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Performing Arts Network Japan
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横山拓也
横山拓也(よこやま・たくや)
1977年、大阪府出身。劇作家、演出家、iaku代表。鋭い観察眼と取材を元に、立場や事情の異なる人の議論をエンターテイメントに仕上げる会話劇を得意とする。「消耗しにくい演劇作品」を標榜し、全国各地で再演ツアーを精力的に実施。旗揚げ作品『人の気も知らないで』はほぼ毎年どこかの地域で上演され、iakuの公演だけでも13都市約70ステージに及ぶ公演を行っている(2018年現在)。日本劇作家協会会員(関西支部運営委員)。クオークの会所属。伊丹想流私塾5期生。受賞歴に、第15回日本劇作家協会新人戯曲賞『エダニク』(09年)、第1回せんだい短編戯曲賞大賞『人の気も知らないで』(13年)、17年、吹田市文化功労者表彰、第72回文化庁芸術祭賞 新人賞受賞『ハイツブリが飛ぶのを』(脚本、17年)、大阪文化祭奨励賞受賞『粛々と運針』『ハイツブリが飛ぶのを』の舞台成果(17年)。

iaku
http://www.yokoyama-iaku.com/
iaku『エダニク』
(2013年1月/津あけぼの座)
撮影:堀川高志
エダニク Play of the Month
iaku『人の気も知らないで』
(2018年7月再演)
撮影:堀川高志
人の気も知らないで
iaku『粛々と運針』
(2017年6月2日/新宿眼科画廊 スペース地下)
撮影:堀川高志
粛々と運針
iaku『流れんな』
(2014年10月/三鷹市芸術文化センター星のホール)
撮影:堀川高志
流れんな
Artist Interview
2018.10.22
play
Dramaturgy of Quarreling   The language power of Takuya Yokoyama  
口喧嘩のドラマツルギー 横山拓也の言葉力  
立場や事情の異なる人の葛藤を、関西弁のテンポと笑いを交えた論理的な思考による会話劇に仕立てる劇作家・演出家の横山拓也(1977年生まれ。iaku代表)。2009年に屠場の職人たちの葛藤を描いた男3人芝居『エダニク』(第15回日本劇作家協会新人戯曲賞受賞)で注目されて以来、登場人物たちが普段押さえ込んでいる気持ちを吐き出す会話や口喧嘩により社会の矛盾に迫る作品を多数発表。「読むだけで人の心を動かす会話」を目指すという横山の歩みをインタビューした。
聞き手:大堀久美子

──横山さんは大阪芸術大学在学中に、劇団売込隊ビーム(2011年より充電期間中)の旗揚げに参加しています。劇団代表の山田かつろうさんとは高校の同級生だったそうですが、演劇への関心は高校時代からですか?
 「文章を書く」ことに関しては中学時代から興味がありました。書いたものを人に読ませて、笑わせるのが楽しかったんです。

──読書が好きというのではなく、書く方が好きだったのですか。
 そうです。実は、父が「SFマガジン」を創刊号からすべて揃えるほどのSF好きで、「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズ(1961年にドイツで刊行されて以来、草案作家のシノプシスに沿って複数の作家が書き続けているリレー小説)を原書で読みたくて大学でドイツ語を専攻したほど。それでも足らず、30年遅れの日本語訳を「読み切れない」と泣きながら読み続けている人です。反発とまではいきませんが、そういう父を見ていたので僕が読書にのめり込むことはありませんでした。

──横山さんはお笑いのメッカである大阪の出身ですが、笑わせたいというのはそういう大阪人としての発想ですか。
 そういう大阪のノリもあったと思いますが、単純に面白い文章が書きたかったんです。高校でも学級日誌などに勝手に小説を連載したりしていました。劇団代表の山田君は人前で演じることで笑いを取るのが好きなタイプでしたが、自分は前に出るタイプではなかったけど、陰で文章を書いて人を笑わせるみたいなスタンスでした。

──小説家で影響を受けた人はいますか。
読書体験としては筒井康隆さんや星新一さんから入りました。大阪芸術大学ではSF作家の眉村卓さんの演習で創作を習ったこともあります。SF的なものは好きでしたが、自分がものをつくりたいと思って読んでいたわけではなく、娯楽としてというか、お笑いや音楽を楽しむのと同じ感覚で親しんでいたので、今の自分にどう影響しているかは定かではありません。

──横山さんは1977年生まれです。東京では多田淳之介さん、タニノクロウさん(二人とも76年生まれ)と同世代です。時代的に影響を受けたカルチャー・シーンなどはありますか。
 深夜番組などで吉本の若手芸人はチェックしていましたが、劇場に足を運ぶほどではありませんでしたし、高校1、2年はサッカー部だったので演劇も観ていませんでした。
 実は、演劇は観るより先に文化祭のクラスの出しもので台本・演出を担当しました。運動部は文化祭に参加できなかったのですが、クラスは違ったけど仲の良かった山田君が1年からクラス劇を主導してスターになっていたので、3年の時に自分もやってみようかと。演劇のことは知らなかったので、好きな映画をコラージュした、『転校生』(82年、大林宜彦監督)と『卒業』(67年、マイク・ニコルズ監督)を混ぜたようなドタバタでした(笑)。それでも学年で1等になり、イイ気になっていたところ、山田君に「惑星ピスタチオ(89年旗揚げの大阪の小劇団。00年に解散)が面白いから観に行けば」と言われ、初めて観たのが『破壊ランナー』(93年初演。生身の人間が音速で走る超人レースの実況で全編が綴られる)です。阪神・淡路大震災の前日でした。

──その観劇体験で演劇を志して、大阪芸術大学に進学されたのですか。
 いえ、別の話です。大学は行っておいた方がいいだろう、くらいの気持ちでいたら、山田君含め身近に大阪芸大志望者がやたらにいて。資料を請求したり学園祭に行ったりするうちに、文章を学ぶ学科もあるし、行ってもいいかなと思うようになりました。両親は最初大反対だったのですが、推薦を受けて合格してしまったのでなし崩しになった。加えて高校2年の担任の国語教師が、保護者面談で、僕が文章を書く道を選ぼうとしたら止めないであげて欲しい、と言っていたと。母はそれもあって、仕方ないと思ったらしいです。

──大学に進学した翌96年、山田さんら舞台芸術学科の学生と横山さんとで結成した劇団売込隊ビームが旗揚げ公演をします。
 山田君は入学直後からメンバーを集め始めて、並行して僕にも戯曲を書くよう依頼してきました。旗揚げ公演の会場が大阪市営の施設だったので1年前には予約せねばならず、結局1年間稽古し続けて旗揚げに臨みました。演出も僕が任されたものの、何をしていいかわらかずただ見ていただけだったので、2回目以降は役者に任せました。エンターテイメント志向の強い劇団で、最初はそれこそピスタチオのような作品をつくっていました。

──文芸系から映画づくりに進む人もいますが、横山さんの中に映像作品への志向はなかったのですか。
 実は映画にも興味はあり、映像学科も受けたのですが落ちまして。世代が近い監督と言えば山下敦弘さんや熊切和嘉さんが大阪芸大卒ですが、在学中に接点はありませんでした。それは演劇でも同じで、同じ大学出身で同世代の演劇人が意外にいなくて交流することもありませんでした。
僕自身、当時演劇は趣味のような感覚だったので、山田君や劇団員に求められるもの、みんなが幸せになれる作品、劇団や俳優が売れるようになるものを書くというスタンスでした。でも、次第に関西で活躍する他の劇団や劇作家と比較され、批評にも晒され始め、大学を卒業して20代半ば過ぎてようやく自分の作品、自分の表現について考えるようになりました。アーティストとしての自覚が芽生えるのが、かなり遅かったと思います。

──劇団活動と並行し、伊丹AI・HALLで劇作家の北村想が塾長を務める劇作家のブラッシュアップ講座である想流私塾5期生として入塾していらっしゃいます。
 大学最後の年に「CAMPUS CUP」という大阪市主催の、大学生を対象にした演劇コンクールがあり、そこで優勝しました。翌年、大賞と優秀賞の2劇団は劇団太陽族(82年に旗揚げした大阪の小劇団。代表作に『ここからは遠い国』など)代表の岩崎正裕さんと合同で作品をつくる権利が与えられて。社会人1年目でしたが岩崎さんと作品づくりをし、岩崎さんが師範を務めている想流私塾の存在も知りました。失礼なことに、それまで北村想さんを作品共々知らず(苦笑)、岩崎さんともう少し交流を深めたくて想流私塾に入りました。

──岩崎さんや北村さんなど、塾で腕の立つ先輩劇作家と交流し、どのような成果がありましたか。
 入塾から1年後、岩崎さんに、「結局、何も変わらなかったね」と言われました。もちろん演習で出た課題に沿って書きましたし、学ぶ姿勢では通っていたのですが、無自覚なまま劇団でやっていたことを塾の中でも続けていたようでした。先にも言った通り、役者が楽しんでやれるものや劇団全員で盛り上がれる戯曲をという発想だけで書いていて、僕自身は漠然と“やりたいことをやっているつもり”だったから変われなかったんだと思います。実際、劇団はそれなりに人気も動員もありましたし。
想流私塾の卒塾生の中で、劇団をもって活動をしている人だけが入れる「クオークの会」が発足し、そのメンバーにもなりました。新作を持ち寄って合評するのですが、売込隊ビームは“売れている劇団の人”という見られ方をしていたようでそこでも変わるチャンスがなかった。でも旗揚げから6〜7年目くらいして、「ホントにこんなことをやりたいの?」という、否定的な意見を劇作家の先輩や劇場関係者から言われることが増えてきた。劇団でも、コント集的なものと、僕が作家性を出そうと努めた人間のダークサイドを描くような戯曲とを交互に上演するという、活動の指針が揺らぐ時期が続きました。

──08年には、OMS戯曲賞の最終選考に劇団作品『コクジンのブラウス』(高校の同窓会の参加者たちが過去と往来しながら15年前に起きた同級生の“自殺”の謎を解く推理劇)が残ります。
 選考委員の佐藤信さんと生田萬さんに、講評を聞いているだけで涙が出そうになるほど辛辣なことを言われました(苦笑)。いじめていた同級生を屋上から突き落とした上に焼却炉で焼くといった過激な描写もある戯曲で、その部分への批判が大きかった。
 ちょうどその頃、『エダニク』(2009年に第15回日本劇作家協会新人戯曲賞受賞)を執筆中でした。これは「真夏の會」(俳優・原真と夏によるユニット)からの依頼で、彼らが面白いと思う劇作家と演出家を招いて公演する企画への書き下ろしです。iakuでもお世話になっている演出家・俳優の上田一軒さん(大阪の劇団スクエア代表。劇団は16年に活動休止)や、いまやiakuのレギュラー俳優でもある緒方晋さんともこの企画がきっかけで出会いました。

──『エダニク』は東京近郊の屠場の休憩所を舞台にした作品です。BSE(狂牛病)検査に回すはずの牛の延髄が紛失したことから、職人ら3人の男たちが屠畜という職業などアイデンティティに関わる激しい議論をする戯曲で、横山さんの出世作です。どんな執筆過程だったのでしょうか。
 真夏の會から「男3人芝居」という依頼をされたので、それなら労働の現場を描くと熱量もあって面白いんじゃないかと、屠場を舞台にしました。でもリサーチを始めてみると、そんなに安易に取り扱える設定ではなかった。たまたま中学の同級生が屠畜の職人になっていたので、連絡して現場を見せてもらいました。戯曲を書くのに初めて取材のようなことをしたのですが、話を聞くと次々に書くためのネタがでてきた。
 最初は屠畜の職人サイドの話だけで戯曲を書いていたのですが、役者や演出家と読み合わせすると、「バランスが悪いからもっと畜産農家サイドの取材もした方がいい」という意見が出た。それで、伝手を頼って畜産農家の取材をして、ようやく戯曲のバランスが取れてきた。それまで他人の目や脳味噌を借りて書こうと思ったことはなかったのですが、『エダニク』は上田さんや役者たちの意見に耳を傾けて、何度もリライトしました。特に上田さんとの作業が新鮮で、彼の意見と僕が押し通したいことを喫茶店で何時間も議論して改稿していきました。
 ようやく迎えた本番では今まで感じたことのない観客の熱気を感じて、僕は演劇でこういうことをやっていきたいんだともの凄く手応えを感じました。とはいうものの、その後も3年は劇団を続けたのですが‥‥。

──どういう手応えを感じたのですか。
 「取材は(戯曲執筆のために)力を持つ」ということです。加えて、上田さんが稽古途中で、軽妙なせりふ運びの戯曲をそのまま面白くつくろうとするのではなく、皆なで深いところまで読み込んでつくる方向にシフトしてくれたのも大きかった。僕自身が無自覚なままに書いていた何かに気づいて、表面に見えている笑える部分以上に、もっと何かが潜んでいると、上田さんが座組全体で突き止めようとしてくれたのはとても有難かった。僕も、『エダニク』はいつもと何か違うと思いながら書いていましたが、上田さんがその「違い」を言語化してくれたんです。iakuで一緒に作業をしていても、僕が無意識に筆の運びで書いてしまっているところを、上田さんが改めて解説してくれることが多いです。

──劇団は11年に休団し、翌12年から横山さんの個人ユニットiakuが始動します。
 『エダニク』を経て、劇団でも取材をして戯曲を書いたりしたのですが上手くいきませんでした。11年3月の東日本大震災の翌月、劇団の東京公演が予定されていました。高校3年で経験した阪神・淡路大震災には距離を感じていたのに、あの時はテレビに釘付けになり、ノイローゼに近い状態になってしまった。それで僕は中止を望んだのですが劇団側に押し切られるように実施し、結局それを最後に活動休止になりました。
 同じ年の8月、大阪の演劇ユニット「極東退屈道場」を率いる林慎一郎さんの声かけで、彼の代表作『サブウェイ』と『エダニク』を伊丹AI・HALLと東京の王子小劇場で合同公演するという企画が持ち上がりました。そこで改めて『エダニク』が認知されているのを知り、「この作品を超えなければ」と思った。その気持ちと、東日本大震災を機に考えた「他者の痛みや抱えているものと自分との距離」みたいなことを踏まえて書いたのが『人の気も知らないで』です。

──『人の気も〜』は大阪の女優3人のユニット「Aripe」からの依頼で書いた戯曲ですよね。
 はい、そうです。劇中には登場しないのですが、交通事故で片腕を失った女性について、彼女の見舞いに行った同じ会社の同僚たちがそれぞれの事情や思いを重ねながら彼女をいかにサポートするかについて激しく議論するという構成です。最初は女優3人と男優1人の4人芝居でした。実は、劇団時代に似たような事故を経験していて、それからずっと自分の中で自問自答していた「事故の責任の所在」などについてのさまざまな考えが戯曲の根幹になっています。そのせいか、フィクションなのにリアリズムの感覚で筆が進み、非常に早く書きあがりました。

──確かに、会話の生々しさが強く印象に残る作品です。
 戯曲執筆の際、僕が最初に考えるのは「どんな話題を真ん中に置き、どういう立場の人を周りに置けば葛藤やドラマが立ち上がるか」ということです。後はせりふを書き連ねるうちに、勝手に物語が転がり出す。もちろん人間関係や人物の背景は別に考えますが、後は10数年間かけて劇団で身に着けたスキルによって自動的にストーリーが運ばれていきます。
『人の気も〜』が書けた時に、もう『エダニク』の幻影を追わず、この先は気負わずに書けるんじゃないかと思えました。それで女性3人芝居に書き直し、12年6月のiaku旗揚げ公演で上演した。その後、第1回せんだい短編戯曲賞に応募して大賞もいただきました。

──『人の気も〜』は『エダニク』以上に凄まじい量の会話で畳み掛けてくる戯曲です。それぞれの事情を抱え、異なる立場、異なる意見の3人の女性が、日常では対立を避けて誤魔化してしまうような考えや気持ちをお茶飲み話のようなテーブルトークでぶつけ合い、会話のみによって作品が構築されていく。観客は自分の気持ちを代弁してくれる議論に爽快感を感じる一方、勝ち負けのない議論によって答えの出ない問いを持ち帰ることになります。
 そんな大仰なことは考えてはいませんが……「人はみな非常に上手く嘘をついて生きている」ということには、とても意識的です。極端に言うと、人間には“本当の自分”なんかなくて、場当たり的に生きているだけなんじゃないかという気がするんです。
 僕の戯曲は、傷つかないよう表層のやり取りで始めた人間関係が何かにつまずいて綻び、そこから見えたものを指摘せざるを得なくなり、相手はそれを守るために嘘をつこうとし……ということを繰り返すうち、言葉をぶつけ合って、隠しておきたい嫌なところ、日常では有り得ない深みにまでたどり着く構造になっている。でもどうやってそれを書いているのかと聞かれても、自分で上手く説明することができません。
 流れのままに書くと前半が冗長になることも多くて、改稿しながら不要なところを削るといった編集的な作業が不可欠です。そういうところで上田さんに助けて頂くことが多くて、演出だけでなく、一種のドラマトゥルク的な仕事もしてもらっているのだと思います。実際iakuの『粛々と運針』(17年6月初演。母がガン告知を受けた兄弟と、妊娠を夫に言い出せずにいる妻。二つの家族の葛藤を周到な会話で描いた作品)では僕が作・演出で、上田さんにドラマトゥルクをお願いしました。

──大量の会話だけ演劇を構成しなくても、設定や世界観で前提をつくる方法もあると思います。会話にこだわる理由はどこにあるのでしょう。
 僕は色んな演劇を観るのが好きですし、壮大な世界観や展開で進んでいくものも楽しんで観ますが、その戯曲を活字で読んだ時に、実際に観た興奮が戯曲だけでは感じられないことが間々あります。でも自分の戯曲は読み返すと、会話によって読む人の心が動くと感じられる。どうしたら読むだけで人の心を動かす会話になるかに、きっと執着しているのだと思います。ただ、あまりに隙のない会話は聞いていても息苦しくなるので、人間味を加えてまろやかさも出すようにはしているつもりです。生理的なことに引っ張られたり、欲望に逃げたりするどうしようもない人間臭さを織り交ぜるからこそ、辛辣な言葉もより光るし、結果、議論劇などと肩ひじ張らずにエンターテイメントとして観ていただけると思っています。

──また、『人の気も〜』はもちろん『流れんな』(13年初演。貝漁で栄えた小さな港町の食堂を舞台に、母の死をわだかまりとして抱えた姉妹の相克と、地元解散加工会社による海洋汚染の隠蔽を重ねて描いた作品)の姉妹、『粛々と〜』の妻など、横山作品には女性特有の環境や状況、心理みたいなものが非常に巧みに取り込まれています。
 女性というよりは「命」を描こうとした時、それを生み出す存在としての女性を避けて通れないから描いているのだと思います。だから女性を客観的によく観察しますし、その生きづらさみたいなものに敏感かも知れません。

──今は女性を巡るどんな現象、社会問題に関心をお持ちですか。
SNS上のme too運動やハラスメントに関することに注目しています。誤解してほしくはないのですが、世間ではいわゆる「美」が多様に商品化されており、それがないと経済が回らない社会なのに、男性が「美」に対しての何らかを言葉にするとハラスメントになってしまう現状がある。矛盾したこの状況下で、成人した男女がどう生きていくのかを注視しているし、戯曲の題材にもなり得ると思っています。
 僕の息子は小学生ですが、学校では男女ともに“さん付け”で呼び合うようにと言われている。いじめの遠因になるからあだ名も禁止だと。公立小学校でもそういうことが起きているんです。“さん付け”の理由がLGBTを意識したものなのか、男女の分け隔てをなくすためかはわかりませんが、自分が生きてきた時代と違うというだけでは片付けられない何かを感じます。そんな世の中で、息子はどういう恋愛をするのか気がかりです。

──表向きの差別をなくすため、男女共に“さん付け”で呼び合う嘘だらけの社会でも、言葉を尽くして対話すれば嘘やギャップが少しは解消する。人間の最大の武器は言葉だと、横山さんの戯曲は思い出させてくれます。しかも、「そこまで徹底して議論したら人間関係が壊れる」というギリギリ感はスリルとサスペンスに満ちている(笑)。
 会話や議論そのものがエンターテイメントになり得ると感じたところから、今のiakuの作風は確立されました。それは観客の、自分自身は当事者にはなりたくないけれど、他人の議論や対話は覗き見たいという密かな欲求に応えていたのかも知れないと、今、話しながら思いました。

──現在、横山さんは東京在住ですが、創作は関西を拠点に行っています。
 作品づくりに関しては、場所が大阪でも東京でもそれほど大きな差はないように思っています。どちらも都市部であることに変わりはありませんし。iakuを立ち上げた当初は色々な地域でiakuの作品を観てもらいたかったので、僕自身も三重や福岡などに足しげく通い、現地の演劇人との交流を広げました。でも結局大切なのは、「どこでつくるか」ではなく、「いかに良い作品をつくるか」でしかない、というのが今の実感です。僕の作品は関西の方言を使ったものが多いですが、そのうえで作品強度を上げて「関西・大阪発」というブランドとセットで評価されたいと思っています。

──今年5月に過去の4作品をこまばアゴラ劇場で一挙上演する企画「iaku演劇作品集」を行い、そのうち『粛々と運針』は5都市、『人の気も〜』は2都市でツアーを行いました。作品をできるだけ再演し、ツアーを行うことはiakuの指針としても掲げられていますが、今後の活動についての展望も伺えますか。
 戯曲の完成がどこにあるのかはわかりませんが、上演を重ねることで精度も強度も上がると思っています。作家がその人生において何作書けるかは個人差もありますが、言い訳しないで済む、恥ずかしくない作品を残していきたい。“古くならない”というのはありふれた言い方ですが、同時代性も持ちつつ何年後でも読める戯曲でありたい。図書館に自分の戯曲が置かれることを一つの夢だと思っているので、僕は演劇に関しては戯曲中心に考えているのだと思います。
 ただ、こうして東京で作品発表をして多くの方に観てもらっていると、仕事=新作執筆という図式にとらわれてしまいそうな感覚もあります。新作の依頼に対して、僕のほうから「旧作でお願いします」と言えるだけの強さはなかなか持てません。そこは旧作を上演してもらえるぐらい自作の強度を上げるしかないし、自分自身との戦いでもあると思っています。

──海外での展開などは考えていないのでしょうか。
 実は今回の『人の気も〜』ツアーの金沢公演では、海外からの観光客が多い土地柄を考えて、初めて英語字幕をつけます。僕の戯曲は日本語のニュアンスに頼るところが大きいと思う反面、外国人に今の日本を見てもらうためには面白い作品だとも思うので、どう伝わるのか興味津々です。それに英語圏だけでなく、議論好きの隣国・韓国でも上演してみたいな、と。断りなく美容整形した妻とその夫との諍いを描く『仮面夫婦の鏡』(11年初演)など、お国柄にも合っているのではないでしょうか(笑)。
 
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