナンバーズ・ジャグリングよりもずっとすごいことだと思います。

──生命力とは?
 障害とか事故で両手が無い人が足だけで字を書いたり、驚くべきことをやってのけますよね。失ったものを回復しようとしたり、補おうとしたりする力こそ、正に生命力そのものじゃないかと思うんです。実はブレイクダンスはジャグリングとすごく似ていて、大雑把に言うと、ブレイクダンスは身体のどこででも立てるようになるテクニックです。ジャグリングを「すべての身体の部分を手にする行為」だとすると、ブレイクダンスは「すべての身体の部分を足にする行為」だと言えます。これこそが僕の思うダンスであり、ジャグリングです。社会に抑制されてきた身体性を、自分のアイデアと修練で簡単に越えられる。そこにものすごい可能性を感じています

──社会から抑圧されている能力の復権ですか。
 特別な適性が必要なバレエは、適性外の多くの人を救えないけど、ブレイクダンスでは腕が強い人は逆立ち系をしたらいいし、首が強い人はヘッドスピン、音楽に乗るのが得意な人はステップで見せたらいい、と許容量が大きい。でもやはりすごい技をやらないと勝てない部分は残る。その点ジャグリングは、腕が無かったら足で、足が無かったら口でも背中でもできる。どこまでも優しいなと思います。


ダンス

──ダンス側からの物言いで失礼ですが、初めて『逆さの樹』を見た時、ダンスの人に見せたいと心から思いました。ダンスには、ときに「異質な身体」の乱入によって活性化してきた歴史があるからです。かつての舞踏やストリートダンス、そしていまのサーカスがそれにあたる。その意味でも、今回トヨタ・コレオグラフィー・アワードのファイナリストに『逆さの樹』が選ばれた意義は大きいと思います。実際ダンスの人々は大いにザワついていましたから(笑)。

 僕は、すでに世界中に溢れているようなものばかり作っていても、誰も救われないじゃないかと思っているんです。

──「救われない」というのは?
 コンテンポラリーダンスは、「バレエもモダンダンスも違うよね」ということを責任もって言った人が創ってきた新しい文化だと思うんです。それが「違うけどどうしていいかわからなかった」人たちを救ってきた。アートはその繰り返しで、今あるものに満足していない誰かを救わないとアートじゃないし、生きている意味がないと思います。新しいダンスを作る責任を引き受ける必要があるんです。

──本来のコンテンポラリーダンスは、ジャンル分けできないほどの自由さと多様さを指していましたが、誕生から30年の歴史の中で、ひとつのジャンルであるかのように扱われ、さらには“守るべき村”のようになっている面が残念ながらあるのかもしれませんね。


呼吸

──渡邉さんの話では、あまり呼吸の話がでてきません。今のダンスにおいて、呼吸は非常に重要だと思うのですが……。

 そうですね。呼吸は自分だけでしてないというか……。僕は物との純粋な関係をやりたいので、球が動いた時にどう反応できるかが全てなんです。だから、僕の呼吸やタイミングは関係ないんですよね。

──呼吸法で身体をコントロールする必要はないということですか。
 例えば、静寂の中で星を見ていると、ジーっという音が鳴って、空間認識能力が爆発的に広がる瞬間があるんです。空の高さや遠くの池のさざ波、建物の裏側までが感じられる瞬間。すると空中の球が粘度の高い液体の中をゆっくり沈んでくるようにみえて、自分の周囲の空間がバッと開いて風が通る。その状態になればどういう風にでも動ける。それが僕にとっての呼吸かもしれません。音楽に近い。いわゆる呼吸法とかはやったことはないし、必要性も感じません。

──しかし息が上がったら動けないのでは……ひょっとして毛穴からの呼吸量がすごいのでしょうか(笑)。
 確かに僕は冬も常に半袖で、脱いで風を当ててないと身体がしんどいですね。脱いだ方が身体の調子も速く上がる。あと「皮膚の可動域」が非常に重要ですよね。

──「皮膚の可動域」ですか?
 例えば、腕まくりして肘を机について、指先を上に伸ばしてみてください。手指は普通に動きますよね。では肘は机に付けたまま、手首の15センチくらい下を反対の手で握って下方にグッと引っ張ってみてください。皮膚がピンと張りますよね。すると途端に手首や指が動かしにくくなるでしょう。僕はこれを「皮膚がロックされた状態」と呼んでいます。逆に掴んでいる手を上に移動させて皮膚を掌に送り込むと、ロックが外れて軽く動くようになる。これが「皮膚の可動域」です。いくら関節が柔らかくても、皮膚が張っていたらそれ以上は動かない。みんな柔軟というと関節を開くことばかり考えますが、じつは皮膚が一番有機的な関節なんです。

──皮膚を関節とみなすなんて、初めて聞きました。
 僕以外に言っている人を聞いたことがないです(笑)。逆になぜみんなは気付かないのか不思議です。身体が動くときは、必ず皮膚も動いているわけですから。筋肉に頼った動きだと筋肉が膨らんで皮膚の可動域が狭まるから、できるだけ筋肉を使わないようにしています。柔軟というのは関節の柔らかさだけじゃなくて、皮膚もとても関係していて、僕の皮膚はゴムみたいに伸びます。「皮膚がロックするのを利用して反対方向に動く」とか、「ロックを解くだけで皮膚がスライドして省エネで動ける」とか、様々に使っています。身体の動きは形じゃなくて、エネルギーの流れとして捉えないといけない。皮膚の流れを無視してこう踊りたいとやっても、ゴミを出すだけです。

──その伝でいくと、バレエなどは……。
 ゴミだらけです。怒られるかもしれませんが、僕にはバレエがポーズの連続にしか見えない。そういう少なくとも型があるものは、僕にとっては踊りではない。土方巽らが舞踏を創ったときは、西洋のダンスの基準ではなく、東北の農村で寒い風に吹かれてすくんだ身体の形を良しとした発想が本当にすごくて、それは『自分の身体が得意なことを使えばいい』ということだったと思うんです。そうして土方は自分の身体の流れに沿った踊りをやった。それって僕がやっていることと同じだ、僕のやっていることは舞踏じゃないかと思うことすらあります。しかし、その舞踏でも型を真似しているだけのものはバレエと同じで、踊りには思えない。

──私がフランスとカナダのコンテンポラリー・サーカスを見てきて一番感じたのがそこなんです。パフォーマーの身体に着目したと言われているコンテンポラリー・サーカスでさえ、「この舞台でなぜジャグリングをするのか」という根本的な問いかけに無頓着で、球を持つこと自体を問い直してみる必要があるのではないかと感じました。
 そうです。だから今考えている作品では、球を使わないつもりです。ジャグリングによって鍛えられた僕の身体が大事なので、その時そこにある物と関係を結ぶことになるでしょう。道具を失った時にどうできるか? がジャグラーの真価でもあるし。慣れたものとは違う環境に晒された時に、一番生命力が噴出しますよね。そういう作品をいま思考中です。


海外サバイバル

──2017年から拠点を海外に移すとか。まずはフランスに行かれるようですが、今後の予定をお聞かせください。

 色々あって現在の「頭と口」というカンパニーは、僕とコーディネーターの儀保桜子を中心とした活動になります。今後の予定は未確定なものまで含めると、フランス・オーストリア・イタリア・香港・日本などから招聘公演やクリエイションの話が来ています。もう日本の家も引き払っているので、宿無しの状態ですが、この「家がない」という状態が素晴らしいんですよ。だって決まったところに帰らなくていいんですから(笑)。
 実は、今、個人的に「サバイバル・プロジェクト」というのをやっているんです。服を着なきゃ、自転車を停めたところに戻らなきゃ、家に帰らなきゃ……ということが煩わしい。そういう「物や環境に煩わされる」ということもジャグリングの範疇で考えてみたいと思っています。ジャグリングをするために助成金をとったり、バイトをしたりしなければいけない。そういう社会的な制約も煩わしい。みんなすごく苦しそうだし、でももうそういう時代じゃないと思うんです。社会的な制約や抑圧を取り除いて、ジャグリングだけをやっていたいんです!

──なんかスゴいことを言い出しましたね。
 そのためにできる限りお金を使わずに生きたい。ゴミを出したくない。先日、山に山菜を採りに行ったとき、小川を越えるためにジャンプしたり、岩肌にぶら下がったりしました。別にトレーニングしなくても、勝手に環境がジャンプしたり、ぶら下がったりさせるんです。裸足によって冷たさ、温かさ、風、太陽の光など、様々な情報を受け取ることができた。しかし社会生活では身体をそういうふうに使う機会自体を失っている。別に僕はネイチャーの人になりたいわけではありませんが、あくまでも生物として美しいものになりたい。「人間の形をしたまま動物になるにはどうすればいいか?」という方法をずっと探しているんです。

──サバイバルによって、さらに新しい感覚を開いていくわけですね。
 僕は、ダンスや音楽の上の段階にジャグリングがあると思っているんです。だって音楽家は楽器と自分の身体の関係性を極めた結果、音が出ている。ダンサーも床と身体の関係性、ジャグラーも道具と身体の関係性を追求している。すべては「人と物の関係」、もっと言えば「人と物と環境の関係」なんですが、その全体をテーマにした活動はありません。僕がやっているのはそこなんです。大きく言えば「人と物と環境の関係」というジャグリングの本質を追求することによって、人間の生き方が変わっていくのではないかと信じているんです。
 
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