The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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捩子ぴじん
捩子ぴじん(ねじ・ぴじん)
http://pijinneji.blogspot.jp/
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『no title』(2014年)
撮影:bozzo
no title
no title
『syzygy』
撮影:松本和幸
syzygy
syzygy
『モチベーション代行』
撮影:松尾宇人
モチベーション代行
モチベーション代行
『空気か屁』
撮影:塚田洋一
空気か屁
空気か屁
『1分の中の10年』
撮影:松本和幸
1分の中の10年
1分の中の10年
『no title』
撮影:bozzo
no title
no title
Artist Interview
2015.3.12
dance
“Recycling” Butoh  The artistic aesthetics of Pijin Neji  
舞踏を“リサイクル”する 捩子ぴじんの感性  
大学1年生のときに大駱駝艦の麿赤兒と出会い、パフォーマーとしての道を歩みだした捩子ぴじん。舞踏を“コスプレ”、身体を“メディア”と呼ぶ1980年生まれの新世代として国内外のさまざまなアーティストとコラボレーションを行い、その特異な身体性で存在感を発揮している。舞踏の伊藤キム、チェルフィッチュの岡田利規、身体の内側を観察するアプローチを続けるダンサー、コレオグラファーの手塚夏子、アーティストの梅田哲也などから影響を受け、独自の境地に到達。土方巽が舞踏を創始して約半世紀。舞踏の技術を“リサイクル”しながら、自分の身体に現代を映し出すという彼の感性に迫る。
聞き手:石井達朗[舞踊評論家]

舞踏との出会い

──千葉大学のデザイン工学出身ですが、それ以前にダンスにつながる活動をしていましたか。

 全くしていません。それどころか、小さい頃から運動が苦手で、マラソン大会で一番太っている子と最下位を争っていたぐらい。スポーツ全般、特に球技が大嫌いで、野球は小中高とルールを覚えないように耳を塞いでいたぐらいです。今でもオリンピックやワールドカップは絶対に見ないです。
 秋田の進学校から国立大学に進んで、普通に就職することに何の疑いもなく東京に出てきました。でも大学1年生のときに、同じ学科で先輩の白井剛さんがバニョレ国際振付賞を受賞されたというのが聞こえてきました。それまで小劇場があることも知らなかったし、お金を払ってダンスや演劇の公演を見たこともなかった。どうやら劇場に行くとダンスが見られるらしいというので、情報誌の「ぴあ」をめくっていたら、最初に出てきたのが麿赤兒さんの白塗りの写真だった。それでソロリサイタル『幽契』を見に行き、即座にこれをやりたい!と、大駱駝艦に入団しました。

──確かに、2000年にバニョレ国際振付賞を受賞した白井剛の『Living Room-砂の部屋』はマルチメディアのとてもいい作品でした。その白井さんが同じ大学の同じ学科だったんですね。それにしても捩子さんの舞踏との出会いは、かなり唐突ですね(笑)。
 今までの自分と真逆のベクトルに振りたいという欲求がどこかにあって、それが大駱駝艦を見た時に噴出したんだと思います。思い返すと、子どもの頃からゾンビやホラー映画が好きで、テレビの心霊特番は欠かさず見ていました。小学校高学年から中学の前半まではX JAPANも大好きで、頭をスプレーで固めて、東京ドームのライブに行ったこともあります。高校の頃は「STUDIO VOICE」を購読していて、長島有里枝、HIROMIX、ホンマタカシ、佐内正史あたりの写真集を東京の書店から取り寄せたり…。
 そういう幽霊、ゾンビ、ビジュアル系やサブカルへの趣味が舞踏に重なったんだと思います。初めて麿さんを見た時は、アレになりたい、スキンヘッドに白塗りしたいと。だから最初のうちは「踊り」ではなくて、まるでコスプレをしているような感じがありました。

──見方によっては顔や体全体を白塗りにして変身する舞踏には、コスプレ的な要素があるのかもしれません。大駱駝艦の場合は、ほとんど全裸に近い白塗りの裸を晒しますよね。それに抵抗はなかったのですか。
 ありませんでした。大駱駝艦の理念に、「この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とする」という言葉がありますが、観客に自分の身体を晒して恥ずかしいとすると、それもポジティブな要素として捉えて観客の視線の前でどう振る舞うか、恥ずかしいという自我をどう処理するか──そういう「見世物」としての立ち方が求められます。その「見世物」という考え方については、今でも大きな影響を受けています。

──捩子ぴじんの「ぴじん」ですが、これは違った言葉を話す者同士が、日常のレベルでコミュニケーションを取りたい、ということでつくられた混成語の「ピジン言語」から来ているのですか。
 あまり深く考えなくて付けたので困ってしまうのですが。昔から舞踏の人は芸名を付けるという習慣があって、「ピジン言語」という言葉の意味ではなく、「ぴじん」の音が好きで付けました。今は後悔しています。

──大駱駝艦に在籍したのは2000年から4年間です。4年間やって、どうして辞めたのですか。
 大学にも行かずに、踊りだけやるんだと夢中で稽古していました。人から振付をもらうことが幸せで、本当に楽しかった。入団して1カ月ぐらいたったときに、伊藤キムさんの『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』を見に行ったら、キムさんが本当に格好良くて、追っかけみたいに公演がある度に見に行くようになりました。あの眼帯にあこがれて、僕はなんで両目があるんだろう、耳を片方とったら勝てるかな、とか本気で悩んでいました。キムさんが古川あんずさんのカンパニーを4年で辞めたのを知って、じゃあ僕も4年で辞めて自分で作品をつくろうと決めました。単純だったんですね(笑)。
 キムさんの舞台で刺激を受けて、自分たちのやっていることの他にも面白いものがあると知っていろいろな舞台を見に行くようになっていたのですが、当時コンテンポラリーダンスが盛り上がりを見せていた時期だったので、自分もそこに飛び込んでみたいといった気持ちもありました。いつか、トヨタ・コレオグラフィー・アワードや横浜ダンスコレクションに出て賞をとることが、その世界での突破口になるんじゃないかと、純粋に思っていました。

──捩子さんは振付家としても注目できますが、舞踏とコンテンポラリーダンスの両方の素養をもつパフォーマーとしてユニークな存在になっています。2006年のアヴィニヨンフェスティバルで話題作となったジョセフ・ナジ演出『遊*ASOBU』に出演しているし、国内外のアーティストとのコラボレーションも多い。先ほど舞踏について「コスプレのような魅力があった」と言われましたが、若い世代の舞踏観として面白いです。舞踏に特有の化粧を「コスプレ」と呼ぶのは初めて聞きました(笑)。コスプレと舞踏の関係について、もう少し具体的に聞かせてください。
 僕が2年前に秋田公立美術学でやったワークショップを例にするとわかりやすいかもしれません。舞踏ワークショップという名前で依頼された仕事でしたが、普通のエクササイズではなく、ちょっと変わったことをしたいと思っていました。
 ワークショップの冒頭に、インターネットで見つけた舞踏家の写真を印刷してたくさん用意し、みんなで壁一面に何十枚と貼っていきました。その後で渋谷のガングロやギャル男、秋葉原のアニメコスプレ、ホスト、ビジュアル系ロックバンド、暴走族、ドラッグクィーンの写真などを、舞踏家の写真に混ざるように貼っていく。そうすると、舞踏家もコスプレにしか見えない。
 その写真の中で一番エネルギーがあったのは、横浜では有名な帽子おじさんと大野一雄さん。そうやってみると、大野さんなんかは完全にコスプレです。それで、僕が舞踏を始めたのは、踊りをやりたかったわけではなくて、こういうエネルギーに触れたからなんだ、という話をしました。
 それから、「みんなでコスプレをしましょう」って言う。でもいきなりそんなことを言われても出来るはずがない。油性マジックを取り出して、参加者の1人の額に「肉」って書いていいですか?と言うと、嫌だという。つまり、コスプレをする過程で抵抗を覚えるハードルが必ずあるということです。人目が気になるとか、恥ずかしいとか。そういうハードルがどこにあるのかを観察します。そしてハードルの低いところから、「まぁいいかあ」と思えるところから、1つずつハードルを乗り越えていくと、エスカレートしてコスプレが出来るはずだ。それに従って、少しずつ体の内側も緩んでいくので、それから踊りの稽古をしましょう、と言いました。
 そうやって「まぁいいかあ」を繰り返すと、みんなどんどんエスカレートしていきました。白塗りの道具一式、舞踏のふんどし、僕らはツンパと呼んでいましたが、それに近所の100円ショップで揃えた小道具。それらを準備しておいたのですが、むかしバレエをやっていたようなお母さんがサランラップを全身に巻いて、排水溝の網を頭の上に被って、耳に風鈴をつけてチリンチリンと頭をふりながら歩いたり、市役所の職員がカラーコーンを頭から被ったり。いつの間にか1人の男性が全身白塗りでふんどしになり、顔の真ん中に造花を付けて踊り出していました。

──自分の外側を、思いきって「有り得ない自分」に変えてゆくと、外側だけでなく気持ちまですっかり変れるということがありますよね。コスプレをきっかけに何かが起こったんですね。
 そうです。非常に舞踏的に見えますよね。僕の中で一番グッときたのが、20歳の男性です。とてもおどおどした様子で、ふんどしを付けたいけど下の毛が濃くて恥ずかしいと言うので、こっそり着替えて当たり前のように入ってくれば誰も気にしないよと言ったら、トイレで着替えてきて全身白塗りをし始めた。そして体中に造花やタワシなんかを付けてハァハァ言っている。
 こういうコスプレのワークショップを行った後、アフリカの打楽器を叩きながらみんなで学内に繰り出したのですが、自然と学生に絡み始めたりして。ものすごい高揚感で、まるでお祭りのようでした。最後はみんなで全力疾走してワークショプ会場まで戻ったのですが、途中で身につけていた道具がバラバラ地面に落ちていく。みんなでひと息ついていると、遠くから耳につけた風鈴が取れないようにお母さんがゆっくりゆっくり、チャリンチャリンと音を立てながら戻って来て、その光景がとても可笑しかった。ここまで盛り上がるとは思いませんでした。手応えのあるワークショップでした。

──周りの人たちと自分とのインターラクション、つまり相互作用を感じつつパフォームする。そこにある種の高揚感がある。捩子さんが舞台でパフォーマンスをしているときの身体(からだ)の状態も同じということですか。
 そうです。そういう身体の状態でありたいと思うし、そういう踊りをやってきたんだと思っています。つまり、身体の深層を緩めることによってリラックスした状態に自分を置き、観客など舞台を取り巻く環境とコミュニケーションしながら動く、もしくはそういう環境とコミュニケーションするシステムを振付としてつくって遂行するということです。この身体のあり方は、自分の手法として人に渡すことができるものだと考えています。
 パフォーマーは舞台上で自分の身体をコントロールすることを求められますが、お客さんの視線に晒された時に身体が影響を受けない筈はない。見られているし、緊張する。それで自分の身体が不安定になってしまうこともダンスのひとつの要素です。僕はダンスのテクニックを新しく習得するにははじめたのが遅すぎましたし、自分が使えるもの、他のダンスと対等にわたりあえる方法として、こういう環境とのコミュニケーションを重視する考えに至ったんだと思います。最近はこれが僕のポワントだと言っています。


試行/思考の時代

──舞踏の外のジャンルの人で、捩子さんのパフォーマンスや振付に影響を与えた人はいますか。

 チェルフィッチュの岡田利規さんです。岡田さんは演劇の人ですが、2005年トヨタ・コレオグラフィー・アワードで『クーラー』を見て、ダンスの文脈とは違うところから凄い身体表現が出てきたと衝撃を受けました。確かに出演しているのは俳優だし、セリフを喋っているし、いわゆるダンス的な身振りはない。にもかかわらず、これはダンスでしかないと身体が受け止めていました。見ていて体がむずむずしてしょうがなかった。
 僕はそれまで、ダンスとは身体を鍛えて技術に精通していって、その延長線上に自分の作家活動があると思っていました。今でこそチェルフィッチュの俳優には特別な技術が求められることを知っていますが、当時は自分のダンスや身体についての考えを根底から覆さてしまったようで打ちのめされました。その日の夜、高熱を出したほどです。そのトラウマがあって、しばらくチェルフィッチュが怖くて見に行けませんでした。
 それで岡田さんのことをいろいろ調べていたら、どうやら手塚夏子さんという人に影響を受けているらしいと。手塚さんのワークショップを申し込んだら、受講生が僕ひとりだった。マンツーマンでワークショップをやったのですが、それがとてもよかった。

──岡田利規さんのあの時の『クーラー』は、最高賞ととってもおかしくない新鮮な作品でした。演劇作品として見られたので、賞をとれなかったのではないかと思います。でもその後のチェルフィッチュの国際的な活躍と評価を見れば、充分に報われていると思います。捩子さんは、白井剛といい、岡田利規といい、日本の現在の舞台の流れの大事なポイントをしっかりと記憶に刻んでいますね。手塚さんは、指先や顔など体のいろいろな部分に緊張感をみなぎらせ、とても求心力のあるパフォーマンスをします。身体の内側に向かうエネルギーのテンションが高い人です。手塚さんは、ワークショップではどんなことをするのでしょうか。
 手塚さんは、自分のやっていることを言語化するという作業を追求しているアーティストでした。僕は面白いと思うものには手当たり次第に飛びついていましたが、それが自分にとって何なのかよくわかっていなかった。手塚さんと身体的な実験を積み重ねる中で、それが何だったのかはっきりしていきました。
 例えば、身体の 1点を触って、意識をギューッと集中する。そうやってある1点に意識を集中すると、他の部分が自分の支配的な意識の管理下から逃れて勝手に動き出す。奥歯の裏側を意識すると、他の部位が勝手に動きだす。また、身体の絵を描きましょうといって、見えない自分の内臓の状態を観察(イメージ)しながら胃はこういう状態だとか、具体的に描いていく。
 つまり、手塚さんのダンスは、身体の内面を観察し、それによって身体が何かの影響を受け、その反応によって動く──自分が動くのではなく、動かされてしまうという状態に「身体をチューニングする」というもので、大駱駝艦のコンセプトにも近いと思いました。
 大駱駝艦でよく言われていたのが、動くのではなく、動かされる。オフェンシブではなくディフェンシブな状態で踊るということ。例えば摺り足でも、歩くのではなく、重心を移して身体を運ぶ。ジャンプするのではなく、吊られて身体が上がる。言葉の言い換えではあるけど、確かにそれで変わる身体性がある。ただ、手塚さんほど丁寧に自分の内側を観察したことはなかったので、とても新鮮でした。

──手塚さんのワークショップを通じて、パフォーマーとしての捩子さんの身体がつくられ、舞台に立つということの身体のあり方が見えてきたということですか。
 そうです。2007年から2009年ぐらいまで、ワークショップをしたり、他のダンサーを集めて手法の交換をする企画「道場破り」に参加したり、「実験ユニット」という名目で一緒に公演を行ったりする中で、僕の興味が踊りよりも身体性の方に移行していったのだと思います。
 ある時、手塚さんが「基準から外れて過剰さに振れる行為」が“コスプレ”だとして、秋葉原にいるアニメオタクやセンター街にいるガングロを例としてあげたんです。その言葉に、僕はピンときました。
 それで、今言った人たちの写真、好きだったゾンビやビジュアル系バンド、舞踏家の写真を一緒に見ると、全部同じエネルギーを感じる。非常に“コスプレ”なわけです。つまり、自分はこういう過剰なエネルギーに触れたから踊りを始めたんだと気がつきました。大駱駝艦にいた当時、目張りひとつとっても、自分がどれだけグッと来るかを考えてメイクして、実際にそれが身体にすごく影響していた。それらは外側から見れば過剰で変なものかもしれないけど、どれも自分が正直でいられる感覚で選んだものでした。今はそうした舞踏のスタイルを当時のような感覚で纏うことはできなくなったので、もう裸で白塗りをすることはありませんが。

──捩子さんは舞踏を通過した後、舞踏でもなくコンテンポリーダンスでもなく、そのどちらでもあるという…ジャンルに囚われない活動をしていますが、今、改めて、捩子さんのルーツである舞踏についてどのように考えていますか。
 僕は世代的にも舞踏をはじめた人たちとは切れているんだと思います。すでに完結したものとして舞踏に触れている。そうでなければ、コスプレという見方で捉えることはできません。なので、僕がいつも言うのは、自分は舞踏を継承(インヘリット)しているのではなく、“リサイクル” “リユース”しているんだと。自分は舞踏の系譜の中にいるというより、そこから切り離されたスタンスで再利用しているパフォーマーだと思っています。
 例えば、僕のテクニックは大駱駝艦で培ったもののリユースですし、フィジカルな部分もたくさん使っています。土方巽さんの映像を見ると、下駄を履いた時にすごく不安定になるとか、鬘を被った時に首が重くて傾くとか、白塗りで皮膚が引き攣れるとか、見た目の象徴的な意味だけではなくて、新しい身体性を発明するための実験をまじめにやっていたんだろうと思います。
 土方さんの録音テープを聴くと、僕は同じ秋田出身だからわかるのですが、土方さんの話し方はウソの秋田弁なんです。どういうことかというと、一旦訛りが抜けた人の喋っている訛り。僕が秋田に帰って喋るとあの話し方になります。つまり土方さんは、秋田という土地と1度切り離され、自分自身がモダンダンスをやっていく中でどのようにダンスを発展させていくかを必死に追求された。それで、生まれ故郷の「東北」を意識的に再利用することで舞踏をつくっていったのではないかと。そういう意味では土方さんも東北を“リサイクル”したのではないでしょうか。

──ちなみに、ジョセフ・ナジの『遊*ASOBU』に参加したのはどんな経験でしたか。
 すでに辞めていたのですが、あの作品には大駱駝艦のダンサーのひとりとして参加しました。振付をもらうのではなく自分たちから出さなければいけなくて、結構辛かったのを覚えています。2006年から2年間はナジの仕事でフランスと日本を往復し、フランスでダンサーとして生活する選択肢もありましたが、アルバイトをしてでも日本で自分の作品をつくりたいと思うようになり、2007年1月に帰国しました。


振付家として

──私は、捩子さんの振付家としての活動に注目してきました。2009年に初演された『syzygy(シジジー)』は、大きなベニヤ板1枚、4本の柱、2人のダンサーの身体を同等に扱い、ベニヤ板を引きずり、柱を倒しと、物と身体が同じように激しく動く作品です。この作品は、「横浜ダンスコレクションEX 2011」でグランプリにあたる「審査員賞」を受賞しました。情緒的なもの、物語的なものをすっかりそぎとって、素材とのアクションだけに徹した作品でしたね。

 アサヒアートスクエアの「glow up!Dance project」のサポートを受けて制作した作品です。会場にたまたまあったベニヤ板を使って何かできないか?ということから考えました。タイトルは、僕が大好きだったシオドア・スタージョンの小説から付けたもので、惑星が重なるとか、トランプを2枚合わせて上の1枚だけを裏返しにする技を意味しています。
 あの頃はニューヨークのポストモダンダンスに影響を受けていて、ダンサーとして参加してもらった神村恵さん、福留麻里さんの身体を無機質なものとして扱う感覚に面白味を感じていました。チェルフィッチュの衝撃を受けてから、非常に有機的で生々しい大駱駝艦の身体性と一度断絶したくて、逆のことをやりたくなったのだと思います。

──その後、2010年に『モチベーション代行』を発表しています。この作品は、捩子さん、井手実さんという二人のアーティストと、捩子さんが生活のためにアルバイトをしているコンビニで働くワダさんの3人が登場して、生活者としてのアーティストの実像と虚像が交錯するセミ・ドキュメントです。私は2011年のフェスティバル/トーキョー(F/T)で見ましたが、虚構であることが前提の舞台と、外の生の社会がリンクする素晴らしい作品でした。今まで日本のコンテンポラリーダンサーで誰もこういう作品はつくったことはないし、つくれなかった。無機質の『syzygy』とは全く違っていて、捩子さんの創作能力の視野の広さには驚きました。
 日本に住んでいる大部分のアーティストはアルバイトで生活していて、日々の暮らしと創作活動を両立させることは本当に大変なんです。僕は当時コンビニでアルバイトをしていたのですが、フリーターが趣味でダンスをやっているのか、ダンサーが生活の糧にアルバイトをしているのか、どっちなんだ!と、自分のアイデンティティみたいなものが気になって仕方なかった。何度か再演していますが、途中で東日本大震災もあり、将来に対する不安も含めて異常な精神状態でした。
 そもそものきっかけは、京都国際舞台芸術祭のフリンジ企画として何かつくってほしいと依頼されたことでした。引き受けたものの、稽古する時間も作品のことを考える時間もない。苦し紛れに、労働も稽古として捉えられるのではないかと考えて、1日8時間だったコンビニのアルバイトを2件掛け持ちして1日14時間、1カ月半続けました。
 「いらっしゃいませ、こんにちは」を1日に何回言っているのか数えたり、カロリーに変換したらダンスと較べてどれくらい動いていることになるのかを計算したり、どのお客さんが来た時にどういう風に自分の身体の状態が変化するのか、身体の重心は右に寄るのか左に寄るのか、内臓の感覚はどうなるのかを観察したり。そうやって作品にしていきました。
 初演は、僕と友人のアーティストの井手君、それから僕の仕事に一番興味がなさそうなバイト先の同僚の3人でしたが、F/Tでは井手くんの代わりに文学座の征矢かおるさんに出演してもらって構成も変えました。今思えば、ブルースみたいだったと思います。奴隷だった黒人が白人の楽器を手に自分たち独自の音楽をつくったような。東京に住んでいるアーティストだかフリーターだかわからない人が、ヨーロッパのドキュメンタリー演劇という形式を見様見真似でつくったブルース(笑)。

──この作品はF/T公募プログラムの最優秀賞を受賞しました。副賞として、翌年にF/Tで作品をつくる機会が提供されましたが、捩子さんは断ったと聞いています。予算がしっかりついて、F/Tという国際的なフェスティバルで新作を発表できる。誰でも飛びつきたくなるチャンスを与えられていながら、断った。そこが捩子さんのいいところかもしれないけれど(笑)。なぜ断ったのですか。
 この公演を終えて、自分で面白がれるものはもう見つけられないのではと感じ、アーティストとしての活動を止めようというところまで思いつめていました。『モチベーション代行』のような作品を演劇だと言って続けるのは、観客を騙しているような気もしました。ただ、ソウルのフェスティバル・ボムから招聘されたので、ここでだけはやろうと2012年4月に再演しました。当時作品で扱っていた某コンビニのチェーンがソウル市内にも沢山あったし、韓国にも働きながら作品をつくっているアーティストが一杯いたので。それ以降は、再演していません。

──ソウルで再演できたのはよかったです。その後、いろいろなところにパフォーマーとして客演して踊る機会が増えたように思います。
 2012年2月に快快の作品『アントン、猫、クリ』に客演する機会があって、久しぶりに踊ることの幸福を感じました。この作品で海外も回ったのですが、改めて、自分は「踊る」ことを非常に大切に思っていると気付きました。それから2年ほどはパフォーマーとしていろんな人の舞台に出演していましたが、本当に楽しかったです。大駱駝艦で踊っていた頃を思い出しました。僕にとって人から振付をもらって踊ることは、生きている中でも相当上位に位置する幸福です。
 また、ちょうどその頃、手塚さんの「私的解剖実験-6」に出演したことがきっかけで、“身体はメディアである”という考えに触発されました。

──それはどういう意味ですか。
 この作品は「インディビジュアル(個人)」と「ディビジュアル(ジル・ドゥルーズが考案した概念で集合、共同体といった意味)」をテーマにしていて、作品制作のプロセスで個人の身体と共同的な身体を意識させられました。手塚さんは共同的な身体、他人との境界が緩くある集団が場に奉仕するようなディビジュアルな身体に興味があったのですが、出演してみて自分は心の底からそれを望んでいないということがよくわかりました。盆踊りのような共同体的な表現には憧れはありますが、僕には人と人との間に一定の距離感が必要なんです。
 でも自分の身体は住んでいる社会や環境の影響下にあって、決してそれから切り離せるものではない。自分のインディヴィジュアルな身体の中にいろいろな社会性が詰まっていて、その身体を見せることによって世の中で起きていることのひとつの断面を伝えることができるのではないか。そう思った時に、“身体はメディア”なんじゃないかということを改めて意識しました。ならば、そういうメディアとしての身体を扱った作品をつくりたいという気持ちになり、2年ぶりに発表したのが2014年の『空気か屁』です。

──白いカーテンの動きに呼応するように動く捩子さんが印象的な作品でしたが、私には次のステップを手探りしている、通過点のようにも思えました。
 震災以降に考えたことは、何もなくなっても、踊りや歌は誰かが勝手に作るだろうということ。それは空気や屁のようなものではないかと。そういうものを扱えないかと挑戦した作品です。他者に向けて発表するような作品ではなかったかもしれませんが、あの馬鹿正直さを自分は必要としていたんだと思います。

──捩子さんが振付家として作品をつくる時、そのプロセスでよく使う方法論というのはありますか。
 ひたすらダンサーにインタビューします。この人は何を知っているんだろう、何を気にしているんだろう、この人は何で出来ているんだろう、というのを知りたいんです。作品をつくるというよりも稽古場に集まって近況を報告しあうことの方が重要だと思っています。そうやって話をしたときにひっかかったことや疑問に思ったこと、どこかに出かけたりした共通の体験など、僕の身体をメディアとして受け止めたことが作品の要になっているように思います。

──インタビューの内容は、どんなふうに作品に反映させるのですか。
 作品の構造に影響することもあれば、インタビューの内容そのものをパフォーマンスとして使うこともあります。2014年に釜山で発表した『ソリソムンドプシ』(直訳すると「音、噂もなく」。粛清されるなど、誰かがいなくなるという時に使われる言葉)では、福岡と釜山でお互いの国に関する噂について街頭インタビューをしました。
 これは、日本側はJCDNと福岡市文化芸術振興財団、韓国側は釜山文化財団とLIG文化財団が関わって日韓共同制作をする「Plan Co(プランコ)」というプログラムで創作したものです。クリエーション期間が2週間でダンス作品をつくる時間もなかったので、集めた要素を自分の面白がれる回路で編集したパフォーマンスにしようと考えました。子どもたちと一緒につくりたかったので、釜山では10代の参加者を集めてもらったのですが、偶然、孤児の女子中高生たちだった。普通なら自分の名前について、誰が付けたとか、この字は誰から受け継いだとか出所がわかるのですが、彼女たちにはわからない。
 考えてみれば、噂だって民俗芸能だって本当の出所はわからない。ひょっとすると即席で作られたものが時間をかけて変化していったものかもしれない。そんなことを考えながら、日本人と韓国人、福岡と釜山のいろいろな要素を編集してパフォーマンスにしました。

──捩子さんが作品をつくるプロセスでこだわる「インタビュー」「編集」の意味がわかってきました。今の社会に生きる人たちの多様性をどんなふうにダンスですくい上げるのかと考える時、大切なことだと思います。そういうつくり方をする人は少ないです。


コラボレーションについて

──捩子さんはジャンルや国を超えてコラボレーションして、いい結果を生んでいます。たとえば最近は、長年韓国の伝統舞踊をやっていて現在はベルリンで生活し、コンテンポラリーダンスの領域で活動する振付家、イム・ジエさんと作品をつくっています。この作品は、3人のダンサーのなかで捩子さんの身体性が舞踏的で異色であったのが一番印象的でした。観客として見ていて、あらためて舞踏がもっている力を意識させられました。

 昨年のF/Tで上演した『1分の中の10年』は、釜山でジエとルーマニアのダンサー、セルジウ・マティスと一緒につくったものです。昨年のトヨタ・コレオグラフィー・アワード2014で上演した『no title』ではハウスダンサーのYanchi.(ヤンチ)さんと共演しました。それまで自分のテクニックはただの癖のようなものでしかないのではないかと思っていたのですが、他のテクニックをもつダンサーと一緒に作品をつくることによって、いまの自分の身体自体がひとつの技術であり、掘り下げて較べることができるものだと確認できました。

──最近は、現代美術のアーティストである梅田哲也さんともよくコラボレーションしています。梅田さんは「あいちトリエンナーレ2010」でコンタクト・ゴンゾと一緒にやった作品を見たことがあります。梅田さんと捩子さんは美術とダンスということで、ジャンルは全く違います。でもクリエーションの世界では大胆で拘りがなく、生のアクションとスペースに対する意識ということでは共通する部分があります。梅田さんと捩子さんにはすごく近いものを感じます。
 梅田君からはとても刺激を受けています。2009年のヨコハマ国際映像祭のオープニングイベント「停電EXPO」で出会ったのがきっかけです。日本パフォーマンス/アート研究所の小沢康夫さんのプロデュースで、contact Gonzo、神村恵、梅田哲也、堀尾寛太、僕の5組でパフォーマンスをつくりました。
 その縁で原宿に梅田君のライブパフォーマンスを見に行きました。梅田くんのライブは、始まりはシンプルなんですが、何かやっている間に観客も巻き込まれてカオスになっていく。どういうきっかけでそうなったのかもわからなくて、その場で起こっていることに自然に巻き込まれてしまう。何だコレ?と本当にビックリしました。彼と話をしたら、偶然、僕と同じ80年生まれだったんです。梅田くんの仕事を見ていると、僕たちが気にしている境界みたいなものを、軽々と、ことごとく乗り越えていく“自由”さがあって、それが本当に格好いい。
 人をどう動かすのか、空間をどう動かすのか、何かを動かすためにはどうすればいいかというストラテジーが意外にあって、彼の方法論は広い意味で振付と捉えることができると思いました。僕が面白がっているのはそこなんです。今、梅田君の仕事が世界で一番好きですね。僕の中では彼のやることは何でもオッケーです。

──梅田さんとは是非また一緒に何かやってほしいです。最後に、今後はどんなかたちで展開していきたいですか。
 この前、ドイツのHAUに行ったのですが、劇場がメディアとして機能していると実感しました。神戸のDANCE BOXに出演したときも同じ感じを持ちましたが、今はそういうメディアになっているような劇場で作品をつくりたいと強く思っています。
 身体も、舞台というフォーマットも、劇場という場所も、すべてがメディアとして機能していれば、自分たちが実感をもって馬鹿正直にやることで、見ている観客に今どういう時代に生きているのかを伝えることができるのではないか。自分たちの中で閉じるのではなく、そういうメディアに関わる仕事をしているという自覚をもって、活動していきたいと思っています。
 
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