The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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杉山 至
杉山 至(すぎやま・いたる)
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青年団『東京ノート』
(2012年7月/高知県立美術館ホール)
東京ノート
(c) Itaru Sugiyama

(2012年7月/東京都立美術館 講堂ロビー)
東京ノート
(c) Itaru Sugiyama
地点『雌鶏の中のナイフ』
(2005年1月/アトリエ春風舎)
雌鶏の中のナイフ
撮影:青木司
地点『かもめ』
(2007年8月/滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール)
かもめ
地点『桜の園』
(2008年10月/吉祥寺シアター)
桜の園
撮影:青木司
地点『Kappa/或小説』
(2011年3月/KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
Kappa/或小説
撮影:橋本武彦
地点『三人姉妹』
(2015年10月/KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ)
三人姉妹
撮影:松本久木
Artist Interview
2015.10.30
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A magician in the art of bringing spaces to life  The aesthetic approach of Itaru Sugiyama  
空間を切り取る魔術師 杉山至のアプローチ  
平田オリザの盟友として青年団の舞台美術を一手に引き受けている杉山至。建築を学び、青年団と関わりの深い三浦基(地点)、松井周(サンプル)に加え、詩森ろば(風琴工房)、長田育恵(てがみ座)、コンテンポラリーダンスの白井剛などとともに、身体に働きかけるユニークな空間を造形。舞台美術家・舞台監督の活動拠点「六尺堂」の特別顧問であり、大学でも教鞭を執る杉山の全貌に迫る。
聞き手:野村政之[演劇制作者、ドラマトゥルク]

舞台美術家になるまで

──杉山さんは国際基督教大学(ICU)のご出身で、盟友となる平田オリザさんとは大学で出会われました。それ以前から演劇や舞台美術に関心があったのですか。

 大学に入るまで演劇の世界に足を踏み入れるとは全く思っていませんでした。高校に演劇部はなくて、ヘビーメタルやハードロックをやるバンドサークルで、ギターやベースを弾いていました。演劇との出会いとしては、後輩が高校の文化祭で発表したものには大した劇じゃなかったけど結構カルチャーショックを受けました。

──家庭の中で演劇について影響を受けたということはありますか。
 全くないですね。父の杉山好(よしむ)はドイツ文学者でバッハの教会音楽を研究していて、その世界では知られた人でした。だからバッハが子守唄みたいな家庭で、クラシックは知らず知らず聴いていましたが演劇とは無縁でしたね。ちなみに自宅があったのは川崎のいわゆるニュータウンで、ルーツをもっていない中産階級の人たちが多く住んでいた。新しいものには敏感でしたが、文化的な歴史のない街でした。

──そういう自分の育った環境というのは今の自分に影響していますか。
 すごく影響しています。父親に対するコンプレックスというのが凄くあって、違う道を選んだんですから。それを回復していくのはとても大変でした。

──舞台美術家につながる原体験はありますか。
 それはあります。高校の体育祭で、クラス対抗でマスコットをつくる部門があり、その棟梁をやって優勝しました。今思い返しても相当良い出来でしたね。ボディを竹で組み、その上に紙を貼って、当時流行っていたロサンゼルス・オリンピックのイーグルサムをつくったんです。何が凄かったのかというと、首が動いて、目もパチパチ開閉し、帽子も動いて、腕も上がる。こんなに動くマスコットはないっていうぐらい凄かった(笑)。今思うと、このマスコットで優勝したことが、図面を書いて、みんなでつくり上げていくという舞台美術の魅力に取り憑かれた最初だったように思います。
 元々工作が好きだったんですね。特に構造を考えるのが大好きで、小学生の頃から自転車や冷蔵庫を分解したり、組み立てたりしていました。

──美術大学に行くという考えはなかったのですか。
 なぜかなかったんですよね。中学、高校で「建築」というものを知っていたら、絶対そっちに行っていたと思います。高校までは物理が好きで、大学受験も最初は物理系でした。一方で哲学や文学に興味をもち始めていて、哲学的なことと物理的なことを融合させたいとずっと思っていました。大学でいろいろ学んで、それができるのが建築だというのがやっとわかった。だから、ずーっと遠回りしてるんです。

──オリザさんとの出会いはどのようなものだったのですか。
 新入生のサークルの勧誘で演劇サークルの紹介があって、たまたま4歳上のオリザさんと出会ったのが最初です。当時の青年団は今と全然違う、野田秀樹さんのような芝居をしていました。話しの内容が面白くて、ヴィジョンがあって、この人は凄いなと。何か黄色いオーラが見えた(笑)。オリザさんが韓国の延世大学に留学して帰国し、大学を卒業して、青年団をやりながらお父さんが作った小劇場「こまばアゴラ劇場」の経営をするようになった時期でした。
 それで僕は青年団に入って、オリザさんが三鷹に築80年ぐらいの農家を借りて立ち上げた「ペンギン村」、今でいうところのシェアハウスみたいなところに入居しました。そこで、オリザさんが関わっていたサイクリング部、ワンダーフォーゲル部、演劇部の後輩たちと共同生活をした。演劇だけじゃないいろんな人と毎晩哲学議論をして…2年間居ましたが相当面白かったです。
 当時からオリザさんは場のつくり方がとても上手かったと思います。僕も他ジャンルの人たちと出会う場をつくることに興味がありますが、影響を受けているのかもしれません。大学3年生の時、それまで演劇漬けだったんですが、オリザさんに「若いうちに海外に行かないとダメだ」と言われて、思いきって中国に1カ月半、ネパールに1カ月半、ヨーロッパを1カ月放浪しました。

──舞台美術家を志したきっかけは?
 青年団の先輩で、初期のセットと照明をほとんど担当していた鬼頭路加さんに出会ったのが大きかった。丹下健三などと同世代の建築家で、日本の図書館建築の第一人者として知られる鬼頭梓さんの息子です。当時の劇団は、劇団員が大道具、衣裳、小道具、制作などスタッフワークを兼ねていて。僕はつくるのが好きだったので、1年生の時から役者をやりながら路加さんの手伝いをしていました。彼から、「フランク・ロイド・ライトって知ってる? ルイス・カーンって知ってる?」と、色んな建築家について教えて貰う中で、建築にも興味を持つようになった。
 ヨーロッパを放浪して帰国し、『ソウル市民』の初めての旅公演のときに、仕込みが終わってリハーサルになったのですが、役者をやっていてもセットの仕上がっていないところが気になって集中できない。その時に、「ああ、俺ってこっちの方がやりたいんだ」って自覚しました。
 それと実はヨーロッパを放浪していたときに、バルセロナでガウディと出逢っちゃったんです。街は凄いし、ガウディの建築は光が違う。ピカソもミロも見て、なんかもうパニックになった。大学で、「からだ再考」という凄く面白い体育の授業をやっている先生がいて、「身体は捻れている。捻れているから柔らかい動きができる」と。ガウディの建築を見た時に、その言葉に合点がいった。重力を踏まえた、波打つように美しい曲線とか、建物すべてが合理的に捻れていて、本当に感動しました。ガウディは自然を観察した合理主義者で、まさに物理と思想がこの人の中で一体になっていると判った。その思いがずっとあって、大学を卒業してから、舞台スタッフの会社に務めながら、青年団の活動をやりながら、早稲田大学の夜間学部で建築を学びました。27歳から3年ぐらいそういう状態でした。

──その3年間が、舞台美術家、杉山至が生まれるまで修業時代ということになるわけですね。
 そうですね。青年団では最初は路加さんの手伝いだったのですが、彼がアメリカに移住し、ファックスで図面を送ってくるようになり、段々、僕が図面も書くようになっていきました。例えば『南へ』『S高原から』『東京ノート』の初期プランは路加さんですが、『北限の猿』『火宅か修羅か』は僕です。ちなみに、勤めていた舞台スタッフの会社は面白いところで、舞台監督が街に出たらどんな仕事ができるかということを考えていて、イベントのセットデザインとかかなり色んな仕事をやりました。
 舞台美術家といっても別に資格があるわけじゃないので、いつから自分がそうなったのかわかりませんが、仕事をする限りは「日本の舞台美術」について知っておくべきだという気持ちがあって、2000年前後からアゴラ劇場の稽古場で勉強会を始めました。でも伊藤熹朔の『舞台美術の研究』という1941年に出版された本があるぐらい。それ以降の研究書がなくて、大学で教えることにもなったので、みんなで資料を集めて調べたりしました。


「身体知」によって場をつくりだすセノグラフィとしてのアプローチ

──2000年から桜美林大学に総合文化学群演劇専修が新設され、杉山さんも舞台美術の講義をされています。

 大学では、「パフォーミングアート(performingart)とは何か?」、次に「セノグラフィ(senography)とは何か?」をやります。パフォーミングアートは日本語では「舞台芸術」と訳されていますが、「perform」は「演じる、上演する」という意味であって、舞台という場所に限ったことではない。セノグラフィも似ていて、「stage design」や「stage art」と同じように「舞台美術」と訳されてしまう。でも、その語源は「scene」 と「graphic」だから、舞台の上だけを指すのではなくて、sceneをつくる、状況や場を描くということ。だから僕は自分がやっているのはセノグラフィだと言っていますが、お客さんがどこから入ってどういう状況や場と出会うのかといったトータルなデザイン、空間全体のデザインに興味があります。
 調べてみると、近現代に繋がる舞台美術家は、ルネッサンスやバロックの頃に登場するのですが、その人たちは建築家とも美術家とも名乗っていない。だけど、空間をトータルにデザインしていた。僕がやりたいのはこれだと思いました。今はいろいろと分業化されていますが、僕は、すべての人が何らか役割を担っているけど、互いの領域を越えて作品をつくっていくという演劇の原初的なつくり方に魅力を感じていますし、セノグラフィという言葉にも同じような魅力があると思います。

──ということは、プロセニアムで舞台と客席がきちんと分かれている劇場よりも、小劇場や倉庫など自由度のある空間のほうが好きですか。
 大学時代は会議室にパイプを組んで、好きなように空間をデザインしていてとても楽しかった。今でもその気持ちは変わりませんし、そういう出自からして自由度のある空間の方が好きですね。
 古代ギリシアの野外劇場は、人の集まり方から設計されて、集まりやすいように円形にしたそうです。それで、舞台で演じている人が顔を動かさない状態で左右を認知することができる(見える)範囲の220度に客席を設けた。そういった「生命原理」というか、「身体知」に基づいて劇場という場が設計されていたのですが、ローマ時代にはそれをバッサリやって180度にしちゃった。
 僕には古代ギリシアのような「身体知」がとてもしっくりくる。それで、舞台美術のワークショップをやるときにもキーワードにして、暗闇の中で鉛筆を削って貰ったりしています。鉛筆は目で見ながら削るものだと思っていますが、暗闇で見えなくても削れるんです。その時に何を頼りに削っているのかをみんなに体感してもらう。音や手の感触、匂い、舐める人もいる。なかなかイメージ通りには削れませんが、目だけでなく色んな感覚器官を使って削っていることがわかります。五感の知覚を統合しているのは脳かもしれませんが、それは基本的に身体に属しているのでこうしたことができるんだと思います。

──そういう「身体知」がセノグラフィをデザインする上で非常に重要な感覚だということですね。
 そうです。文化庁の在外研修でいろんな劇場を見て回ったのですが、古代ギリシアの野外劇場に立つと、海が見えたり、地平線が見えたり、環境が素晴らしい。匂いや風や光はどこから来るのか、といったことを計算して設計されているのがよくわかります。それと同じようにセノグラフィも「五感を研ぎ澄まして空間を感じる」ところから何かアイデアを考えられたら面白いなと思っています。

──具体的にオリザさんの作品ではどのようにセノグラフィをデザインしていくのですか。
 例えば、『東京ノート』では、4つのベンチがあって、それぞれに3カ所座る所があり、座る人の位置関係でこういう組合せの会話のバリエーションがあるから「それができるような空間にしたい」とか、オリザさんからは数式みたいな感じで要望される。なので、基本になる軸をX,Y,Zとか決めて、客席の位置を含めて空間をつくっていきます。でも、サンプル(松井周)でそういう空間のつくり方をすると失敗する。オリザさんの作品のような構造がないというか、あっても崩れたり、フニャッと曲がったりするのでこういうつくり方はできない。全然違うから面白いですね。

──オリザさんの作品には、ある日常的な風景を構造的に模写するという側面がありますから、そういうアプローチになるのがよく理解できます。杉山さんは三浦基さんが主宰する地点とも仕事をされていて、非常にアーティスティックな空間造形をされています。例えば、『桜の園』(2007年)はステージの床全面に1円玉を敷き詰め、車窓から見える景色のようにロシアの風景が細い帯状の映像となって壁に流れ、窓枠だけを崩壊した家の象徴として使うというものでした。この他、舞台と客席を反転させ、客席側に30メートルの桟橋を突き出してステージにした『かもめ』(2007年)、舞台に線路を敷き、動くトロッコを舞台にした『Kappa/或小説』(2011年)、重く巨大なガラスの壁を押す『三人姉妹』(2015年)など、さまざまな空間を創り出されています。
 地点に参加したのは2005年の『雌鶏の中のナイフ』からです。三浦は青年団の演出部にいて、若手自主公演として地点の活動を始めました。当時、若い劇団は自前の稽古場をもてる状況ではなくて、オリザさんが2003年にアトリエ春風舎をオープンして若手に稽古場として開放した。だから地点は春風舎で2〜3週間稽古をして、そのままの空間で2〜3週間公演をするという贅沢な劇場の使い方ができました。『雌鶏の中のナイフ』はスコットランドの劇作家デイヴィッド・ハロワーが書いた本当に面白い戯曲でした。でもナチュラリズムで空間をつくることができるような作品ではなくて、何か発明しないとできないぞとなった時に、色んな要素をコラージュして、舞台装置になるようなオブジェをつくったのが、僕にとって革命的なターニングポイントになりました。
 巨大なテーブルなんだけど、機械のようでもあるし、馬にも見える。ある時には地平も表現し、天も表現し、地下も表現する。扉にもなるし、部屋にもなる。あらゆるものになる可能性がある。そのくせ、すごく個性があって質感がある。それを三浦が演出で上手く使い倒してくれた。僕の大学の卒論のテーマはカフカだったんですが、カフカの文章は説明しようとすればするほど謎に包まれていく魅力があります。例えば『流刑地にて』で、「この機械は…」と説明し始めるんだけど、言語を尽くせば尽くすほどどんなモノだかわからなくなる。同じように、目にはそのモノは見えていて何らかの機能はしているけど、「アレ」としか言えない…そういうものをつくってみたいと思いました。

──三浦さんとはどのようなやりとりをされたのですか。
 三浦との仕事は、一方的にアイデアを出すというものではなく、スタッフ全員で打ち合わせしながら、ワークショップのようにしてプランをつくっていきます。いろんな実験をしながらどんどんアイデアを積み重ねていく。その手法が面白くて、サンプルで仕事をするときも演出はもちろん、ドラマターグ、照明、音響も入って、みんなで喧々囂々やりながらプランをつくるようになっていきました。こういうワークショップでつくると、観客が見た時にどこまでが照明の仕事で、どこまでが美術の仕事なのかとか、渾然一体になっていって面白いんですよね。

──一昨年は、てがみ座『空のハモニカ』、風琴工房『国語の時間』の舞台美術で読売演劇大賞最優秀スタッフ賞を受賞されました。
 てがみ座の長田育恵さんは、きちんとした戯曲の書き方をされる作家で、『空のハモニカ』では詩人の金子みすゞを主人公に取り上げている。みすゞの世界は、一見すると子ども向けでかわいい詩なんだけど、すごく冷徹な目で科学者のように世の中を見つめていて、美しいものを汚いものの中に探したり、綺麗だなと思ってるようなことの中に残酷さを探したりしている。長田さんはそういう「路地裏の汚い水たまりにでも、真っ青な綺麗な空が映っている」みすゞの世界を見せたかったので、「この人は大地と空が反転した世界に住んでいるから、反転させよう」というアイデアでつくりました。風琴工房の詩森ろばさんは、オリザさんと似ていて、来た球を打つタイプの演出家なので、かなり自由にデザインさせてもらっています。

──ダンサー、振付家との共同作業についてはいかがですか。
 京都造形芸術大学のプロジェクトとして、当時、教授だった山田せつ子さん(ダンサー・振付家)が企画し、宇野邦一さん(翻訳家)たちとジャン・ジュネの研究から作品を立ち上げていくプログラム(2006〜08)に関わらせてもらったのですが、それはとても修行になりました。ダンスなのに言葉から入ってみて、言葉を使い尽くし、造形をやり尽くし、映像も使って、更にそれをもう一度ゼロに戻して…ということを縦横無尽にやった。その時にダンサーの白井剛さんともご一緒させてもらいました。
 その後、彼の作品『静物画-still life』(2009)で美術をやりましたが、白井さんは知的で物事を物理的に捉える人なんですよね。この作品では、特別な親交のあった彫刻家のジャコメッティについてジュネが書いた『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』が重要なテキストになりました。ジャコメッティの友人だった哲学者の矢内原伊作が書いた本も分析しながら、「目に見えるものを見える通りに表す」というジャコメッティの「静物画」をキーワードにして、かなりコンセプチュアルに詰めていきました。
 具体的には、「つくればつくるほど消えていくセット」にできないかと…。空間にものをつくり込んでいくのですが、それが空間に溶け込んでどんどん普通になって、「元々あった」ように感じられればと思いました。

──最近とても作品数が増えている漫画・アニメを原作にした「2.5次元ミュージカル」の草分け的な作品『テニスの王子様(通称:テニミュ)』の初期の美術も杉山さんですし、オペラを手掛けることもあります。ジャンルも幅広いですし、さまざまな作家と仕事をされていますし、美術プランも一貫したスタイルがあるというよりバラエティに富んでいます。
 「舞台美術は太鼓だ」とよく考えます。打てば響く太鼓。叩いてくれなきゃ鳴らないし、叩く人によって響き方が全く変わる。だから太鼓としては、誰が打っても大丈夫なように訓練しておく。打つ人によって自分の発想からは絶対出ないようなことがポッと出たりするのがメチャクチャ面白いんです。
 オペラでは、2016年1月にハンブルク州立歌劇場でオリザさんの新作『海、静かな海』(作曲:細川俊夫、指揮:ケント・ナガノ)をやります。プランはできていて、図面も送りました。ドイツでは「バウプローベ」といって、1年ぐらい前に舞台装置の仮組をする段取りがあり、それを見て演出家や照明家が図面や模型と照らし合わせていろいろ注文を付けるんです。日本では仕込みのときに図面通りになっているのは当たり前なので必要ないですし、オリザさんも僕も別に何も言わないのでなくてもいいんですけど(笑)。
 2.5次元ミュージカルの美術はすごく難しかったです。アニメやマンガの平面性を空間的に落とし込むために、何か発明しないといけない。日本の高い技術力を活かしたプロジェクション・マッピングの映像ショーをどこまで突き詰められるか、それが「舞台美術」としてどのように関わるのか、ということだとは思っていますがそう簡単ではないですよね。この頃は、映像作家の方が平面に投影するのではなく、立体的に展開したいと思うようになってきたので、美術家と映像作家が三次元空間をコラボレーションしながらつくっていくことができたら、すごく面白くなると思います。
 コンピュータの「2000年問題」になぞらえて「舞台美術の2000年問題」と言っているのですが、ちょうど2000年頃からプロジェクションが行われるようになり、舞台美術に投影するための「二次元(平面)」が要求されるようになりました。これは、舞台美術にとっての革命的な転換点なんじゃないかと思っています。
 遡れば、15世紀に遠近法の理論をヨーロッパ人が発見してから、舞台美術は20世紀までプロセニアムの中にどうすれば「疑似遠近感」のある奥行きをつくれるか、ということを追求してきた。舞台の中でイリュージョンを見せていくというだまし絵、トロンプイユです。それが今では、舞台美術で映像を投影するために舞台の上に白い平面が登場することになったわけです。ひょっとしたら、これは500年ぶりの大転換じゃないのかと。舞台美術家は、今後、真剣に生き方を考えていかなければいけないかもしれません。


舞台美術家と舞台監督の共同工房「六尺堂」

──杉山さんは東京・五反田で、舞台美術家と舞台監督が共同で運営する舞台美術研究工房「六尺堂」のディレクターをされています。東京の小劇場に関わっているクリエーターが多数参加していて、小劇場の共同工房のような様子になっています。

 僕はこういう人の集まりをつくって喧々囂々やりながら活動するのが好きなんです。それぞれが自分のボスで、みんながアーティストでいられるような場所…いわゆる「梁山泊」をつくりたい。場所をもちたいと思っても一人では無理なので、一緒にやろうと仲間を集めて、最初に突貫屋というグループをつくり、それを継承する形で六尺堂を始めました。共同工房と言っても、別に誰かが誰かに教えるということもないし、弟子を育てて売り込むということもないのですが、勝手に学び合える、実験したい人がいたらそこで好きなことができる場をつくりたかった。
 最近は公共的な稽古場は少しずつできてきていますが、アトリエがないんです。六尺堂は機材と作業場があるので、衣裳、小道具、大道具をつくれます。オリザさんとフランスの劇場に行くことが多いのですが、劇場に工房があるのは当たり前です。1カ月稽古しながら、工房で道具をつくって、徐々に稽古場に仕込んでいく。そういうアトリエを公立ホールはもってほしいし、そうすれば人材を育てることもできるようになります。若い時は特に、プランを立てるのにもまず自分でつくってみた方がいい。Do it yourselfの精神でつくってみて初めて、構造や仕組みがわかる。そうして初めて発注もできるようになる。詰まるところ舞台美術も身体知なんです。
 先日、六尺堂のメンバーが文化庁の在外研修でオランダに滞在したときにお世話になった舞台美術家のピーター・デ・キンペさんに来ていただきました。彼はランドスケープデザインもやっていて、幅広い舞台美術の捉え方をする面白い方です。六尺堂を見た後、「僕らの70年代を思い出した。コミュニティをつくっていていいね」と言われた。当時、彼らも社会運動のように色んな奴らが集まって喧々囂々しながら活動していたと聞いて、ぐっとくるものがありました。なんか、時代を逆行してるんですけどね(笑)。

──今、六尺堂のメンバーは何人いるのですか。
 舞台美術が14、15人、舞台監督が7、8人、大道具製作が1人で合わせて20数名です。昔は、舞台美術は徒弟制でしたが、そうではなくて、やりたい人がノウハウを身に付けられて、知りたい人が情報を得られる、いろんな人と出会える場をつくりたいと思っています。

──オリザさんも、才能ある若手演出家に青年団リンクとして自主公演の機会を提供したり、アトリエ春風舎を提供したり、無料の演劇学校「無隣館」を始めるなど、人が育つ場を次々とつくられています。六尺堂にも理事として参画されていますよね。
 オリザさんは本当に耕す人だと思います。青年団リンクや無隣館がいいのは、誰も平田オリザの真似をしないということ。「平田オリザになりたいと思っても、それは意味無いよ」と言い続けていて、だからみんなオリザさんがやったことを土台にして自分の道を歩いている。ハイバイ、サンプル、東京デスロック、ままごともそうですが、東京だけを見ることなく、みんな日本各地、あるいは海外で地域と関わりながらやることを楽しんでいる。青年団を通ったことで、楽しみ方を知っているんです。オリザさんの育て方はすごいと思います。

──最近では、六尺堂のメンバーが劇場設計にも関わるようになっているそうですね。
 アトリエ春風舎の改修が最初で、会議場を改修した滞在施設「城崎国際アートセンター」、越後妻有アートトリエンナーレの拠点として廃校になった中学校を改修した「上郷クローブ座」などがあります。
 「自分たちのできることを、自分たちのできるやり方でやる」というのがこういう仕事の醍醐味だと思うのですが、今の日本は真逆の方向に向かっているような気がします。僕は大学3年の時にネパールのワークキャンプに参加して、自分たちのやり方でやることの大切さに気づかされました。ものすごい山の中の村でポンプを設置して水場から水を引くんですが、ポンプを繋ぐコネクトを買い忘れた。そうしたら、村の人たちは竹でつくって接合したんです。「こんなので良いの? ちゃんとしたパイプでやれば10年もつよ」と話したのですが、「いや、これがローカルテクニックだ。これだったら壊れても直せる」と。これが「生きる力」なんだと思いました。こういうローカルテクニック、生きるための文化を、日本は今失っていると思います。

──六尺堂のある品川のお祭りに参加されたり、商店会と協働した新たな場所をつくるプランもあるとか。
 地域の中に文化のハブをつくるというアイデアをずっと温めています。共通工房のようなものだけでなく、人がそこに集い、「僕らの街ってこういう魅力があるよね」「こういうふうにできるよね」と交感できる場所がつくりたいですね。

──お話をうかがっていると、杉山さんの興味は舞台上の仕事に留まるものではなく、まさに「scene」 「graphic」という状況や場を描くことにあって、その中の一つとして舞台の美術があるというのがよくわかりました。
 そうなんです。だから、オペラであれ演劇であれ、違うことをやっているとは全く思っていないし、街中でやることも劇場でやることも僕にとっては同じ地平にある。この間、アートディレクターの芹沢高志さん(P3 art and environment)から聞いて刺激的だったのが、現代美術のアーティストが美術館のホワイトキューブから脱出したがっているということ。これが僕にとっては劇場のブラックボックスにあたるのですが、僕もどこだって劇場になると考えていて、現代美術のアーティストと同じ活動をしていたんだと思い当たりました。
 バロックのアーティストはそういうことをとっくにやっていて、例えば、イタリアのジャン・ロレンツォ・ベルニーニという人は、ウィキペディアで見ると彫刻家、建築家、画家と紹介されていますが、実は若い頃は相当な舞台美術家として腕を鳴らしていた。つまり、彼は「scene」「graphic」の発想ですべてをやっていたんだと思います。これが僕の理想です。
 人と人をどう出会わせるか、観客と作品をどう出会わせるか、作品自体のテーマとどう出会わせるか、対話と空間との呼応をどうするか、視覚のコントロールをどうするか、すべてが「scene」「graphic」なんです。結局、僕が興味あるのは、人と人がどう繋がって、そこにどう空間造形が関われるのかということ。だから「生身の人間がいる」のがすごく好きなんです。
 
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