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三浦基
三浦基(みうら・もとい)
1973年生まれ。桐朋学園芸術短期大学演劇科・専攻科卒業。1996年、青年団入団、演出部所属。1999年より2年間、文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに滞在する。2001年帰国、「青年団リンク・地点」の代表として2003年から2005年まで活動。2005年4月、青年団から独立して地点の拠点を京都に移す。同年『かもめ』(作:A・チェーホフ)にて利賀演出家コンクール優秀賞を受賞。2007年より<地点によるチェーホフ四大戯曲連続上演>に取り組み、第三作『桜の園』で文化庁芸術祭新人賞を受賞。2010年には初の著作『おもしろければOKか?現代演劇考』(五柳書院)を出版した。2008年度京都市芸術文化特別奨励者。
http://www.chiten.org/
地点『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─』
(2010年1月/吉祥寺シアター)
あたしちゃん、行く先を言って
あたしちゃん、行く先を言って
撮影:青木司
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Artist Interview
2010.2.22
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Giving expression to dissected texts  The new possibilities of compositional theater pioneered by Motoi Miura  
解体したテクストを発語する 構成劇の新たな可能性を切り拓く三浦基  
1973年生まれの三浦基は、柴幸男(ままごと)、松井周(サンプル)、多田淳之介(東京デスロック)などゼロ世代の才能を排出している平田オリザの青年団演出部から独立した演劇人。劇作家が演出を兼ねることの多い日本の小劇場演劇において、演出家として独自の演劇を追求。チェーホフの『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』や太田省吾の全テクスト(戯曲、評論等)などを取り上げ、自問自答するようにテクストや言葉を解体し、その言葉を発語する俳優、舞台美術家、照明家などとの協働作業により作家の世界を再構築して視覚化している。2005年から京都に拠点を移し、劇団「地点」を率いて活動を続ける三浦に、バックグラウンドや演劇観について話を聞いた。
(聞き手:扇田昭彦)



──日本の小劇場演劇では、劇作家が演出家を兼ね、場合によっては俳優も兼ねていることが多いのですが、三浦さんは劇団「地点」で演出家として独自の演劇を追求されています。その方法や考え方については、最近、発表された著書『おもしろければOKか?』(五柳書院)でも詳しく紹介されています。面白かったのは、例えば『ワーニャ伯父さん』の一節「草刈りはすっかり済んだというのに、毎日雨ばっかり(以下略)」を、「草刈り・・・すっかり・・・済んだ・・・まいにち・・・雨」と解体していき、三浦さんの批評的尺度を加えながら俳優に「クサカリスッカリスンダというのにマイニチ、アメバッカリセッカク・・・」と発語させる手法など、非常にユニークな試みだと思います。三浦さんは1973年生まれで、桐朋学園大学演劇科で演劇を学ばれましたが、その当時から演出家になろうと思っていたのですか。
 桐朋学園には俳優になろうと思って入りました。桐朋は短大で最初の2年間は俳優修業、その後にもう2年間専攻科というコースがあり、僕は専攻科と合わせて4年間学びました。専攻科には自主公演があって、そこで初めて演出をしました。その時に、俳優より演出家に向いているんじゃないかと漠然と思った。学生ですから大して確信があったわけではないのですが(笑)。

──専攻科にはどのような先生がいましたか。
 演出家の篠崎光正さんがいました。篠崎さんの演劇の考え方や方法論がその頃一番勉強になりました。蜷川幸雄さんや木村光一さんが演出された舞台にも俳優として出演しました。

──篠崎さんは「シノザキシステム」と呼ばれる演技のトレーニング方法で知られていますが、その影響はありましたか。
 ありましたね。スタニスラフスキー・システムは読むと難しいのですが、篠崎さんは俳優修業を非常にわかりやすくレジュメにされていて参考になりました。特に演技の“間”について「心理間」と「生理間」と「物理的な間」があるという分析は新鮮でしたね。戯曲に「……」とあると、だいたい心理的な間として解釈されてしまっていわゆるクサイ芝居になりがち。そういうところに騙されるなと。本のページをめくる時間は、物理的な間で、これはほとんど芝居にならないけれど、前衛タイプの人はこういう風にデフォルメして(身振り)やるとか。生理的な間というのは、ハプニング的な間で、コップを落としたらシーンとしてしまうとか、そういう分析をするわけです。目から鱗でした。

──大学では何を演出されたのですか。
 専攻科1年の時に、岸田國士の『ヂアロオグ・プランタニエ』というダイアローグの小品と平田オリザの短編『思い出せない夢のいくつか』と『阿房列車』をオムニバスでやりました。列車の中という設定で。平田さんのことは知らなかったのですが、たまたま青年団の俳優の志賀廣太郎さんが講師で来ていて、戯曲を教材で使っていました。演出したいなと思ってお願いしたら、わざわざ平田さんが観に来てくれて、おもしろいっておだてるから(笑)、演出をやってもいいのかなと。

──その時に平田さんとの縁ができたのですね。
 そうです。それで実際の舞台を観てみようと行ったのが『東京ノート』でした。アゴラ劇場の2階から観たんですが、異常な緊張感がありました。僕は、『S高原から』が大好きで、ちょうど僕の実家がある秋田公演があったので、稽古が見たくて手伝いたいとお願いしました。そしたらその稽古がすごくおもしろかった。平田戯曲には、よくト書きに「3秒後」とか書いてあるのですが、本当に大まじめにその時間を計っていたんです。登退場のところで、平田さんが「今何秒?」って確認して、「じゃあ、後2秒遅らせて」とか、言ってるんです(笑)。「異常だな、この人たち」と思ったんですが、見ていくうちにその演出の仕方の意味がよくわかってくる。それは結局、篠崎さんが言うところの“間”の分析とすごく繋がるところがあって、非常にシンパシーを感じました。

──卒業してすぐに青年団の演出部に入ったのですか。
 実は、僕が一番影響を受けたのはSCOTの鈴木忠志さんなんです。学生の時に『リア王』を見て演劇をやろうと思ったくらいで、夏の利賀フェスティバルにも毎年通っていました。それで、卒業したら鈴木さんが当時芸術監督を務めていた水戸芸術館のACM劇場に行くか、青年団のオーディションを受けるか迷っていたのですが、鈴木さんは自分の父親とほぼ同じ年齢なので、世代の近い青年団に決めました。
 青年団では入団して1年目に若手公演があって、そこでそのまま劇団に残れるかどうかの審査があるのですが、僕は「俳優はダメだ」と落とされたんです。そうしたら平田さんから手紙がきて、「演出部に来る気があったら連絡しろ」とハッキリ言われて。演出部一期として活動を始めました。アゴラの職員として劇場の運営面からトイレ掃除までいろいろやりながら、空いた時間に稽古をして、自主公演で発表していました。

──三浦さんは演出家として劇作もやろうとは思わなかったのですか。
 桐朋学園で演劇を学んでいたので、「作・演出」が同じなのは日本の小劇場演劇という特殊なジャンルのもので、オーソドックスな演劇は作家、演出家、俳優は別のものだという感覚をもっていました。なかには高校演劇出身の人がいて、台本を書いたりもしていましたが、極端につまらなくて、何でこんな日記みたいなモノを芝居にするのか、これは演劇じゃないだろうと。ですから自分で劇作をやろうとは思いませんでしたね。
 
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