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牧 宗孝(MIKEY)
牧 宗孝(MIKEY)
© Hirohisa Aoyagi

東京ゲゲゲイ
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「DANCE DANCE ASIA」東京ゲゲゲイ公演
(c) Dance Dance Asia/Japan Foundation Asia Center
東京ゲゲゲイ
Artist Interview
2015.10.20
dance
MIKEY of Tokyo Gegegay   The quest for absolute release  
抑圧からの解放を目指す 東京ゲゲゲイの牧 宗孝(MIKEY)  
バトルやコンテストなどテクニックを競い合うのではなく、ストリートダンスによる新しい舞台表現の創造を目指した取り組みが注目されている。そのパイオニアが、奇天烈メンタルワールドと称し、見る者を抑圧から解放する演劇的な作品を発表している「東京ゲゲゲイ」だ。そのリーダーが、きゃりーぱみゅぱみゅの振付で知られるMAIKOと組んだ「東京☆キッズ」、子どもたちなども参加した「Vanilla Grotesque」で、独特の美意識に彩られたショーを発表してきたカリスマ・ダンサー、振付家、演出家の牧宗孝(MIKEY)である。国際交流基金アジアセンターの「DANCE DANCE ASIA」にも参加している牧宗孝にその思いを聞いた。
聞き手:石井達朗[舞踊評論家]

──どういうきっかけでダンスを始めたのですか。 子どもの頃、今のダンスにつながるような体験が何かありますか。
 もともとすごい目立ちたがり屋だったんです。とにかく人前で何かをするのが好きで、歌ったり踊ったりしていました。お正月、親戚が集まっている時に子どもが何かやると、お捻り(チップ)をもらえるでしょ。5、6歳の頃だと思うけど、お母さんのワンピースを着て、中森明菜や中山美穂の曲で歌って踊ったのが、私が最初につくったショーです。それが私にとって大切な年1回のイベントになりました。
 後、日本舞踊を少しだけやりました。すごく小さい頃、母親に「踊りやりたい!」と言ったらしく、たまたま近所で教えている方がいて習いに行っていました。それよりすごくのめり込んだのがお囃子で、10年ぐらいやっていました。私が住んでいた立川のお祭りは山車の上に乗ってお囃子、ひょっとこや狐のお面をかぶった踊りをやるんですが、凄く気持ちよかった。
 見てもらって、お捻りもらって、多分ショーガールになりたかったんだと思います(笑)。

──いろいろなダンスジャンルがありますが、その中でストリートダンスに惹かれたのはなぜですか。
 ストリートダンスを意識するようになったのは中学生の頃だったと思います。立川には米軍基地があったので、その頃には黒人が経営するヒップホップのお店ができはじめました。ただそういうお店に通ってそこでダンスをするのはいわゆるヤンキーと呼ばれる不良のお遊びみたいな風潮があって。かっこいいなと憧れてはいたけど、踏み入れることができなかった。
 海外の音楽を聴き始めたのもその頃だったから、マイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソンの真似をして、家でこっそりヒップホップを踊ったりしていました。お母さんのスカーフを巻いて、メイクして(笑)。今思えばその頃から憧れているアーティストは女性だったんですよね。4、5才の時にはスカーフを巻いて踊っても別にどうってことないけど、思春期になるとやっぱりこれって変態的なことかもしれないという気持ちが芽生えて。ラジカセとヘッドフォンを持って屋上に行って、星空を見ながら人知れず踊ったりしてましたねえ(笑)。
 こうやって振り返っていると、いろんなことを思い出して恥ずかしくなってくるけど。子どもの頃、本当に些細な身近なことだけど、私が言い返せなかったことや反論できなかったことを、東京ゲゲゲイのダンスに込めて表現、発散するというのはあるかもしれません。

──家族からはどのように受け止められていたのでしょう。
 両親は『ウチの息子ちょっと変わってるよなぁ』みたいな感じでしたね。唯一、フラダンスをやっていたお祖母ちゃんだけは、『あんたはこういうの好きだからねぇ』って感じで、私のやりたいことに対して凄くサポートしてくれました。だから、お祖母ちゃん子ですよね。
 
──ストリートダンスを誰かに学んだことはありますか。
 実は一度歌手を目指して、19歳の時にあるレコード会社に所属していたことがあります。それまでは歌も踊りも我流だったので、ボイストレーニングとダンスレッスンを受けさせられました。でも、スタジオで基礎からレッスンするというのは何て退屈なんだと。ああしろこうしろって言われるのが嫌だったし、半年で辞めちゃいました(笑)。
 それで20歳になり、ひとりでクラブに行ける歳になって、ただただダンスミュージックを聞きたくて、ダンサーのショーを見たくて、クラブに通うようになりました。そこでヒップホップを踊るようになり、ストリートでも踊り始めました。その頃は、まだ自分がゲイだとカミングアウトしてなかったので、友達と練習している時にもダボダボの服を着て男っぽい振付で。でも本当はこういうのをやりたいんじゃない!って、4年ぐらい悶々としていました。

──それで2005年に「東京☆キッズ」を立ち上げます。
 MAIKOと出会ったのがきっかけです。彼女はゲイカルチャーやボンテージファッションがすごく好きで、そのエキセントリックなセンスに心を打たれて一緒にやりたいと思いました。そうすれば自分をもっと解放できるんじゃないかって。実際、彼女といろいろ作品づくりをする中でどんどん感性が開放されていったんです。それで自分がゲイだとカミングアウトしたら、もうやりたいことが何でもできるような感じになって(笑)、ショーが段々奇抜になっていった。初期のメンバーは5人だったけど、「ついていけないよ」って抜ける子がでて、彼らが「s**t kingz」をつくったんです。
 東京☆キッズは7年ぐらいやって、最後はMAIKOと二人になりましたが、最終的に全部自分でつくりたくなった。子どもの頃からダンススタジオで教えていた子たちのスキルも上がって結構良いダンサーになってきたので、一緒に「東京ゲゲゲイ」を結成しました。彼らは私の好き勝手、わがまま聞いてくれる道連れ。できませんと1回も言われたことがない(笑)。今、MAIKOはきゃりーぱみゅぱみゅの振付などで活躍しています。

──ダンスではいわゆる師匠はいなくて、MIKEYのさまざまな経験から独自の世界観をつくっていったということですが、音楽とか他のジャンルのアーティストで憧れた人はいなかったのですか。
 それはいますね。うまく言えないですが、マイケル・ジャクソンとはシンクロしてるなと思います。ネバーランドとか、彼のあのファンタジーへの思いとか、『わかるぞ!マイケル』って感じで(笑)。勝手にシンクロしちゃうんです。

──東京ゲゲゲイについてお聞きします。衣装、設定、振付とMIKEYの美意識、遊戯的な感覚が満載です。たとえば記念すべき第1作の「東京ゲゲゲイ女学院の誓い」は、セーラー服を着て、清く正しく美しくという女学院をパロディーにしたようなラディカルなダンスを繰り広げます。女学院シリーズは東京ゲゲゲイ定番になっています。専らテクニックを競うストリートダンスに演劇性を持ち込み、ある種の物語的なイメージがあるのが、MIKEYの振付の特徴のひとつになっています。
 私の振付はそれぞれのジャンルを極めている純度の高いダンサーからすると、めちゃめちゃ邪道。それぞれの常識をことごとく壊し、色々なエッセンスを取り入れて混ぜちゃってるから。ゲゲゲイ女学院では、最初のナレーションで「常に汚れ、ふしだらに、醜く、果てしなき芸の道を歩むことを誓います」と宣言していて、私を縛っていた常識やルールをダンスで壊していく快感があります。まあ、芸はカタカナの「ゲイ」かもしれないけど(笑)。

──特に上半身の動きが凄くて、表現力が尋常じゃない。手や首、顔の表情が豊かで、他のストリート系にはないスタイルです。
 ストリート系はどちらかというと足ですけど、ゲゲゲイはやっぱり手なんだと思います。ストリートダンスを始めた頃、レッスンに行った時にある先生から、身体のエネルギーは循環していて足を踏んだことで連動して手が動く。君の場合は下半身が全部死んでるって言われて、じゃあそのまま殺そうって決めた(笑)。山車に乗ってお囃子で踊るとき、移動中ガタガタするから足のステップなんてできないでしょ。だから、基本仁王立ちで立っていないと踊れない。そういう意味では下半身が上半身を支えているのかもしれないですけど。

──今年5月、日本のトップ・ストリートダンサーが一堂に会した舞台作品「*ASTERISK(アスタリスク)」をMIKEYが総合演出しました。『女神の光』というタイトルで、ストーリーラインとビジュアルが上手く融合した素晴らしい作品でした。これはどういう発想から生まれのですか。
 映画『フラッシュ・ダンス』や『ショーガール』のようにダンスがベースになっているストーリーをつくろうと思いました。それと、キッズダンサーがすごく増えている今の時代だったら、やっぱりいろいろあるステージママの存在はずせないから、登場させようと(笑)。実はタイトルの女神は、宇多田ヒカルがお母さんの藤圭子への複雑な思いを込めてつくった『嵐の女神』からもらいました。母親を女神に例えるのはありかなと思って。二人へのオマージュでもあります。

──大勢のトップダンサーがキャスティングされていたので、さぞかし創作プロセスは大変だったのではないでしょうか。
 このプロジェクトが決まった時点で、キャスティングにはこだわりたいと思いました。それで、私と繋がりのある先輩や友達に声をかけてもらったので、出演者54名のほとんどが知り合いです。最初に何となく軸になるストーリーをみんなで共有して、シーンのプロットがある程度出来たところで、プロの作曲家をパートナーにして先に音楽をガンガンつくっていきました。音楽を志していたときには作詞作曲もしていたので、そのシーンでは誰が踊るのか、そのダンサーが好きな音楽はどんなものかを動画でリサーチして、そのダンサーがより輝くようにするにはどういう音楽が良いかをプログラムしていきました。
 振付は何十ものシーンを20ユニットに分けてつくり、各ユニットにごとに稽古をする。それで、私は各ユニットがパーツをつくっているスタジオを移動しながら振付するからめちゃくちゃ大変でした。最後にそれらのシーンをパズルのようにはめていきました。1カ月前から全体リハーサルを始めましたが、なかなか全員揃わなくて。だから出演者たちは通しになってはじめて全体像がわかったんじゃないでしょうか。この企画だけに、7カ月間没頭しました。

──作品を見たら、それぐらいの時間と労力をかけたことがよくわかります。MIKEYの舞台は、空間のビジュアル感覚と時間感覚のつかみ方がすごくうまいと感じます。
 作品をつくる上で“絵”は大切にしています。最初にこういう衣裳で、ここにダンサーがいて、この音がきっかけで絵がこう展開するなど、ダンスの構成やフォーメーションをビジュアルとして捉えています。自分の世界観をトータルに舞台で表現していきたいと、最初から思っていました。『女神の光』は、ある意味夢が叶ったというか、これまでやってきたことの集大成だと思います。

──個人的には、出演していた女性2人の高校生ユニット「LUCIFER」がすごく気に入りました。ああいう人たちが日本にいるなんてビックリしました。
 すごく嬉しいです。彼女たちは17歳くらいで、スキルを競うバトルやコンテストでずっと踊っていた。私は初めて彼女たちのダンスを見た時に、あの若さでここまで踊れる子がいるんだったら、自分は別にダンスしなくていいや、と思ったくらい衝撃でした。若いフレッシュな才能を入れたくてLUCIFERに出演してもらいました。

──この企画はパルコの中西幸子さんがプロデューサーですが、中西さんとの出会いは?
 私が台湾にいる時に、中西さんが訪ねてきてオファーされました。中西さんは私が2012年まで主宰していたダンスカンパニー「Vanilla Grotesque」の『護美屋敷(ごみやしき)』を見てくださっていて。その時の衣裳は全部廃品で、何千個もの空き缶のプルタブをへアンピンで繋いだり、ティッシュでつくったお花を全身に飾って「マイ・フェアレディ」みたいなドレスにしたり(笑)。予算が無かったから想像力を駆使した結果ですが、これはドラッグクイーンの世界で言う“チープゴージャス”だとゲイの先輩に教えてもらいました。
 中西さんはその頃から一緒にやりませんかと誘ってくださっていたそうですが、記憶にないんですよね。2014年の「*ASTERISK」公演にVanilla Grotesqueとして出演した時、稽古場で中西さんが居残ってゴミを片付けていた姿が亡くなったお祖母ちゃんのイメージと重なって。お祖母ちゃんが言うんだったら、ということでお受けしました(笑)。

──2015年は国際交流基金アジアセンターの新しい事業「DANCE DANCE ASIA(DDA)」が本格的に始まりました。ストリートダンスをキーワードに活動するダンスグループ/ダンサーの東南アジア域内の交流と共同制作を支援するプロジェクトで、今年、日本から12団体が東南アジア5カ国に派遣されました。MIKEYはどこに行きましたか。
 マニラとバンコクです。どちらも初めてでしたが、裸足で食べ物をちょうだいと言ってくる子どもたちがいて。この貧富の差はカルチャーショックでした。私はとにかく子どもが好きで、マニラでは路地裏みたいな所にみんなで行って、子どもたちと遊びました。ダンスの振付を教えたら、みんなノリノリでやってくれてすごく歓迎された気がしました。

──マニラやバンコクでの反応はいかがでしたか。
 先入観抜きで、ショーに対して本当に素直に湧いてくれて、ストレートに伝わっている感じがやっていて面白かった。東京だと、出てきただけで「ヤバーイ」とか。『まだ何もやってないのに、板付きだけで何がヤバイんだ』って思うんですけど(笑)。
 マニラではできなかったのですが、バンコクでは子どもたちと一緒にステージに立ちたいと思って中西さんにお願いしました。クロントイというタイで一番大きいスラム街の子どもたち30人ぐらいと練習して。交流基金の方に、もしかすると途中で帰っちゃうとか、次の練習に来ないこともありえますよと言われたけど、みんな毎日来てくれました。むしろ早く集まって自主練習したり、何人かは将来ダンサーになるのが夢になったと言う子もいて、良かったなと思っています。ちなみにDDA東京公演ではフィリピン生まれのハーフの子がダンサーとして参加します。身体能力が凄いですよ。

──近年、ストリートダンスのいろいろな協会ができたり、ストリートダンス(現代的なリズムダンス)を含むダンスが小中学校で義務教育化されるなど、環境が大きく変わっています。こうした環境の変化をどのように感じていますか。
 ダンススタジオの数が増えて、ダンスを習いたいという子どもたちも増えています。私もスタジオレッスンをしていた時期がありますが、生徒に自分の振付を簡単にできるように変換して伝える作業をしていると、自分がだんだん単純化していく感覚があり、最終的に自分が考えていた振付とは別物になっている。それが凄く嫌で、やらなくなりました。単発でワークショップをやることはありますが、それもみんなで振付をシェアしましょうという感じで、私の振付を変えてもいいし、みんなでパーティみたいに盛り上がればいいという感じでやっています。おにぎり屋さんでバイトしながらショーに出ていた時期もありますが、今ではインターネットで映像を見て、海外からオファーが来ますし、環境は変わったと思います。
 この前、中高生のダンス部の全国大会にゲスト参加したのですが、ダンスをやっている子がみんな良い子なんです。爽やかに、フレッシュに、「イェー!」って感じで。中には違うタイプの子もいるんでしょうけど。子どもたちの世界は学校か家庭か、みたいな感じで凄く狭い。でもダンスをすることで、コミュニティが広がって、大人になったら色んな人がいるよという、彼らにとってそういう存在になれたらいいなと思います。ダンスが学校教育の必修になったことについては懐疑的ですが、でも、好きになる子は追求するだろうし、本当のことを知りたいと思うはずだから、その窓口がちょっと広がったとすれば良かったんじゃないかと思っています。

──最後に、今後の活動で考えていることはありますか。
 来年はゲゲゲイとして何か面白いことがやりたいと思っています。ひとつのお化け屋敷みたいな、アトラクション的な舞台ができたらいいなと‥‥。

──いや、ゲゲゲイだけで既にお化け屋敷的なものが十分ありますけど(笑)。
 ですよね(笑)。できれば廃校とか使って、いろいろな部屋でショータイムがあって、お客さんが移動するツアーパフォーマンスのようなものができればと。音楽室からスタートする人もいれば、美術室からスタートする人もいて、最終的に体育館に集まってショーをみる。小学6年生の夏休みに、私がリーダーになって児童館にお化け屋敷をつくり、地域の子どもたちが遊びに来るという企画をプロデュースしたことがあります。館内のスペースを段ボールで区切って、ここで口裂け女が出るとか。子どもたちが入って来て、キャーキャー言っている時の快感たるや。それが私の原点だと思っていて、お化け屋敷プラスダンスショーを絶対やりたいと思っています。
DANCE DANCE ASIA - Crossing the Movementsについて
中西幸子インタビュー(聞き手:PANJ編集部)


──「DANCE DANCE ASIA(DDA)- Crossing the Movements」は国際交流基金アジアセンターとパルコの共同企画・主催事業です。中西さんはPARCOでストリートダンスを取り上げた仕掛け人で、今回のDDAのプロデューサーです。そもそもどのような問題意識があってストリートダンスを取り上げたのですか。
 2007年頃、フランスの国立劇団コメディ・フランセーズの役者から「ロミオとジュリエット」のストリートダンス版を勧められて見に行ったのがきっかけです。私はストリートダンスに全く興味がなかったので何の期待もしていなかったのですが、ダンスもキチンとやっていて魅せるし、かっこいいし、ステージもスタイリッシュで感心しました。何より客席に熱気があった。クラシックの音楽に合わせて踊っていたのが凄く斬新で、私のようにストリートダンスに偏見がある人が見ても面白かった。観客層は10代の若者から高齢者まで実に多様で、自分の経験に照らしてそれぞれが楽しんでいた。こういうパフォーマンスの流れを日本にも持ってきたいと思いました。

──その頃の日本のストリートダンスはどのような状況だったのですか。
 舞台作品をつくっていたのは、WRECKING CREW ORCHESTRA(レッキンクルーオーケストラ)やDAZZLEなどほんの一握りで、バトルやコンテストといったテクニックを競い合うイベントが主流でした。ヨーロッパではコンテンポラリーダンスとストリートダンスが上手く融合した面白い作品をつくっているという話をしても、ストリートの人は「コンテンポラリーってみんな踊れないでしょ」、コンテンポラリーの人は「クルクル回っているだけで表現力がない」とお互いに敬遠し合って作品をつくるのが難しい状況でした。

──そんな中、2013年に中パルコがプロデュースし、ストリートダンスのダンサーたちが集結するダンスエンターテイメント「*ASTERISK」が東京国際フォーラムで上演されます。8団体121人が出演し、DAZZLEの長谷川達也が演出、飯塚浩一郎が脚本を担当しました。
 そうです。2012年からDAZZLE、梅棒の舞台公演も制作しました。まだまだ作品力を磨く必要はありますが、「*ASTERISK」ではひたむきにダンスをするエネルギー溢れる若者たちが集まってくれました。まさに80年代の小劇場演劇ブームの噴火直前のマグマのようでした。そこには、普段劇場に足を運ばないような若い観客が沢山来てくれました。ちょうど国際交流基金アジアセンターが立ち上がるという話があり、共同事業が決定しました。東南アジアではストリートダンスがとても盛んで、アジア域内の交流と共同制作による舞台公演ができれば意義があるのではないかということで、方向性が一致しました。

──東南アジアの状況について、事前調査などは行われましたか。
 これまで5カ国に事前調査に行きました。現地のオピニオンリーダーにヒアリングし、技術や制作の打ち合わせをしました。実際にパフォーマンスも見ました。ベトナムは例外で、ドイツ文化センター、アンスティチュ・フランセなどがサポートし、現地のドイツ人、フランス人演出家とハノイのダンサーで舞台作品づくりの実績がありましたが、ほとんどの国は日本と同じでバトルなどのイベントが主流です。

──DDAについて具体的に紹介してください。
 DDAはストリートダンスでアジアを繋ぐことを目的として、2020年まで行われる大型プロジェクトです。その第1弾は、2015年1月〜3月に日本の最先端のストリートダンスグループを東南アジア4カ国(フィリピン・マニラ、マレーシア・クアラルンプール、ベトナム・ハノイ、タイ・バンコク)に派遣しました。8月の第2弾はインドネシア・ジャカルタを訪れました。1カ国3グループずつ、全12グループ(*1)が各地で公演とワークショップを行いました。
 現地での交流の模様はドキュメンタリームービーにして、公開しています(*2)。DDAで派遣されたダンサーたちにその国を知ってもらうと同時に、こうした映像を通じて、ストリートダンスをきっかけに東南アジアについて興味を持ってもらいたいです。
*1 90’s、BLUE TOKYO、Memorable Moment、Moreno Funk Sixers、PECKLESS、Ped Print、s**t kingz(シットキグス)、TAPDANCERIZE、タイムマシーン、東京ゲゲゲイ、梅棒、WRECKING CREW ORCHESTRA

──現地の参加者の様子をお聞かせください。
 ワークショップは、現地の国際交流基金の事務所がパートナーとなり、各国の状況や派遣するグループに応じて交流相手をコーディネートしています。ストリートダンスの上級者、子どもたちなど対象はさまざまです。
 バンコクで東京ゲゲゲイのワークショップに参加した中高生4人の男子は、髪の毛の先から爪先までエネルギーが満ち溢れたダンスをする子たちで驚きました。ジャカルタのワークショップに参加した若者たちも「ダンスで表現したい!」というピュアなエネルギーに満ちていて、凄かったです。

──DDAの今後の予定は?
 今年10月には、東南アジアに派遣したグループを中心に、フィリピン、ベトナム、タイから招聘したグループによる東京公演を世田谷パブリックシアターで行います。また、11月には日本と東南アジアの90年代生まれのダンサー16人による特別舞台公演「A Frame」を発表します。演出はs**t kingzのoguri、ジャネット・ジャクソンのバックダンサーや振付もしたアメリカのダンサー・振付家であるジリアン・メイヤーズ、そしてコンドルズのメンバーでもあるスズキ拓朗の3人です。東南アジアや日本のアーティストを紹介していくだけでなく、実際のクリエイションを通じて交流を続けていきたいと思っています。
 
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