The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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北川フラム
撮影:大河内禎
Profile
北川フラム(きたがわ・ふらむ)
アートフロントギャラリー主宰、越後妻有アートトリエンナーレ総合ディレクター、地中美術館総合ディレクター、女子美術大学教授、新潟市美術館館長など

1946年新潟県生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。1960年代に大学を席巻した激しい学生運動に関わる。在学中に仲間と共に渋谷にアトリエを開設。卒業後はそこを拠点に、仲間とともにポスター制作、内装工事などを生業にしながら美術・出版・音楽・建築など芸術ジャンルを横断した活動により社会と向き合う。

1979年、渋谷に版画企画ギャラリーとしてアートフロントを開設(1984年に現在の代官山ヒルサイドテラスに移り、アートショップと企画画廊開設)。1980年に出版社・現代企画室を引き継ぎ、現在までに美術・建築・社会科学関係の出版物を300冊以上発行するなど、言論活動を積極的に行う。

展覧会としては、全国11カ所を巡回し、日本に初めて本格的にガウディを紹介した「ガウディ展」(1978年)、全国の小・中学校を中心に巡回した「子どものための版画展」(1980年)、全国194カ所を巡回した「アパルトヘイト否!国際美術展」(1988年)などをプロデュースし、美術館の中に留まらない社会的な美術のあり方を提案。

また、都市・建築・まちづくりにおけるアートプロジェクトも多数手がけ、再開発エリアでパブリックアートを展開した「ファーレ立川アート計画」(94年度日本都市計画学会計画設計賞受賞)、過疎地域の課題と向き合った「大地の芸術祭〜越後妻有アートトリエンナーレ」(2001年ふるさとイベント大賞グランプリ(総務大臣表彰))などを次々と仕掛け、地域におけるアートプロジェクトのパイオニアとして活躍。北川フラムの40年にわたる活動を集大成した「希望の美術・協働の夢」(発行:角川学芸出版)は同時代の芸術運動の記録として貴重な一冊となっている。この他、出版物、受賞歴多数。2007年度国際交流基金「国際交流奨励賞『文化芸術交流賞』」受賞
http://www.artfront.co.jp/jp/
大地の芸術祭
越後妻有におけるアートプロジェクトの経緯と特徴
越後妻有は、東京から電車で約2時間、新潟県南端に位置する十日町市(2005年に6市町村が合併)と津南町からなる農山村地域。東京23区より広い760平方キロメートルの面積に約7万3,000人しか居住していない超過疎地域。新潟県が提唱した「ニューにいがた里創プラン」に則り、アートを媒介にして地域の魅力を引き出し、交流人口の拡大を図る10カ年計画「越後妻有アートネックレス整備構想」が1998年からスタート。その中核事業として「越後妻有アートトリエンナーレ〜大地の芸術祭」が企画され、2000年に第1回を開催。併せて、まつだい雪国農耕文化センター「農舞台」、森の学校「キョロロ」、越後妻有交流館「キナーレ」などの個性的な交流拠点施設の整備が行われた。

「大地の芸術祭」の最大の特徴は、国内外のアーティストが越後妻有に中長期にわたって滞在し、そこでしかつくれないサイトスペシフィックな作品を集落住民などとの協働によって創作していることと、制作や芸術祭の運営に美術大学の学生を中心とした「こへび隊」や社会参加意欲の高い市民のサポーターが多数協力していること。第3回(2006年)までで公募作家、招待作家合わせて約520組のアーティストが越後妻有で活動を行い、恒久設置作品として約165点を地域に残している。また、人が住まなくなった古い民家や廃校の活用に力を入れているのも大きな特徴となっている。古民家を改装した宿泊もできるマリーナ・アブラモヴィッチの作品『夢の家』、旧東川小学校全体を作品にしたクリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン『最後の教室』、日大芸術学部彫刻コース有志が古民家の内部を隅々まで彫刻した『脱皮する家』ほか、多くの廃屋が作品、美術館、宿泊機能をもったアートスペースなどとして甦った。県の10カ年計画の終了後も越後妻有のプロジェクトを継続するため、2008年に新たな運営組織としてNPO法人越後妻有里山協働機構を設立。

第4回となる2009年は、新たに約200組のアーティストが参加し、新旧あわせて約370点の作品を展開する。大学などとも連携して越後妻有に残された13の廃校すべての再生に取り組む廃校プロジェクト、アントニー・ゴームリーなどの国際的なアーティストも参加した空き家プロジェクト、里山を舞台にしたサイトスペシフィックな野外アートプロジェクト、越後妻有を舞台にした新作映画上映や舞台公演なども行われる。また、海外との連携も強化し、オーストラリア・ハウスと北東アジア芸術村といったアーティストのレジデンス施設の整備にも取り組む。


第4回大地の芸術祭〜越後妻有アートトリエンナーレ2009
[会期]2009年7月26日〜9月13日
[会場]新潟県越後妻有地域(十日町市、津南町)
[主催]大地の芸術祭実行委員会(実行委員長:関口芳史十日町市長)
[共催]NPO法人越後妻有里山協働機構
[総合プロデューサー]福武總一郎
[総合ディレクター]北川フラム
[アートアドバイザー]トニー・ボンド、トム・フィンケルパール、ウルリッヒ・シュナイダー、入澤ユカ、中原佑介
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/index.html
大地の芸術祭
Presenter Interview
2009.8.13
Art bringing hope to Echigo-Tsumari  The ongoing journey of Fram Kitagawa 
アートで越後妻有に希望を 北川フラムの大いなる旅 
日本は今、現代アートによる地域再生の取り組みが全国各地で次々に行われ、世界に類を見ない状況となっている。そのきっかけとなったのが、過疎高齢化に悩む新潟県の越後妻有地域で2000年にスタートした「大地の芸術祭〜越後妻有アートトリエンナーレ」だ。これは、東京都23区よりも広い760平方キロメートルという農山村地域を舞台に、アーティスト、集落住民、サポーターの協働により行われている一大プロジェクトで、今ではそのエリアに多数の恒久設置作品が点在し、空き家や廃校がアートスペースとして甦るなど、アートが地域再生の希望となっている。
全国各地でアートNPOが活動を始めたこと、美術大学と美大生によるフィールドワークが活発に行われるようになったこと、芸術文化による地域づくりを自治体や企業が財政的に支援し始めたことなどにより、こうした取り組みはこの10年で全国に飛び火。離島や過疎地域から都市部に至るまで、各地で大小さまざまなアート・プロジェクトが行われ、百花繚乱の様相を呈している。そのアートによる地域再生のパイオニアであり、各地でさまざまなアートプロジェクトを立ち上げてきたのが、越後妻有の仕掛け人であるアートディレクターの北川フラム氏だ。
戦後の日本の芸術運動は、1950年代〜70年代初めに大学生だった全学連・全共闘世代のアーティストや文化人によって牽引されてきた。現在はこうした人々が大学で教鞭を執り、公立文化施設の芸術監督や館長になり、企業のメセナ活動を推進し、アートプロジェクトのディレクターになるなど、責任ある立場に就きながら、草の根的な視点を失わない芸術による新たな社会運動を展開している。北川氏もそうしたキーパーソンのひとりだ。第4回「大地の芸術祭」の開幕を前に、越後妻有の現状や新たにスタートする「水と土の芸術祭」「水都大阪」の試み、およびこうした“アートによる希望の地域づくり”にかける思いを聞いた。

(聞き手:坪池栄子)


越後妻有への思い
 
──いよいよ「第4回大地の芸術祭〜越後妻有アートトリエンナーレ2009」が開幕します。私は第1回から現地を取材していますが、この間の越後妻有の変貌には本当に驚かされます。第1回の時は、過疎地域に「こへび隊」という若者たちのサポーターが入るというので取材したのですが、「コンテンポラリー・アートって何?」というおじいちゃん、おばあちゃんを彼らが説得するところから始まった。中核施設も整備される前で、予定地の空き地にテントを張って、野外インスタレーションを展開し、廃校の体育館に貸布団を持ち込んでサポーターが寝泊まりしていた。
 2回目には中核施設も建設されましたが、集落の人たちがアーティストと一緒に汗を流した一連の作品が生まれ、身体の奥底に眠っていた原始的な力が呼び覚まされるようで感動しました。途中、この一帯は大地震と集中豪雨で甚大な被害を受けましたが、縁のできた人たちがその復旧にも協力し、集落の年中行事にも参加するようになるなど交流が深まった。
 そして3回目には、地域再生のシンボルとして空き家や廃校を甦らせるプロジェクトが本格的にスタート。越後妻有はまるでアートヴィレッジのような新たな段階に突入しています。たった10年で、色々な人たちが過疎高齢化の地域と多様な関わり方をするようになった。本当にすごいことだと思います(大地の芸術祭の経緯についてはデータ欄参照)。

 越後妻有は、冬は豪雪、夏は高温、全く平地がないので棚田や瀬替え(蛇行している川の流れを真っ直ぐにして屈曲部を水田などの耕地にすること)で猛烈な苦労をして知恵を絞りながら農業を行ってきた地域です。しかし、30年ほど前から日本は極端な効率第一主義になり、山の中で農業をやる非効率、除雪が不可欠のこういう地域に住む非効率が取りざたされるようになった。国の減反政策のなかでお米をつくるのを辞めればお金をあげるよ、町に移住すればお金をあげるよと言われたわけです。
 今そこにある集落は、先祖代々からの独自の生活をもち、独自の時間を過ごしてきているのに、効率が悪いと誰が決められるのか。そこで生活をしていることは必然なのに、それを他の誰かが啓蒙するなんてことはあり得ない。これまで頑張ってきた人たちに選ぶ権利もないのかと腹が立ちました。それで、今までここでやってきたことは重要な営みだったということを言祝ごうと思いました。アートは、歴史や生活を非常にわかりやすく見せる仕掛けになり得るし、「地域の発見」に役立つと考えたわけです。
 でも、この地域の農業や自然の問題をどうにかしようなどと思ったことはない。そんなことで政治的に絡め取られると立ちゆかなくなるし、アートにそんな力はない。僕が考えたのは、おじいちゃん、おばあちゃんがそこで亡くなりたいと思っているならばそれを支えよう、生きている間できるだけ楽しい日々を送ってもらうためにアートに何ができるだろう、ということです。それと、この地域全体が元気であることが重要だと思った。地域と都市がどういうふうにキャッチボールをしていけばここを持ち堪えられるのか、という展望をもちたいと考えました。
 アートは身体、五感、感性と近いところにあるので、自然と人間、文明と人間の距離を直感的に的確にとらえてきた。また、人間ひとりひとりが違うということの本当の表れでもあります。越後妻有でその力を働かせることができなければ、アートとはいった何だったのだろうと問い直されることにもなる。アートに携わってきた僕たちとしては、そういうことも含めて、もう一度、人間の身体や生理に立ち帰り、越後妻有の中で色々と発見していくことがアートにとっても大きな希望に繋がるかもしれないと思いました。それが大地の芸術祭の出発点です。
 明治になって、日本の政府は美術の枠から僕たちが生活の中で親しんできたお祭り、食べ物、庭、床の間などの管理、展示、マニュアル化できないものを落としてきた。それが現代アートの貧しさに繋がっている。越後妻有ではそうしたものを全部含めて、ウイングを広げようと動きました。そして、人間がどうやって水と関わり、土と親しみ、手業、認識、文化、芸術をつくってきたのかに分け入って、その来し方をもう一度見れば、(僕たちが生きていくための)大きなヒントが見つかるのではないかと考えました。

──当初は大変な反対にあいました。
 官費でアートなんて冗談じゃないとか、こんな田舎にアートが何の役に立つのかとか、もうすさまじい反対にあいました。4年半で2000回も説明会を開きましたから。それでも、7月25日の第1回芸術祭の開幕がオーソライズされたのは6月15日です。官費がでなくてもやるつもりで準備をしていたのでできましたが、本当に大変でした。
 でも他者の土地にモノをつくろうとするわけだから、軋轢が生まれるのは当然です。それを乗り越えようとキャッチボールをする中で、アーティストがおじいちゃん、おばあちゃんたちに「すごいことをやってきたんだね」と敬意をもってものをつくっているのが伝わり、サポーターやアーティストが困っているのを見かねて集落の人たちが手伝うようになった。みんなお百姓(色々な仕事をこなす技術をもった人)だから手がきくんです。手伝えばそれは自分たちのプロジェクトになっていく。人が来るとうれしくて、作品について、土地について、家族について語り出した。
 いわばアートは赤ん坊のようなもので、何も働かないし、手がかかる。それをみんなで見守りながら関わっていくうちに、コミュニケーションが成り立つようになった。人が減ってできなくなったお祭りを他者が関わることによって新しくつくり出しているようなものです。軋轢を乗り越えるには膨大なエネルギーが必要ですが、そのエネルギーでこの地域は元気になったのだと思います。
 今にして思えば、最初から理解者と一緒にやるのではなく、色んな壁が立ちはだかっている中で、アーティスト、集落、サポーターの「協働」が生まれたことがものすごく重要だった。それによって越後妻有のパブリックの概念が新しく変わり始めたと感じています。
 
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