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Performing Arts Network Japan
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木ノ下裕一
木ノ下裕一(きのした・ゆういち)
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『東海道四谷怪談─通し上演─』
(2014年11月21日〜24日/あうるすぽっと)
演出:杉原邦生
撮影:田中亜紀
東海道四谷怪談
東海道四谷怪談
『義経千本桜』より、「四の切」の場面
(2012年7月7日〜8日/京都芸術劇場 春秋座)
総合演出・演出:多田淳之介
演出:白神ももこ、杉原邦生
撮影:清水俊洋
義経千本桜
桂米朝(かつら・べいちょう)
落語家。1925年生まれ、大阪の落語家・4代目桂米団治に師事。戦争を境に衰退を始めた上方落語の復興に努め、「上方落語中興の祖」といわれる。時代の遺物とみなされた多くの演目を新しい解釈で蘇らせ、多くの弟子を育てた。重要無形文化財保持者(人間国宝)。
『黒塚』
(2013年5月24日〜6月2日/十六夜吉田町スタジオ)
演出・美術:杉原邦生
撮影:鈴木竜一朗
黒塚
黒塚
『夏祭浪花鑑』
(2011年12月8日〜11日/アトリエ劇研)
演出:白神ももこ
撮影:清水俊洋
夏祭浪花鑑
夏祭浪花鑑
夏祭浪花鑑

『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』
1745年初演。恩人の息子を救おうとする団七(だんしち)と、彼を助ける三婦(さぶ)、一寸徳兵(いっすんとくべい)らが義理と意気地を立て通す物語。金欲しさから邪魔立てする義父・義平次(ぎへいじ)を団七が殺す「長屋裏(ながやうら)」では、暗い舞台に夏祭りの提灯が赤く映え、祭り囃子が聞こえる中、凄惨な場面が展開する。
『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』
1825年初演。四代目鶴屋南北の代表作。主君の仇を討ち庶民の喝采を浴びた赤穂浪士を描いた『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の外伝として書かれた。主家が取り潰され浪人になった民谷伊右衛門(たみやいえもん)は、産後の肥立ちの悪い妻・お岩を疎ましく思っている折も折、仇の家臣・伊藤喜兵衛(いとうきへい)の孫娘に懸想される。伊右衛門と孫娘の結婚を知ったお岩は憤死、幽霊となって現れる。
『勧進帳(かんじんちょう)』
初演は元禄時代(1688〜1704年)。能を参考にした現在の上演形式は1840年に七代目市川団十郎が考案した。「歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)」といわれる人気演目。兄・源頼朝と不和になった源義経は、弁慶らわずかの家来と奥州・平泉に逃れる途中安宅(あたか)の関で関守・富樫左衛門(とがしさえもん)に止められるが、弁慶の忠義により通過が許される。
Artist Interview
2014.5.19
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The strategy of Yuichi Kinoshita, taking Kabuki into the future  
歌舞伎の未来に挑む 木ノ下裕一の戦略  
2006年に京都を拠点に活動をスタートした木ノ下歌舞伎。その主宰を務めているのが、京都造形芸術大学を卒業し、現在「武智歌舞伎論〜近代における歌舞伎新演出について」をテーマに博士論文を執筆中の新鋭、木ノ下裕一(1985年生まれ)だ。小学3年生で落語と出会ったのをきっかけに、日本の古典芸能に傾倒。以来、文楽、歌舞伎、能・狂言に触れ、大学時代に武智鉄二と前衛演劇を学び、古典演目の現代化を目指した木ノ下歌舞伎を旗揚げ。自ら古典演目の補綴(ほてつ)を行い、『三番叟』『娘道成寺』『勧進帳』『義経千本桜』『黒塚』『東海道四谷怪談』などを現代化。特に2014年のフェスティバル/トーキョー(F/T)では木ノ下歌舞伎のパートナーである演出家の杉原邦生と組んで『東海道四谷怪談』を通し上演し、今日ではカットされることの多いエピソードを復活した一大群像劇として蘇らせた。自らを“権力をもったドラマトゥルク”と呼ぶ木ノ下のメソッドと思いに迫る。
聞き手:奈良部和美[ジャーナリスト]

──日本の伝統芸能は親から子へ芸を継承して行く形が中心ですが、木ノ下さんは伝統芸能とは縁のない家の出身にもかかわらず、20代という若さで歌舞伎の現代化に情熱を傾けています。なぜ歌舞伎に興味をもつようになったのですか。
 僕は和歌山市生まれで、それこそ伝統芸能にはほとんど興味のない家でした。はじめての古典芸能との出会いは、歌舞伎ではなく、落語だったのですが、小学3年生、10歳の時に遡ります。比較的田舎だったので、まだ自治会活動が盛んで、「敬老の日」にお年寄りを対象にした催しをやっていたんですね。暇だし、お年寄りが好きだったので、何気なく覗いてみた。すると偶然、プロの若手の噺家さんが落語をやったんです。それが衝撃的でした。
 僕らの世代の娯楽って比較的にヴィジュアル重視ですよね。テレビにしても漫画にしても。だから、オジサンひとりが舞台の真ん中に座って話芸だけで劇世界を立ち上げていく落語は衝撃でした。こんなに面白いものが世の中にあるのか!って感動しました。
 子どもは記憶力が良いから、1回聞いただけである程度覚えるわけです。その日の夜に、今日聞いた落語を真似て家族に披露したら、ウケた。それに味をしめて、どんどん落語にハマっていきました。当時はネットもケータイ電話も普及していなかったから、自分で積極的に情報を取りにいかなければ入手できない。一生懸命探して、落語会の情報を集めたり、落語のテレビ番組を見つけたり…。親に月に1枚だけ落語のCDを買ってあげると言われて、どれを買うか選ばなければいけなくてその緊張感は凄かった。今みたいに店頭に落語CDを置いてなくて、パソコンの検索機もない。電話帳ぐらい分厚いCD一覧集みたいな本を店員さんに見せてもらいながら、タイトルと演者だけを頼りに、どれがいいかを選んでいくんです。そんなに知識はありませんから、ほとんどヤマ勘、ギャンブルみたいなものですね。さんざん悩んで注文して、2週間かかって家に届く。すごく不便。でも逆にそれが、とてもいい勉強になった。今みたいに簡単にYouTubeで見られたら、それほどハマらなかったと思います。

──それだけのめり込むとテレビやCDでは満足できなくなったでしょう。
 もちろん落語会にも行きましたが、小学生ですから頻繁に行けるほどのお小遣いがない。親も毎回は付き合ってくれませんから、どうすればお金を使わずに落語が見られるか、もの凄く考えました。まず、落語会に行く日は学校を早退して。ちゃんと連絡帳に「今日は落語会に行くので4時間目で早退させてください」って親に書いてもらうんです。その頃、僕はほぼ毎日、学校の昼休みに落語をやっていましたから、担任の先生も今更何も云わない。「はい、気をつけて行っておいで」と早退させてくれましたね。で、開演の2〜3時間前にはすでに会場に着いていて、ボランティアのおばちゃんたちに紛れてチラシの挟み込みを手伝ったりしているうちに開演時間。「お金がないから労働で返す」っていえばカッコイイですけど、要は「押し掛け関係者」ですよね(笑)。そうやって無料で入ったことが何度もありました。
 落語は古典芸能の中では一番最後にできた芸能ですよね。ですからいろんな芸能のパロディーが入っている。それで必然的にほかの古典芸能を見たくなった。でも小学生では使えるお金に限りがあるので、小学3年生の終わり頃にプランを立てました。いわば将来設計(笑)。小学生のときは落語に専念する。中学生になったら歌舞伎を見る。高校生になったら文楽を見る。大学生になったら能・狂言を見る。古典芸能を、新しいものから古いものへと遡っていくわけです。で、概ねその通りで来ました。

──小学生とは思えませんねえ(笑)。京都造形芸術大学を選んだのは古典芸能への探究心からですか。
 高校時代まで絵を描いていたんです。でも、絵って個人プレーでしょ。進路を考える頃に、それが物足りなくなってきました。子どもの頃から古典芸能が好きで、人と一緒に何かをしたくて、美術もやりたい──その三つが同時にできるのは舞台美術かな、と思った。じゃあ大学では舞台を専攻しよう!って、今から思えばすごく単純な思考ですよね(笑)。京都造形芸術大学は、当時、歌舞伎の市川猿之助さん、今の猿翁さんが副学長に就任されていて、春秋座という歌舞伎様式の劇場もあるし、能の観世栄夫さんも教鞭をとってらっしゃった。古典に強い大学なんじゃないかと思って、選びました。
 でも入学してみると、当時(2004年)、映像・舞台芸術学科の学科長が演出家の太田省吾さんで、授業内容も超前衛的だった(笑)。そこで、古典芸能とは全く違う文脈の、現代的な舞台芸術の表現を学ぶことになりました。山海塾のメンバーで舞踏家の岩下徹さん、ダンサー・振付家の山田せつ子さん、演出家・劇作家の宮沢章夫さん、現代美術家の高嶺格さん、海外の演出家のジョン・ジェスランさんとか、面白い先生も集まっていた。最先端の前衛的な表現と出会い、これは歌舞伎の手法っぽいなとか、これは能に共通するなとか、自分の中で前衛と古典を繋いで考えていくのが面白くて、その頃から古典を使った現代演劇をつくれないかと考え始めたと思います。

──歌舞伎との出合いを聞かせてください。
 初めて歌舞伎を観たのは中学生の時で、和歌山に巡業で来た『鮓屋』でした。

──『義経千本桜』の中でも三段目の『鮓屋』は渋いですね。大恩ある人の息子をかくまう父のために、勘当されている無頼漢の息子・いがみの権太が妻子を犠牲にする物語。現代人にはなかなか理解できない展開です。
 しかも主演が片岡我当さん!渋いでしょ(笑)。でも本当に素晴らしい舞台でした。あの演目ってとても不思議ですよね。まず、主人公・いがみの権太がどこで改心したのか全然わからない。近代ドラマでは中心になるところが抜け落ちているんです。でも、そこに歌舞伎の型や古典独特の演出効果が入ることで、全くその不思議を感じさせない。それが凄く面白かった。
 中村勘三郎さん(当時は襲名前で勘九郎)が仮設の芝居小屋「平成中村座」をつくったのも、僕が歌舞伎を見始めた頃でした。大阪で初めて平成中村座が『夏祭浪花鑑』と『法界坊』を同時上演したのが、高校生の時で、もちろん見に行きました。すごく興奮しましたね。
 歌舞伎の新しい動きとして今の猿翁さんがはじめたスーパー歌舞伎もあったし、現代演劇の演出家である串田和美さんが演出するコクーン歌舞伎もあった。伝統的な歌舞伎と、現代的な歌舞伎の両方が見られる環境でした。
 最近思うのですが、古典芸能に落語から入った、中でも桂米朝師匠が大好きで、米朝落語から古典の世界に入ったことが今の僕に大きく影響しているのではないかと。今日、古典の上方落語と信じて疑わない演目でも、実は米朝師匠が何かを付け加えたり、現代化したり、復活したものが少なくありません。古典というのは、現代人にとっては意味不明に思えるところもありますが、ある人の手を介すると現代人に通じるものにできる。つまり古典を現代化できるということを、米朝師匠の落語を聞きながら知らず知らずのうちに学んだように思います。
 ですから『鮓屋』も、これはこれで古典だ、同時に、これを現代化する方法もどこかにあるんだと考えながら見ることができた。米朝師匠のあの“テキストレジ”という仕事を目の当たりしたのは大きい。そうすることで米朝師匠は、落語という個人芸を誰にでも受け渡し可能な作品にしている。米朝師匠の現代化の手法を、僕はとても尊敬しています。

──古典には現代生活とかけ離れた世界がでてくるので、訳がわからなくて難しいと離れてしまう人は多いのに、木ノ下さんは一番多感な時期に落語や歌舞伎に触れて、古典を現代化する方法があると知ったわけですね。
 特に最近は、訳がわからないものは遮断するという傾向が強くなっているような気がしますね。「お手軽に誰にでも楽しめるものがいい」みたいな。テレビ番組でもテロップで全部説明しちゃうし。でも古典芸能って何百年前の人が持っていた世界観とか人間観が母体になっているから、そもそも現代人とは距離があるわけです。全然、お手軽にわかる世界じゃない。そこがまた面白いところなのですが。現代は、古典芸能にとっては生きづらい時代ですよね。一方で、古典の普遍性とよく言いますが、僕はそういう言い方も大嫌いなんです。母親が子どもを失った悲しみはいつの時代も変わらないとか…。子どもがバタバタ死んでいる時代と今の時代の感覚が同じなわけがない。恋愛だって普遍だと言いますが、今の恋愛と昔の恋愛はきっと決定的に違うはずですよ。

──医療が発達していない時代は多くの子どもが成人前に亡くなりましたし、歌舞伎が大衆の娯楽となった江戸時代は自由恋愛などもってのほか。多くの結婚は家の存続や労働力の確保のために親が決めるものでしたから、現代の感覚とは違いますよね。
 違うから面白いんです! 現代と古典で描かれていることにはどうしても距離があって、その距離を埋めていくところにクリエイティブな作業があるわけだし、距離があるからこそ、古典の中に現代が浮き上がってくるわけです。だから、そこは距離ありきで考えて現代化しないと意味がない。例えば、近松門左衛門の心中物をメロドラマにしちゃうなんて、僕はあんまり面白いとは思わないですね。それって、近松のストーリーを現代の恋愛物のテンプレートに無理やり押し込むことにもなりかねませんから。近松の世界観、それと現代との距離のようなものをそぎ落としてしまうと意味がないと思う。古典は古典として尊重した上で、現代との距離は何だろうと考えることが大事だと思います。

──そうした考えが次第に大きくなって、木ノ下歌舞伎を立ち上げたわけですか。
 周りに担ぎ上げられたんです。はじめは舞台美術家になりたかったのにね(笑)。大学1年生の時に、この前見た歌舞伎はこうでね、あそこの演出こう変えたらもっと面白いはず、みたいなことを友達に喋ったり、実際、歌舞伎の真似をやってみせたりしていたら、「そんなに言うならやれば」となった。舞台美術志望だったので、まさか自分が主宰になって団体を立ち上げるなんて思っていなかった。それと、ちょうど同じ時期に武智鉄二さんが書いた『「武智歌舞伎」』(文藝春秋社刊)を読んだのが大きかったです。昭和30(1955)年に発行された本ですが、この中で武智さんが指摘されている当時の歌舞伎の危機みたいなことが、今も全く変わってないことに衝撃を受けました。

──武智さんは昭和初期から古典の現代化に取り組んだ演出家です。能や文楽、歌舞伎が、保存される芸能ではなく現代に生き続けるにはどうすべきか、歌舞伎の坂田藤十郎さんや狂言の茂山千之丞さんなど、志を同じくする役者さんたちと様々な実験をしました。そのために、富豪の長男として相続した財産を一代で蕩尽した。先駆的な仕事をしましたが、一時は忘れられた存在でした。
 この本はある種の現場論でもあって、歌舞伎をちゃんと演劇として演出した武智さんのような人がいたことに衝撃を受けました。

──古典も“演出”できるということを発見した。
 そうです。すごく勉強になりました。将来、できれば僕も歌舞伎俳優の方と一緒に作品をつくりたいという希望をもっていますが、そのプロセス、第一段階としてまずは歌舞伎のテキストを現代演劇の演出家に演出してもらうという木ノ下歌舞伎を考えました。
 日本の古典芸能の位置って特殊ですよね。なぜか、僕たちは、近松半二よりシェイクスピアの方を全然メジャーに感じちゃう。海外の劇作家の方がうんと距離があるはずなのに。海外、特にヨーロッパは、オペラの新演出とかギリシャ悲劇の新解釈とか盛んじゃないですか。ではなぜ日本において、日本の古典戯曲はそういう対象にならないのか? それは様式がくっ付いているからでしょうね。日本の古典はテキストだけを見て古典と言えなくて、「型」といわれる役者の演技が残っている。舞台機構や音楽といった演出ありきのテキストになっていますよね。それらは決してテキストと切り離せないんです。日本の古典の場合、それらの演出的な様式をどうするかも含めて、現代化の方法を考えないとダメなんですね。それを僕らの世代の若い演劇人ができたら素敵だなと思って、木ノ下歌舞伎を立ち上げました。
 今までも日本の古典を扱ってきた劇団はあります。例えばSCOTの鈴木忠志さんの演出もそうですが、そこには確固たる“スズキ・メソッド”があるわけです。もちろん歌舞伎や能は身体性と密接なので、身体的なメソッドを持たないと上演できないという側面が確かにあります。身体的なメソッドの重要性はよくわかるのですが、形式ばかりに落とし込んでしまうと、他の団体に受け渡し不可能になる。それでも構わないのですが、僕は、やっぱり、誰でも日本の古典演目を演出できる環境を作りたい。ですから、木ノ下歌舞伎では、身体的なメソッドではなく、どの演出家にもある程度受渡し可能な“思考のメソッド”をつくれないかと考えました。
 例えば歌舞伎の台本を現代語訳する時にどんな考え方がありえるのか。歌舞伎のいわゆる江戸の庶民を写実的に描いた「世話」のせりふと、王朝時代を題材にした様式的な「大時代」のせりふを分けて考えて、その様式に則って現代語訳するとこうなります、という手法を提示する。単にわかりやすさだけを求めて歌舞伎を現代語に訳すという流れがありますが、その無自覚さは危険です。現代語と歌舞伎の言葉はニュアンスも歴史的基盤もまったく異なります。ほとんど外国語を翻訳するのと同じ作業です。その上、現代語訳することをドラマに還元していかないと意味がない。『黒塚』という作品を上演したときは、主人公の老婆が歌舞伎の言葉を歌舞伎の節回しに忠実に発し、僧侶たちが現代語を使うと大枠を決めて、主人公の精神状態によって、「言葉も節回しも歌舞伎」「言葉は現代語だけど節回しは歌舞伎」「完全な現代語」を使い分けました。そういう思考のメソッド、歌舞伎の現代化のメソッドを構築して、いろんな演出家に受け渡し可能になれば、歌舞伎はもっと広がって行くと思っています。

──木ノ下さんが演出をしないことと関係するのでしょうか。 
 演出するのはもちろん面白い。初期の頃は、半分ぐらい自分で演出していました。でも、最近は、人に演出してもらう方がもっと面白いと感じるようになりました。演出家とタッグを組みながら作品を作っていく中で、僕の持っている古典のイメージを木っ端みじんに潰されることがありますから。「この演出は僕には逆立ちしても思いつかない」とか「こういう切り口があったか」とか、それは爽快です。でも、一番の理由は、歌舞伎を演出できる演出家を育てたいということです。

──歌舞伎を“現代の歌舞伎”として蘇らせるのは、ひとりではできないということですね。
 そうなんです。潮流を起こしていきたい。だから、木ノ下歌舞伎という団体自体にはあまりこだわっていなくて、一定の役割が終わったら解散しようと思っています。それよりも、人材をつくるためのサロンというか教室みたいなものをつくりたい。

──具体的に、どういうふうに芝居をつくっていくのですか。
 演目を選ぶところから始まります。この演出家と何かしたいと先に思って、演出家に合う演目を考える場合と、この演目をしたい、そのためにはこの演出家だという場合と、大きく2パターンあります。いずれにしても演出家が社会に対して持っている問題意識と、演目の持っている現代性がフィットするような組み合わせを考えます。でもそれがガッチリと、もう脳内で上演できちゃうぐらい合いすぎると面白くない。多少ズレてることが重要です。演出家が今までの引き出しじゃ処理しきれないものを演目が含んでいる。演出家に対する挑戦にならないと面白くありませんね。
 例えば『夏祭浪花鑑』を演出してもらった白神ももこさんはコンテンポラリーダンスのダンサー・振付家で、演劇作品初挑戦でした。これもひとつの挑戦ですが、白神さんと話し合いながら、配役を一人だけ男性で、後はみんな女性にしました。それは男性だけで演じる歌舞伎、男の侠気が充満する、既存の『夏祭』のイメージを覆さないと面白くないから。どうやればその演目にとって切り口が斬新か、演出家にとって大きな挑戦になるか、その組み合わせをつくるのが木ノ下歌舞伎の主宰としての大きな仕事です。その後、テキストレジが入ってきます。

──テキストは、どのように作るのですか。例えば何度か上演されている『東海道四谷怪談』はいかがですか。
 これがしんどいんですよ(笑)。例えば『東海道四谷怪談』なら、作者の鶴屋南北の時代、1825年の初演から始まって現代まで、どういうふうに解釈を変えてきているか、その演目の歴史、受容史みたいなものを全部洗い直します。そして、いろんなバリエーションの昔の台本を可能な限り集める。歌舞伎俳優独自の型、今は滅びた型とかいろんな型を集めて、残っているテキストも芸談も、評論も、学術論文も、重要だと思うものは可能な限り集める。時に写真、浮世絵の類も参照する。浮世絵とか写真は文章よりわかることがありますから。

──歌舞伎の型は、役者の扮装や動きの決まり事など、多くの役者が工夫してきましたから、すべてを把握するのは大変ですね。
 とても膨大すぎてすべては把握できませんが、納得がいくまで調べたいと思っています。図書館に行ったり、古書店で探したり。集めた資料を全部読み込んで、まず自分の演劇史をつくる。この作業の中で法則性を見つけて、今上演するなら何ができるかを考える。しんどい作業ですが、この調査に1年はかけます。
 『四谷怪談』の資料を洗っていて面白かったのは、南北自体が再評価され出したのが大正・昭和に入ってからなんです。1回目の南北ブームは大正時代で、関東大震災があった1923年の2年後。ちょうど僕たちが『四谷怪談』を上演しようとしていた去年も、東日本大震災の2年後だったので、時代がシンクロしていると思いました。2回目のブームが1970年代ですが、日米安保条約に反対する市民や学生の運動が終わり、敗北感漂う時に新劇やアングラ演劇にまで南北が浸透していきました。つまり、今まで信じていた時代の大きな流れを見失った時、どの価値観で生きていけばいいのかという時に、南北という作家が評価されていることがわかった。それなら今取り上げるのがいい、と思いました。
 テキスト(台本)に関しては、色んなバージョンを集めて、見比べつつ、この解釈がいいかもとか、これとこれを折衷してみようとか、コラージュして1本の作品にします。

──2013年の秋には、現在の歌舞伎の上演ではカットされている場面も復活して『四谷怪談』の6時間の通し上演をしました。
 木ノ下歌舞伎の旗揚げ公演で『四谷怪談』を取り上げていますが、その時は一部分の抜粋上演でした。演出家は杉原邦生さん。大学の先輩でした。全く原文を変えず、ほとんど南北の原作通りで上演しました。その時から杉原さんと、「いつか通しで上演したいね」と話していたんです。今、歌舞伎で上演されているものは凄くカットされているので、原作通りやることで対案としての『四谷怪談』が上演できるのではと思ったからです。
 旗揚げの時は会場が狭い空間で、俳優をほとんど動かしませんでした。舞台後ろに幕を張って、客席とその幕までは1間(約1.8メートル)ぐらい。登場人物を台車に乗せ、幕がパッと開くと出して、パッと閉める。それで全員正面芝居をやりました。小道具は、舞台にひとりだけいる黒衣が全部渡す。俳優の身体性を殺して、せりふだけに専念させる。狭い空間なので、観客がせりふを聞く集中力がありました。なので、全部原文でも成立したと思います。

──成功したと思いますか。
 ある程度は成功したと思います。当時の僕たちの自己ベストですね。俳優が動かず、黒衣が動かしているのが、ひとつの運命というか、時代の潮流みたいなものに呑み込まれると人間は逆らえないという、南北が描こうとした社会の力に見えた気がしました。その時はどの役も現代服でやり、事件性をあおるようにヘリコプターやサイレンの音をバーッと鳴らしたり、結構怖い『四谷怪談』になりましたね。演出を担当した杉原邦生が上手かったんだと思います。「右も左もわからない初の歌舞伎演目の上演だから、とりあえず今回は南北の〈ことば〉、戯曲に集中しよう」と英断したので。
 それと、現行の歌舞伎だとカットされる端役を全部出しました。出演者はみんな舞台に横一列に並んでいる演出だったので、端役も主役も均等に見えた。この作品は、やっぱり群像劇なんだな、という感じがしましたね。

──端役も主役も均等に見せたのは、歌舞伎のスター主義に対するアンチテーゼでしょうか。
 完全にそうです。スターシステムだからこそできることと、できないことがある。スターシステムができない僕らは逆にこうするしかないのですが、ドラマのほうに回帰しようという主張だったんです。

──演出プランはどうやってつくられるのでしょうか。演出家と木ノ下さん、どちらの提案が比重を持ちますか。
 場合によりますね。はじめから「こういう新解釈でお願いします」と演出家に言う場合もありますし、その解釈から一緒に話し合いながら固めていくこともあります。でも、「端役を主役と同等に扱ってください」とか、「ここはダンスシーンとして作り変えるイメージなんです」とか、方針のようなことは初めから言います。とにかく演出家とは、じっくりとことん話し合います。稽古場にもずっといますし、制作中はずっと一緒。演出家にしたらわずらわしいかもしれませんね(笑)。二人で話し合ったものを演出家が自分の引き出しの中から具体的につくっていく。それに対して「素晴らしい演出ですね」とか「面白いのだけど、歌舞伎的な視点からみると必然性がありませんから、やめた方がいいと思います」とか、ジャッジしていくのも僕の仕事です。

──どちらの方が、自分の腑に落ちる芝居になりますか。
 両方ですね。自分のアイデアだけだと、面白くないです。この立ち回りは『白鳥の湖』のパ・ド・ドゥみたいにしてくださいって言うと、演出家はその通りにやってくれるけど、やっぱり演出に踏み込まれると癪だからプラスアルファを考えてくれる。それがまた面白かったりして、その時はすごく嬉しい。

──それが、木ノ下さんが補綴とか監修の立場にとどまる理由でしょうか。
 そうですね。若干話はズレますが、今日本ではドラマトゥルクという仕事が注目されていますが、僕は懐疑的なんです。海外の手法を日本にもってきても環境が違うので上手くいくわけがない。日本のドラマトゥルクの良くないところは、責任を持たないところだと思うんです。演出が悪い場合は演出家が批判され、俳優が悪けりゃ俳優が批判され、舞台美術が悪けりゃ美術家が批判される。集客が悪ければ制作が悪い。でもドラマトゥルクが間違っていても矢面に立つことはない。それは取りも直さず、ドラマトゥルクが何をしているのかよくわからないってことですよね。もちろんそういう責任がない人が現場にいることが良い部分もあると思います。現場に客観的な視点を持ち込んでくれますから。そこが難しいところなんですけど。でも往々にして、演出家の相談役ぐらいの立場に陥りがちな気がしています。その役割は、演出助手やプロデューサーが兼任できないのかな、とか考えてしまう。海外の例だと、劇場の専任のドラマトゥルクがいて、劇場全体のプログラムにまで責任を持っている場合がありますよね。ちゃんとドラマトゥルクの顔が見える。今の日本では現状そうはなっていないわけだし、またその海外のシステムが日本に必要なのかというところから考えていかなきゃいけない。日本オリジナルのドラマトゥルクのあり方を構築していく必要があると思います。
 僕は、自分でやっていることを“権力を持ったドラマトゥルク”って呼んでいます。ちょっとエラソーなので、そう言うことに気が引けるのですが、わかりやすく説明するために、あえてそう呼ぶことがあります。つまり、演出家と二人三脚で、提案もしたり相談に乗ったりするドラマトゥルクなわけですが、同時に僕が主宰なので、非常に極端な話、「この作品はどうしようもないから上演しません」と言おうと思えば言えてしまえる。同時にそれは、作品を上演するかぎり最終的な責任は私が負いますということですよね。現代演劇の演出家に歌舞伎のテキストを演出してもらうのだから、それだけでも演出家にとっては負荷が大きいと思う。だからこちらも、演出家に恥をかかせないようにちゃんとサポートして差し上げないと申し訳ない。歌舞伎の研究家が見ても「あれはおかしい!」と言われないように、理論的なところをフォローしつつ、ちゃんと考えてつくる。演出家のキャリアに傷を付けず、いかに理論武装するか。作品の批判に対しては僕が矢面に立ちます!という立場を貫きたいと思っています。だから、権力のあるドラマトゥルクです。

──テキストが出来て、演出家が決まると、今度は俳優選びです。
 如何に既存の歌舞伎の配役とズラすか、そこはいつも意識しています。キャスティングはもちろん逐一、演出家と相談しながら決めますが、演出家と僕の配役イメージが微妙に違ったりする。そこは徹底的に話し合います。両方とも一歩も引かない時は、演出家の意見を尊重します。演出家の気持ちが乗らないと、どんなに良い俳優でもダメですし、やっぱりキャスティングの最終判断権は演出家にあると思うからです。

──稽古では最初に歌舞伎の完全コピーをやるそうですが、具体的にはどのようなことをやるのですか。 
 杉原邦生演出の場合にやっているのですが、その演目の歌舞伎のDVDを見ながら、俳優に歌舞伎のせりふ回し、動き方を全部コピーしてもらいます。別に、歌舞伎の型を習得して欲しいと思っているわけではないし、僕たち現代演劇の人間にできるとも思いませんが、目的が2つあります。1つは、現代の俳優に、とりあえず、僕らが立ち向かおうとしている“歌舞伎”はこういうものです、とDVDを徹底的に見ながら、ひとつ土台と共通認識をつくる。かつ、どんなに僕らが頑張っても歌舞伎役者にはなれないということを身を持って認識してもらう。杉原さんはよく「絶望するための時間」と呼んでいますね。その上で、僕らは違う方法を試す必要があることを俳優に徹底的に知ってもらう時間なんです。稽古の約半分、3カ月あれば1カ月半をこれに使う。そして後から壊していきます。
 もう1つは、DVDを見ながら僕と演出家が注釈を加えていくので、主宰と演出家が歌舞伎をどう見ているかがわかるようになる。ここで1回この役が振り向いているのは、こういう理由からですとか。様式的に見える歌舞伎をどのように読んでいるのか、現代演劇人流に歌舞伎を読んだらこうなる、ということを俳優たちに理解してもらう。

──効果はありますか。
 あると思います。この完全コピーをはじめたのは3年ぐらい前、『勧進帳』という作品からです。ドラマ的にはごく単純なので、『勧進帳』の面白さはどこにあるのか、それはきっと様式だと思い、1回完全コピーをやってみようかと。やってみると、いろんな効果がありました。でも『四谷怪談』の通し上演は6時間あるし、DVDに残ってない幕もあるからコピーはしないつもりでした。台本を配って稽古を始めたら、なかなか上手くいかない。『四谷怪談』を共有するためのベースがないから、共通の認識を持つまで恐ろしく時間がかかってしまう。思うように稽古が進まなくて、1週間ぐらい経って、やっぱりコピーしよう!と方向転換しました。

──反応はどうでしたか。
 俳優たちは、クリアする課題が見えているから稽古場が停滞しないです。面白いですよ、歌舞伎のDVDを俳優たちに見てもらうと、1回目は退屈そうにしたり、寝てしまう俳優さんもいます(笑)。2回目に見るときは、全員でせりふを書き起こしながら完全コピー用の台本をつくる。DVDを3秒ぐらいで止めながら、「はい、今何と言ったでしょう?」と、自分の役以外のせりふも全部書き起こしていきます。『四谷怪談』は、全部書き起こすのにたっぷり5日ぐらいかかりました。このヒアリングをやっていると、初めは何を言っているのはわからなかったせりふが聞き取れるようになってくるんです。コピーの稽古が終わるぐらいの時にもう1回DVDを見てもらうと、みんな、「この俳優は上手い」とか「やっぱり播磨屋はいい」とか言い出す(笑)。

──コピー後は演出家に任せてしまうのですか。
 コピー稽古の時は演出家と二人でやって、僕も指示を出します。時には稽古場を二つ使って二人で手分けしてやったり。その後、コピーしたものを壊していく段階に入ると主導権を演出家に渡します。稽古前と稽古後の2時間ぐらい演出家とは打ち合わせしますが、現場では原則、俳優には手を出さないと決めています。

──舞台の大きさにもこだわりがあるのでしょうか? 歌舞伎座の舞台は間口が約27.6メートルと大変広い劇場ですが、木ノ下さんが上演しているのは小劇場です。そもそも歌舞伎の舞台は三間(5.5メートル)四方の能舞台が元ですから、江戸時代の舞台はぐっと狭かった。
 古典を新演出し直すということは、現在の歌舞伎の舞台美術というか空間性をいかに覆すかも眼目になってきますから、僕らは奥行きや高低差を活かしたいというのがあります。どう考えても、南北の芝居って狭い舞台を想定したもので、せりふの感じもそういうふうにできています。今歌舞伎座で『四谷怪談』を見ても、やたら装置の家が大きくて違和感がありますよね。

──貧しい家なのに(笑)。
 「そんなに貧乏なら、屋敷を売ったらいいのに」(笑)。大劇場を前提につくっているものはそれはそれで良いんですけど、意外と狭い所でやる方が面白いということもある。南北作品は大きな空間とは合わない部分が多い。狭い舞台にして人の密度の濃さを表現したいと思いました。

──木ノ下歌舞伎には、歌舞伎はこうすれば面白くなる、という提案も含んでいるわけですね。
 そうですね、今の歌舞伎について言うと、もっと作品をつくることに重きを置いた方が良いような気がします。全部に演出家を立てた方がいいとは思わないですけど、ある程度ちゃんと毎回再検討した方がいいのではないでしょうか。
 いま上演されている歌舞伎を、純古典演目、ちょっと変わった新作、現代演劇の演出家(野田秀樹、串田和美、蜷川幸雄)がやっているものに大きく分けるとして。まず現代演劇の演出家についてはこれからもやっていく必要があると思いますし、ここから歌舞伎に出会う観客も多いので重要です。でも、突然才能ある演出家を一人呼んできただけで面白い作品ができるものではない。そのためには通訳、つまりドラマトゥルクが必要です。アカデミックなものと現場論的なものを繋げる人です。野田さんや串田さんの場合は、中村勘三郎さんがその役割を担っておられたような気がします。勘三郎さんって、いい俳優さんであると同時に、とても有能なプロデューサー、通訳だったと思います。同時に作品の責任は全部負っていらっしゃいましたよね。じゃないと、演出家を消耗するだけでは一過性で終わってしまいます。
 純古典演目の方では、例えば、2010年4月に歌舞伎座で上演した中村吉右衛門さんの『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』は、中村富十郎さん、坂田藤十郎さんとオールスターキャストで、すごく良かった。あれだけ現代人の胸を打つって、すごい現代化だと思いました。恣意的に演出を変えず、がっつり古典をやりながら、そこに何かしら現代人が感銘を受けるものがあるということは、吉右衛門さんを含め座組の皆さんが現代との接合点を細かいレベルでつくられたんだと思います。それはすごく手間のかかる古典の読み替えです。そのことを指摘できる人、つまり、歌舞伎と一般の人を繋げる水先案内人が存在して、ちゃんと発言することが必要だと思います。そして、質のいい啓蒙書みたいなものもちゃんと出版される。そういう状況でないと、歌舞伎は面白くなっていかないと思う。つまり、現場での通訳、歌舞伎を紹介する通訳、このふたつの通訳がこれから出てこないと繋がっていかないのではないでしょうか。できたら僕も、及ばずながら、そういう人になりたいですね。

──将来、歌舞伎俳優と仕事ができるようになるために、これからやりたいことはありますか。
 僕が今一番演劇以外でやりたいことは、古典芸能雑誌の発刊です。舞台で伝わることと、文字で伝わることは違いますよね。歌舞伎演目の現代化をムーブメント化していくためには、僕は両方必要だと思う。どういう演劇実験をやったか記録をちゃんと残すべきなんです。武智歌舞伎を研究していて思いますが、演劇の記録って後世に残りにくい。武智歌舞伎は武智さん本人がたくさんの演出ノートを書き残しているから、まだましな方なんですけど、演出家の言葉だけを鵜呑みにしてしまうのも後世の研究にとっては危険なことで、やっぱり客観的な証言が圧倒的に足りていないという印象です。とくに観世寿夫・栄夫・静夫三兄弟が中心となって取り組んだ能の実験的な試み『冥の会』などは、演劇史上とても重要なはずなのに記録はほとんど残っていないのが現状です。参考にしようと思っても、本当に情報がない。それでは積み重ねができません。なので、記録を残すために雑誌をつくりたいんです。それだけじゃ面白くないので、読み物風の特集やコラムをたくさん組み込んで、芸能入門書としても機能するような雑誌にしたいですね。
 演劇では、2016年がちょうど木ノ下歌舞伎10周年なので「木ノ下“大”歌舞伎」をやりたい。過去10年間の成果を再演という形で練り直して発表したいです。一つの劇場で、同時多発的に何演目も上演できたら幸せだなと思います。
 今までタッグを組んできた演出家とも、一過性ではなく、長期的により濃密な関係を作っていきたいです。こう言うと大変おこがましいですが、〈歌舞伎がわかる演出家〉を輩出していきたい。そうして、40歳ぐらいまでに歌舞伎界と仕事ができるような力をつけていたいです。
 後は、海外公演もやりたいですね。単に日本で作ったものを海外でツアーするというだけじゃなくて、海外の伝統演劇が今どういう状況かリサーチもしたい。例えば、海外のダンサーと一緒に『鷺娘』をつくってみるとか、たぶん面白いでしょうね。あの作品はバレエ的な読み解き方もできる演目ですから。そもそも伝統の位置が日本と全然違うでしょうから、一緒に作品をつくることを通してそれを知っていきたい。滞在制作をして、ドラマトゥルクがどういうふうに海外で機能しているかも勉強したい。本当は、ドイツとかに留学したいのですが、いかんせん、なかなかまとまった時間がとれません。
 
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