The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
賀古唯義
賀古唯義(かこ・ただよし)
1956年埼玉県生まれ。公益財団法人文化財建造物保存技術協会所属文化財建造物修理上級主任・1級建築士。現在、富山県高岡市の重要文化財勝興寺設計監理事務所長。

公益財団法人文化財建造物保存技術協会(文建協)
1971年設立。76年には「建造物修理」と「建造物木工」の分野で選定保存技術保存団体に認定される。国宝・重要文化財の建造物の修復のほか、歴史的建造物の調査、文化財の構造物耐震診断、保存管理活用計画の策定、技術者の養成などを行っているほか、ジャワ中部地震による世界遺産プランバナン修復計画など国際的な技術協力も行っている。2010年4月現在技術職員は97人。修復作業を通して、地元の建設会社や工務店に文化財の修復技術を伝えている。
http://www.bunkenkyo.or.jp/
芝居小屋
演劇などの興行を行うために建てられた古い形式をもつ日本の劇場。江戸時代の機構を残す現存最古の芝居小屋といわれているのが、天保6年(1835年)に建設された香川県琴平町にある国の重要文化財「旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)」。「枡席」(板の間にゴザを敷いた平戸間を木組みで碁盤に仕切ったもの)、「高土間」(平土間の周囲を囲むように設けられた一段高い席)、高級な2階席の「桟敷席」などの客席構造をもつ。また、客席後ろから舞台に延びる「花道」や、舞台上から客席までを覆う葡萄棚(竹で組んだ簀の子。葡萄棚の上を裏方が動いて隙間から紙でつくった花びらなどを降らせる)、回り舞台などの劇場機構をもつのも特徴。こうした江戸時代の木造芝居小屋の造りは明治時代以降も踏襲され、各地に芝居小屋が建てられた。

これらの小屋は歌舞伎の上演だけを目的とした劇場ではなく、音楽会や政党の演説会なども行われる総合文化会館だった。だが、第2次世界大戦を境に日本人の生活様式や娯楽の嗜好が大きく変わったのに伴い、芝居小屋の経営は次第に行き詰まっていく。話芸や音曲、芝居は人気を失い、多くの芝居小屋は客席をベンチに変えて映画館に転用されるようになる。一時盛り返した活気もテレビの登場で凋落、閉館に追い込まれ、取り壊されたり、倉庫になったりして姿を消していった。

現存する芝居小屋は約30棟。1985年、旧金毘羅大芝居で人気歌舞伎俳優による「こんぴら歌舞伎」が開催されたのをきっかけに、市民による復興運動が始まり、再び芝居小屋で興行が行われるようになった。地元の商人たちが株券を発行し資金を集めて明治43年(1910年)に建設された熊本県山鹿市の八千代座、同年に鉱山労働者の娯楽施設として鉱山会社が建設した洋風の外観を持つ秋田県小坂町の康楽館は、国の重要文化財に指定されている。その他、大正5年(1916年)に地元有志によって建設された愛媛県内子町の内子座、昭和に入って復興された福岡県飯塚市の嘉穂劇場などが幾度かの復元作業を経て、現在も活用されている。芝居小屋のある町の行政や市民団体は「全国芝居小屋会議」を組織し、保存・活用を進めている。

全国芝居小屋会議
http://www.sunfield.ne.jp/~shibaigoya/index.html
pdf
an overview
Artist Interview
2010.5.28
play
The unique appeal of old playhouses   Links to Edo Period theater culture  
江戸時代の息吹をつなぐ 芝居小屋の魅力とは  
近代的な劇場が登場する以前、日本には「芝居小屋」と呼ばれる伝統的な木造劇場があった。現存する最古の芝居小屋が、江戸時代に歌舞伎を上演していた機構を残す香川県琴平町の「旧金毘羅大芝居」(1835年建設)である。明治、大正時代にも多くの芝居小屋が建設された。芝居だけでなく、さまざまな興行や演説会などが行われ多くの人でにぎわったが、時代の変化とともに次々に解体されていった。倉庫などに転用されて残ったもの、老朽化した建物を修復し芝居小屋として甦ったものなど、現存している芝居小屋は日本全国で30棟余り。うち5棟が次世代に残す日本の宝、重要文化財に指定されている。国宝や重要文化財の建造物を修復する専門家集団「公益財団法人文化財建造物保存技術協会(文建協)」の賀古唯義さんは、そのうちの2棟、日本の芝居小屋を代表する「八千代座」と「旧金毘羅大芝居」の修復で陣頭指揮を執った。「世界に誇る技術」といわれる木造建造物の修復技術と、芝居小屋の魅力について聞いた。
(聞き手:奈良部和美)



芝居小屋の成り立ち

──賀古さんは、明治43年(1910年)に建設され、今年100周年を迎える熊本県の八千代座の平成の大修復(平成8〜13年、1996〜2003年)と、昭和50(1975)年に移築大改修された日本最古の芝居小屋である旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)の平成の改修(平成14〜16年、2004〜06年)を手がけられました。海外の人には日本の伝統的な芝居小屋というと、東京・東銀座にある歌舞伎座の表玄関を連想する人が多いと思います。第2次世界大戦末期の東京大空襲で焼け落ちた歌舞伎座を、昭和26(1951)年に鉄筋コンクリートの建築物として再建したものです。歌舞伎座は建て替えのため、4月30日をもって閉場するので、残念ながらこの記事がウェブにアップされる頃にはもう見ることができなくなっています。
 芝居小屋の修復については、後ほど詳しくうかがいますので、まずは日本の芝居小屋の成り立ちについてお話いただけますか。演劇を見る場所や興行物をさす日本語の「芝居」という言葉は、社寺の境内で行う舞を芝生に座って見たことが語源だといわれます。つまり日本の伝統的な劇場の歩みは、露天で見るところから始まったわけですね。

 そうですね。まず舞台の上に屋根が掛かり、それから客席周囲の見物料の高い桟敷席に屋根が出来、最後に中央の土間を覆う大屋根が出来ました。ただし、初めのうちの大屋根は丸太や竹の骨組みに、ワラを編んだムシロを掛けた仮小屋でした。ムシロは隙間だらけで雨水を通すように思いますが、水はワラの茎を伝って軒先に流れるのでけっこう雨除けになるんですよ。雨天興行をするようになっても、初めはムシロの代わりに木材を薄く割ったこけら板で屋根を覆った「こけら葺き」でした。元禄年間(1688〜1704年)の芝居小屋は毎年柱を建て替えていたようです。ということはつまり、掘っ立て柱の仮掛けの小屋ということです。それが、瓦屋根の本建築になるのが享保年間です。僕は享保9(1724)年だと考えています。

──さまざまな仮説はありますが、本建築の芝居小屋が、いつ頃どのように成立したか、はっきりとは判っていません。
 僕は江戸の名町奉行・大岡越前守忠相が、「防火対策」のために本建築にした、というか結果的に本建築にさせてしまったと考えています。当時の消防は破壊消防で、火消しが家を壊して延焼を食い止めていました。瓦屋根だと、瓦が火消しの上に落ちてきて危ないため、江戸の町は瓦屋根が基本的に禁止されていました。しかし、大岡越前守は江戸の都市防火に熱心で、町火消しを組織化する一方、燃えにくい瓦葺き屋根にすることを奨励したんです。
当初、劇場は、「蛎殻屋根にせよ」と言われました。これは簡易防火屋根で、こけらを葺いた上に泥を塗り、それだけでは雨が降ると流れてしまうので、泥の上に貝殻を敷き並べたものです。芝居小屋は屋根が大きいから簡略な蛎殻屋根で良いと。
 その時に、江戸三座、これは幕府公認の興行許可を得ていた3つの大きな歌舞伎劇場ですが、その座元(興行責任者)が蛎殻屋根にすることと引き替えに、当時禁止されていた2階建て桟敷席の設置許可を願い出るんです。すると、大岡越前守からいっそ瓦屋根にしてはどうかと切り返されます。重い瓦屋根にするには、柱など下からしっかり建物を造らなければならないので建設費が高くなり座元には負担です。そこで彼らは、建物をしっかり造ると桟敷は自然に2階建ての形になってしまいます。そこを使わせてもらえるなら、その収入を瓦屋根に充てますと主張して、ついにお上の許しを得ました。瓦屋根を強要されたことを逆手にとって、座元は収入アップのために桟敷の増設許可を取り付けた。一方の大岡越前守は幕府の金を一文も使わずに被災しやすい芝居小屋を防火屋根にすることが出来た。それで、一気に劇場が本建築に移行したのではないか…。ということで、「劇場建築」というものが日本に発生したのは大岡越前守が防火対策を芝居小屋にまで拡大した享保9年だったと、僕は考えています。

──本建築になることによって、花道や回り舞台といった歌舞伎劇場独特の舞台機構が発達してくるわけですね。
 毎年造り替えなきゃいけないような仮小屋で、立派な舞台機構が出来るわけがありません。急激に舞台機構が発達するのは、18世紀後半の宝暦年間(1751〜1764年)頃からといわれています。その理由は色々あるようですが、僕は本格的な屋根が掛かり、雨が全く漏れなくなったことも大きな影響を与えたのではないかと推察しています。これについてはまだ誰もきちんと論考していないので、いずれまとめて発表したいと思っています。
 ただ、結局、歌舞伎劇場は生まれ育ちが仮掛けの小屋だし、庶民が芝居を楽しんでいた小屋なので、西洋のバロック劇場のようなお城の中に舞台を造るという堂々たる建築ではなく、本建築になってもどこか仮掛けっぽい安普請なところがあります。その仮掛けの伝統が、明治時代の文明開化によって立派な建物に変わるわけです。

──文明開化が歌舞伎にも影響して、9代目市川團十郎らが荒唐無稽な歌舞伎の筋立てを見直し、史実を尊重した歴史劇をつくったり、座元の12世守田勘弥が明治11年(1878年)に洋風建築の劇場を建てたりしました。
 歌舞伎座も明治22(1889)年に建てられた初期の建物の外観は洋風でした。ところが、明治44(1911)年に帝国劇場が開場して本格的な西洋劇場が出来てくると、同じことをやっていては駄目なので対抗して和風に改築した。その時に桃山風が始まるわけです。桃山風といっても桃山時代(16世紀後半)の様式でも何でもなくて、まさに江戸式で社寺建築まがいですが、桃山芸術のように華やかだというので、桃山風と称したようです。その代表的建築が4月末で閉場して取り壊される現在の歌舞伎座です。

──和風に回帰するときに、日本の建築の中で一番立派な社寺建築に倣ったということですか。
 当時は社寺建築の設計で内務省に非常に優れた部門がありました。国家神道の下で、神社を建て直す時に内務省が設計の面倒も見た。日本の建築史1500年のエッセンスをギュッとまとめて史上最高の社寺建築を造ろうとした部門です。一方で、文化財をあるがままに保存・継承しようとしたのが文部省です。文部省の立場から見ると、内務省は実存したことのない建物を造ろうとしているということになり、内務省の設計部門から見ると文化財の人間はデザイン能力がない、アーティストじゃない(笑)ということになる。内務省は第2次大戦後解体されたのですが、今でも社寺建築を専門にする設計事務所には内務省系の技術が生きています。
 
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP