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室伏 鴻
室伏 鴻(むろぶし・こう)
振付家・舞踏家。1969年土方巽に師事。71年出羽三山で修験道研究。72年「大駱駝艦」の創立に参加、数多くの名舞台に出演する一方、女性だけの舞踏集団「アリアドーネの會」をプロデュース。76年福井県五太子町に「北龍峡」を拓き、舞踏派「背火」を立ち上げ、『虚無僧』を上演。78年パリで上演した『最期の楽園─彼方の門─』が1カ月のロングランとなり、舞踏が世界のBUTOHとして認知されるきっかけとなる。以来、数多くのフェスティバルに招聘され、即興性を活かしたソロ公演を行う。2000年から本格的に日本での活動を再開し、神楽坂die pratzeで「Edge」を発表。03年に若手メンバーを加えたユニットKo&Edge Co.を立ち上げ「美貌の青空」を発表。05年舞台批評家協会賞受賞。06年ヴェネチア・ビエンナーレで「quick silver」を発表。アンジェ国立振付センターなどで指導者としても活躍。
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an overview
Photo: Rodorigo Yamamoto室伏鴻
Photo: Kimiko Watanabe
室伏鴻
*1 ハイ・レッド・センター
高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之により1960年代前半に結成された前衛芸術グループ。メンバーの姓の頭文字を組み合わせて、高(ハイ)、赤(レッド)、中(センター)と名乗り、山手線のホームや車内でオブジェをなめ続けた「山手線事件」、銀座の街頭に白衣にマスク姿で現れて清掃を行った「首都圏清掃整理促進運動」などのハプニングを仕掛ける。「千円札事件」とは赤瀬川原平が千円札を印刷した模造作品を発表し、通貨及証券模造取締法違反に問われた事件。
*2 全共闘
全学共闘会議の略。1968年〜69年に東京大学・日本大学ではじまった闘争に端を発して、日本全国の大学に波及した過激な学生運動の闘争組織。
*3 山伏
山に籠もって、「擬死再生(生まれ変わり)」のための厳しい修行(断食、水断ちなどの10界の行)を行う修験者。
*4 捨聖(すてひじり)
鎌倉時代の僧で、遊行上人とも呼ばれた一遍の尊称。生涯、寺を持たず、民衆に踊り念仏を勧めて全国を遊行した。
*5 すたすた坊(すたすた坊主)
江戸時代、縄のハチマキ、縄のしめ縄を腰に巻き、錫杖などをもって歌い踊りながら物乞いをしたこじき坊主。
*6 天賦典式
「人々がこの世界に生まれ入った事件こそを先ず大いなる才能とする」という麿赤兒の考え方。そのため舞踏家は一人一派の存在であるとされた。
Artist Interview
2011.10.28
dance
The body at its physical edge A solitary presence among Butoh artists, Ko Murobushi  
肉体のEdgeに立つ孤高の舞踏家、室伏鴻  
大駱駝艦の創設メンバーのひとりであり、日本を代表する舞踏家の室伏鴻。生き物のように蠢く猫背とシルバーに塗られた鋼の身体をもち、その異物のような身体で痙攣すると、干からびて丸まった木乃伊が動き出したような錯覚に陥る──。出羽三山で山伏の研究を行うなど異色の経歴をもつ室伏が、1978年にパリで初めて本格的な舞踏公演を行ったことにより舞踏が世界のBUTOHとして認知されるきっかけとなる。ちなみに、その後の1980年には同じく大駱駝艦の創設メンバーである天児牛大が山海塾とともにフランスにわたっている。孤高の舞踏家と呼ばれ、ヨーロッパでの活動を経て、2000年から本格的に日本での活動を再開した室伏に、踊りのルーツから最新作でのバルタバスとの共演までを振り返ってもらった。
(聞き手:石井達朗[舞踊評論家])



──7月に『ケンタウロスとアニマル』(Le centaure et l'animal)をスペイン・バルセロナのGRECフェスティバルで拝見しました。この作品は、騎馬オペラで有名なジンガロを率いるバルタバス(Bartabas)とのコラボレーションです。ケンタウロスはご承知の通り、ギリシア神話に登場する半人半馬の怪物です。舞台上には砂が敷かれていて、馬に乗ったケンタウロスのバルタバスがロートレアモン(Comte de Lautréamont)の『マルドロールの歌』(Chants de Maldoror)の朗読が流れる中で登場し、離れたところにアニマルの室伏さんが存在しているというたいへん詩的な舞台でした。
 ありがとうございます。バルタバスが私の踊りに興味を持っているということを石井さんから紹介いただいて、2009年初めに『バトゥータ』というジンガロの2度目の来日公演を見に行きました。その時に私の踊りのDVDを渡した。そうしたらしばらくしてコラボレーションのオファーがあったという訳です。私が動物のように四つん這いになって踊っているのをDVDで見て、「いったいなんでこんな踊りができるんだ」と驚いたと言うので、本気だなと思ってオーケーしました。

──「騎馬オペラ」と「舞踏」という、まったく異なるものが出合うとどうなるのかと思いながら見ていたら、それぞれのスタイルは見事にそのままで(笑)、その「距離」が近づいたり離れたりしてとてもスリリングでした。二人の関係性の距離の微妙な変容がそのままパフォーマンスになっていましたね。初演はいつですか?
 2010年9月にトゥールーズで初演した後、ノルマンディに行きました。12月のパリのシャイヨ劇場の3週間は連日超満員でした。2011年はフランスのラ・ロッシェル、モンペリエ、ロンドンのサドラーズウェルズ劇場、それからバルセロナ、イタリアのトリノ。12月から来年にかけてはフランスの3都市を回ります。

──室伏さんのダンスとの関わりについて伺いたいと思います。1969年に土方巽に師事していますが、それ以前に踊りとの関わりはあったのですか?
 それについて言えば、2つあった気がします。ひとつは、「死体の体験」です。私は湘南の海の近くに5歳まで住んでいました。そこで波にさらわれて溺れかけた経験が2回程あります。それによく土左衛門が流れ着いて、水死体がゴザを被っていた。海の水をイッパイ飲んで一度死んだ自分がゴザを被って横たわっているような感じを持ちました。
 もうひとつは、「距離の体験」です。他者体験。接触と恐怖。言葉を換えれば「恥」ということです。神社の祭りに駆り出されても学校でフォークダンスをしても女の子の手が握れない。手が触れると震えたり、赤面する。自分の体が他人のもののようで、体への訳のわからない距離を感じたということがあります。
 直接ダンスに関わることで言えば、小学生の頃からロックンロールが大好きで、FENのビルボード・ヒットチャートや黒人音楽を聴いていました。私のアイドルはレイ・チャールズやサム・クックでした。高校生の頃は新宿のモダンジャズ喫茶に入り浸りで、夜になるとゴーゴーを踊りに行く。映画『ウエスト・サイド物語』のチャキリスとリタ・モレノには夢中になりましたね。

──室伏さんのイメージが変わりそうです(笑)。
 私はベビーブーム世代です。アメリカは公民権運動の、フランスは五月革命の時代で、高校時代から周りが非常に政治的になってきていました。時代全体がそういう雰囲気でした。

──荒れた時代ですよね。1968年から69年にかけては東大紛争もありました。
 土方さんも秋田工高のラグビー部だと聞きましたが、私もラグビー部に1年だけ所属しました。バックスでした。ラグビーでタックル、デモへ行ってもスクラムという友人たちが一緒でしたが、私はちょっと距離を置いたところでコルトレーンを聴きながら詩を書いていた。大学生になって、物見遊山、下駄履きでついて行った王子野戦病院のデモでは尾行されて捕まり、留置所に4泊5日でした……。極右と極左がどこかで交差している時代でしたよね。
 舞踏との出合いについて考えると、その前に「ポップ・アヴァンギャルド」というか、そういう時代性がありました。例えばハイ・レッド・センター(*1)による山手線爆破計画や偽千円札事件などは大変刺激的な実験でしたし、僕にとっては土方巽よりも先に彼らとの出会いがあった。青年期というのは何事にも分裂的、両義的だし、アンビバレンスなものがある。あれもこれもやりたい、あるいは逆に、あれもダメこれもダメ。男でもあれば女でもありたい。カオス(chaos)とコスモス(cosomos)が一体化した「カオスモス」(caosmos)という言葉がありますが、私たちの生命は一義的に男であるとか女であるというより前に、すでに複数の性も多義的な選択も生き抜いている。身体についても、集中している時にカオスモスな体験をします。しかしそこから日常に引き戻してくると、整序的になって、あなたは男で、日本人で、社会的に美しい日本語で文章を書きます、というようなことになってしまうわけです。そうではない、それ以上のもっと繊細な何か──それを当時「肉体」と呼んでいたのだと思います。まあ、肉体ということばが流行っていましたね。

──その当時は「身体」という言葉はほとんど使われてなくて、いつも「肉体」ということばが使われていました。だから1968年の土方巽の作品のタイトルが『土方巽と日本人─肉体の叛乱』ですね。唐十郎も「肉体」ということばを盛んに使っていました。
 そうですね。土方さんは「はぐれた肉体」と言っていた。肉体が自分の思いの外を含んでいるという意味では、そこには情念を越えたものが含まれているし、社会的、歴史的に見捨てられたもの、はじき出されて非生産的なもの、そういう闇の抱えている大きさというところから肉体が語られていたのだと思います。「制度的な解体」と「自己解体の思想」が全共闘(*2)や三島由紀夫に同時に流れ込んでいくという、絶妙な時代だった。そんな中で出てきた『肉体の叛乱』は象徴的なものがありました。私は早稲田大学の学生でしたが、それは時代とフィットし、アクチュアルで、超・ファッショナブルな異形のものでした。会場は日本青年館、入り口に黒い馬が一頭繋いである。なぜ馬なのか。そしてパチンコ屋の開店祝いのように花輪が林立して、派手な雰囲気でした。

──『肉体の叛乱』は1960年代末という日本の時代の雰囲気をよく表していて、当時の室伏さんにとってたいへんインパクトがあったわけですね。
 そうです。その頃はニーチェやアントナン・アルトー、ベケットを読んでいましたが、言葉から離れて体を使った表現を志向し始めたとき、ダンスについても考え始めた時期でした。「マンドラゴラ」というハプニング、イベントのグループを大学の仲間とやっていて、そんな時に、踊りでそういうことをやっている土方巽の公演があると、ハイ・レッド・センターの中西夏之さんが教えてくれた。
 
──その頃はパフォーマンスという言葉を使わずに「ハプニング」と呼んでいましたよね。演劇とか美術とか舞踊といったジャンルにとらわれず、何でもありの状態で、社会や政治に特攻を試みるようなハプニングが興隆していました。これは日本だけでなく、世界の資本主義社会の国々の大都市に共通して見られた現象で、室伏さんもその真っ只中にいた。それで、1969年には土方さんに弟子入りされるわけですが、どんな風に申し込んだのですか?
 『肉体の叛乱』のすぐ次の春でしたが、直接人物に触れたくてアスベスト館に土方さんを訪ねたわけです。ビショップ山田と一緒でした。そうしたら土方さん曰く、「君たち、今ちょうど乱交パーティ用の肉体を探しているんだ」と。「何でもやります」と二人で答えました。実は土方さんが東映の映画に出演していてその映画の話だったんです。

──映画のタイトルは?
 『温泉ポン引き女中』でした(笑)。荒井美三雄さんが監督で。新幹線代をもらって京都に行き、東映京都撮影所で合流した土方さん達と、毎晩町に繰り出して、安い飲み屋で、芦川羊子さんや玉野黄市さんとも一緒に飲んだのが最初の“土方体験”でした。
 土方さんを見ていると、メランコリーと言いますか、日常的にハプニングが起こる、起こすんです。次から次へと自己演技していくというのか、そういうスタイルをどうしてあんなに演技的にできるんだろうと、今でも不思議に思う部分があります。私が好きな土方さんの言葉に「野蛮な繊細」というのがありますが、日常的に暴発するわけですよ。一緒に楽しい酒を飲んでいたにも関わらず、突然、断裂をつくるというか、ガーンと。テンポを変えるためでしょうけど、突然泣き出してみたり。そうすると周りは驚くわけですね。私にはそれ自体が彼のダンスに見えた。むしろ彼の作品の魅力を越えた土方の即興ダンスを見ているようでした。

──それで、土方との付き合いはどれくらい続いたのですか。『温泉ポン引き女中』だけの付き合いだった?
 続けて東映映画に出ました。いまやカルトムービーになっている石井輝男監督の『恐怖畸形人間』です。私は人間ボールの役で天井から吊り下げられ、土方さんはそれを揺すったり避けたりしながら踊った(笑)。土方さんのソロを撮影するための能登半島のロケでは私が付き人でした。毎朝起きると寝床で土方さんに甘−いコーヒーを入れて、彼が花嫁衣装を着たまんま海の中へ入って踊る……花嫁衣装が濡れると一生懸命乾かして……。とても思い出に残っている時間ですが、私が土方さんと近くで接した期間は実は短かくて、1年ちょっとです。

──土方は舞踏の歴史に残る代表作『四季のための二十七晩』を1972年に発表します。その同じ年に室伏さんは麿赤児さんとともに大駱駝艦を旗揚げします。大駱駝艦の創立メンバーは今から見るとすごい人たちが揃っていて、天児牛大さんやビショップ山田さん、現在は活動を休止している白虎社を率いていた大須賀勇さんなども参加していましたね。大駱駝艦に参加したいきさつは?
 私は大学に戻って卒論をまとめようと山伏(*3)の研究をしていました。出羽三山に即身仏のミイラを見に行ったりしていたのですが、一方でキャバレーの金粉ショーで稼いだりもしていた。ちょうどその頃、麿さんが状況劇場を出て、新しいことを始めようとしていると聞いて、それなら麿さんの所に行ってみようと。結局卒論は放棄して大学は中退です。

──ちょっと話を戻しますが、今の室伏さんの踊りを見ていると、アメリカのポップカルチャーよりもむしろ山伏のほうが近いものがあるように思います。山伏というのは日本古来のいわゆる山岳信仰に端を発していて、一種の自然崇拝というか。草鞋一足でおにぎりを持ってもって山の中を歩き回るという修行をやったりする。今の室伏さんの舞踏に近いものがあります。たまに人類学や宗教学の研究者がそういうことに参加することはあるけれど、ふつうの若い学生が参加することはあまりないですよね。何に興味があったのですか?
 死と再生ですね。イニシエーションとしての<山>、あるいはアニミズムと言ってもいいものですが、そうしたことに具体的な身体的関心がありました。
 もうひとつは、彼ら山伏が聖俗の間を行くその「いかがわしさ」とどこにも帰属しないその「放浪性」に関心がありました。山伏のような<トリックスター>のもつ両義性、多義性を「胡散臭さ、いかがわしさ」=<異形性>と言い換えてもいいと思いますが、一方でそれは、軽妙な移動性や流動性にも繋がります。ひとつの権威へと生を帰属させない生き方がある。股旅やヤクザ、捨聖(*4)、スタスタボー(*5)、そしてキャバレーの芸人……。自分の中にも、そうした一カ所に居つけないところがある。子どもの頃、よく親とはぐれて迷子になりますよね。不安で心細いのに、迷っている方が真実みたいな。それが、この年になってもまだスタスタボーでフラフラしている理由ですね(笑)。
 
──1974年に女性舞踏グループの「アリアドーネの会」が旗揚げします。麿さんや室伏さんも作品の振付をしています。そして1976年には、室伏さん自身が初めて男だけのカンパニー「背火」を旗揚げします。福井県の山奥が本拠地でしたが、そういう辺鄙な場所を選んだのも、山伏との関係が何かあるのですか。
 アリアドーネの会には最初プロデューサーとして関わりました。初期の『牝火山』の三部作は麿赤兒演出です。当時、私は大駱駝艦の制作も同時に担当していて、「激しい季節」という新聞を編集して刊行したりしていました。そして、舞踏家は「一人一派」であるという麿さんの「天賦典式」論(*6)のなかで踊躍した。北方舞踏派も山海塾もそういう感じで生まれて、私も「背火」を結成しました。
 なぜ福井の山奥だったかに答えるなら、もちろん農耕地を耕しに行ったわけではありません。場所に非ざる場所、極端な過疎、<外>が必要だった。当時の、私たちのキャバレーの旅回りが日本中をヨコに横断してゆく感覚だとすれば、その境界的な感覚をタテに培養するという意味で、「北龍峡」というスタジオに非ざるスタジオを拓いたのです。稽古とは何か、公演の上演とは何かという私自身への設問を観客とともに共有したかった。1976年に『虚無僧』で旗揚げしたときの「背火」は私ひとり、作品は大駱駝艦グループの総出演で麿さんの演出で上演しました。私はそこで始めてミイラを踊りましたが、ちょっとしたイベントになった。北から南から千人以上の観客が山奥までやって来た。土方さんもお弟子さんといっしょに来て村人たちと一緒に盛り上がった。当時のアサヒグラフに大変面白いドキュメントが残っています。

──1978年に、背火とアリアドーネの会による合同のパリ公演が行われます。海外で「BUTOH」の名を知らしめる端緒となる、まさにエポックメイキングな公演でした。海外公演のきっかけは?
 土方さんは招待されていたのに行かなかった。飛行機嫌いだったんです。大駱駝艦にも声がかかって、麿さんは40人くらいの大所帯で行きたいという。それはなかなか実現が難しい。私は制作も担当していましたから、調査の名目で1977年にパリに行くことにしました。行くならパリのキャバレーで踊れますかとリクエストしたら、シャンゼリゼに出来たばかりのJardinというキャバレーが引き受けるというので、カルロッタ池田とミゼール花岡に声を掛けた。ところが行ってみるとキャバレーのマヌカン達が日本のアングラなんかと一緒に踊るのは嫌だと言ったために契約が成立しなかった。こうなったら自分たちで本公演をやるしかないとパリで場所を探した訳です。ちょうどいい実験的なスペースのNouveau Carre - Silvia Monfortが見つかったので、牝火山や私のミイラで構成した新作『Dernier Eden − 最期の楽園』を上演しました。この公演をリベラシオン紙やル・モンド紙が大きく取り上げて、真冬の2月の深夜の上演にも拘らず客が途絶えることなく、どんどん増えていきました。

──凄いですね。
 リベラシオンはページ全面で扱いました。写真がバーンと。「暗黒舞踏のパリ・デビュー」として日本読書新聞に出口裕弘さんが書いてくださいましたが、このとき以来、「暗黒舞踏=Danse de tenebre」も私たちが踊ったものも「Butoh」と呼称されるようになりました。

──日本では考えられないですね。全国紙でアングラシーンのことを大きく扱うなんて。日本の社会の中で舞踏というものが認識されるきっかけになったのは、逆輸入というか、海外で認められたからですよね。それは小津安二郎の映画も同じで、日本ではあまりにも日本的すぎるという理由のせいか、海外で上映することをあまり意識されていなかったけど、ひとたびヨーロッパで認められると逆輸入されるように日本での評価も高まりました。1978年のその『Dernier Eden』パリ公演が、室伏さんの現在に至るヨーロッパでの長い活動のきっかけだったんですね。この公演をさかいにして、室伏さんは主に海外で活動するようになります。当時の代表的な作品名として、1980年代前半に初めて本格的に振り付けた『ツァラトゥストラ』があります。
 タイトルはニーチェからとったもので、東京・青山の草月ホールで初演し、その後ヨーロッパの都市を回りました。

──1986年に土方巽が亡くなりますが、その時、室伏さんはどちらにいたのですか。
 パリに住んでいましたが、公演のために帰国していたのです。それで臨終にも葬儀にも間に合いました。亡くなったのが1月、スタジオ200の『漂泊する肉体』が3月で、中止にしようかと迷いましたが、急遽、追悼の惹き句を入れて踊りました。パリでは、その直後にユネスコの40周年記念イベントを準備していましたので50人のヨーロッパ人のダンサーを招待して白塗りで踊る『PANTHA RHEI』を追悼公演として上演した。男も女もみんな白塗りにして、階段式のステージを人=蛇が天井にはい上がっていくみたいに踊ってもらった。輪廻のような、ウィリアム・ブレイクの画のような(笑)。

──1990年代の後半には、『Edge』という作品を発表します。Edgeという言葉自体は多様なイメージがあると思いますが、観る側から言えば、室伏さんの「Edge」は、まさに最初から身体を危ない所=Edgeに置くと言いますか、縁の一番ギリギリの所に身体を置くというようなイメージがあります。
 「Edge」は、「境界の危うさ」ということになるのかもしれません。つまり、自分の身体へ内向すれば内向するほど、むしろ自分の外部性に触れていく。『常闇形』というテキストを書きましたが、私は最初にミイラを踊った時から、身体の縁とか際(きわ)、隅っこにあるものとか、そういうものに対するこだわりがずっとあって、Edgeという言葉はそこからきています

──室伏さんはウィーンの「インパルスタンツ」というフェスティバルやアンジェのフランス国立振付センターを始めとして、今までに多くのワークショップを海外でやってきました。そもそも室伏さんの作品は、それ自体が室伏さんの身体でしかあり得ない、他の身体に置き換え不可能なものだと思うのですが、その室伏さんが他の人たちに対してどういったワークショップを行うのかとても興味深いです。
 「息(呼吸)」と体の「軸(アクシス)」の交差・交錯がすべて。要するに、均衡=不均衡なのですが、それは何かといえば、「エッジ」のバランスですよね。バランスから外れるということを自分の身体で十全に体現するためには、実際にバランスが成立した感覚を知るところから始めないといけない。しかしそれを持続するのは不可能ですね。軸に同一化するというのが「死」、つまり「死体」です。もちろん実際死体ではないから、軸に完全に一致してしまうことはあり得ないけど、身体の中にそういう瞬間があって、その瞬間がある意味の死の模擬、写された時間です。スレスレです、そのズレが「生命」。
 つまり命というのは、その軸から絶えずズレることの反復でもある。生きて呼吸をしているという感覚は、常に軸からズレる移動の中にあって、その隙き間のプロセスの中に死の時間がたたみ込まれている。呼吸は絶えず循環しているけど、その刻々に死がたたみ込まれているという、命とは大変パラドクサル(逆説的)で同時的なんです。「1、2…」と数えられる時間と数えられない時間が平行していて、それが身体の中で両方を生きている。

──そこは難しいところですね。数えられる時間と数えられない時間を両方生きていて、その双方を行ったり来たりしながらダンサーの身体性というものが立ち現れる。……と言われると、普通のダンサーはなかなかそういう感覚は理解できないかもしれませんね。なぜなら、一般的にダンスというのは、数えられるカウントに従って動きの展開を考えたり踊ったりということが圧倒的に多いですから。
 だからむしろ、それを舞踏=ダンスと言っていいのですが、(その感覚を言い換えるなら)流れ、生命の「危うさ」と「果敢なさ」ということです。

──それが恐らく、土方が生み出した舞踏が、今に持続している一つのアスペクトであるのかもしれないですね。
 ところで室伏さんの闊背筋(かっぱいきん)が極度に発達した猫背は、20年前と比べても今の方が遙かにたくましくみえます。室伏さんがジムに行ってバーベルを持ち上げたりしているなんて光景は想像できません。どんなふうに鍛えているのですか。

 うーん…私はいい加減ですよ。毎朝トレーニングをしてから人に会いに行くという勤勉さからは外れております(笑)。「特異」と言えば、どの身体もすべて「特異」。だから、猫背を矯正する方向にはいかない。猫背のまんまやろうじゃないの。ケモノの品位というか、雑草の持つエレガンスというか、動物性に対するこだわりがあります。ある種本能的な速度と強度。人間は、動物でもあり植物でもあり、そして鉱物でもある。二足歩行だけではなく片足で四足で、盲目で、猫や犬とも花や石とも交通し混成する、むしろそうして錯乱する、そういう<野蛮で繊細な>時間に対するこだわりがある。
 呼吸の話をしましたが、普通に息をしているだけではすまない危うい移動の時があります。「ヒャッ」とシャックリしたり、寝言を呟きながら不意に窒息する。実際に四足歩行をしてみる事で、立ってカウントをとってリズムに乗って動いていくようなことではなく、そこから外れてしまった<外>の時間へと向かわせる。変成する生なのか回帰する生なのか、その感覚を体の資本として、鍛える必要はないけど、反復していく必要はあると思っています。

──そこを土方的に言えば、はぐれてしまった領域を“採集”していくという事ですよね。土方巽は晩年に「衰弱体の採集」ということを言っていましたけど、それがまさに舞踏の舞踏たる所以かもしれない。つまり、カウントされるリズムだけでつくられてきた身体と、そうでない部分を一生懸命すくい上げようとしてきた身体とでは、やっぱり筋肉の付き方から動きの付き方も違ってくるし、表現そのものも違ってきます。
 そうですね。土方さんの頂点はやっぱり「衰弱体」かもしれない。ダンスは二足でやるというルールに縛られない、むしろそうではなくて、その不可能性から立ち上げるということでしょう。土方さんは間を外してしまうとか「間腐れ」という言葉も残しているけど、ある種の生産性から逸脱してしまった体、それは不能であったり不可能であったり、いわばインポテントですね。インポテントなものに何でそれほどこだわったのか、やはりそれは戦争が残したものではないか。だから、ある種“不能力”というか、不具性に繋がるような共同体を考えていた。ハイ・レッド・センターの話でも出ましたけど、犯罪性や不良性、社会が一致団結して生産のほうに向かいましょうとなった時にどうしてもそこから外れてしまう過剰なもの、余り、他所がありますよね。アマノジャクだって、みんながあっち向きならこっち向きと。そうならば、こっち向いたアマノジャクとは誰なのか。そういうものが必ず社会にはあるし、それがあってこそなんだ、と思う。それは単にポリティカルな問題ではないですよね。

──そうはいっても広い意味ではそれはポリティカルな問題でもありますよね。社会というのは百人が百人とも同じ方向を向いているということはありえなくて、その中には、こういう事ができない身体も沢山あるし、全ての人がポジティブに生産性を持っている訳ではない。それに背くような身体もあるし、また、そういうことに参加できない身体もある。衰弱体というのは、そういう領域をすくいあげた上で、それをアートの表現としてどのように再創造していけるのか、ということだと思います。
 室伏さんは30年以上にわたり内外で踊り、作品を振付け、ワークショップを行い、舞踏が国際的になるのに大きく貢献してきました。今後について、これだけはまだやり残していると思われていることはありますか。

 初心忘るべからず、です。「舞踏」は、神様のためにも日本人のためにも踊るものでもない。伝統的な美や様式にも帰属しない・帰属できないところから始まった。私も、踊れない・踊りたくないから踊り始めたようなところがあります。昔自分が書いたものに、「僕は死のうと思って踊り始めた」というのがありました。それは、まんざら比喩だけで言ったのではないという思いがあります。なぜ「木乃伊(ミイラ)」から始めたか、その原点に立ち帰ろうと思います。子どもの頃に見た水死体が、私のある種の原点なのかもしれません。踊りの運動性というのは、単に動き回ることではない。不動の中に運動性がきちんと折りたたまれているわけで、そういうものの原点に帰っていくということでは、絶えず実験なのだと。それは、踊り続けることだけでなく、踊らないままあの世に行くことでもいいわけです。やり残したかどうかということで言えば、絶えずやり残しとも言える。つまり、踊りには始まりも終わりもないんです。
 
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