The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ミア・ユー
ミア・ユー Mia Yoo
photo by Theo Cote
ラ・ママ実験劇場
La MaMa Experimental Theatre Club
ラ・ママ実験劇場 http://lamama.org/
*ブルーマン・グループ
1987年に長年友人だったマット・ゴールドマン、フィル・スタントン、クリス・ウィンクによって結成されたパフォーマンス・グループ。顔を真っ青に塗った三人のブルーマンが音楽やマイムなどによるヴィジュアルでクリエイティブなパフォーマンスを展開する。当初はストリート・パフォーマンス等を行っていたが、1991年にラ・ママで上演した『TUBES』でブレークし、同年、ニューヨークのアスター・プレイス劇場に進出。以来、ロングランを続け、世界各国で公演を行う。
Presenter Interview
2018.6.12
La MaMa Experimental Theatre Club Artistic Director Mia Yoo 
ラ・ママ実験劇場 新芸術監督ミア・ユー 
ニューヨーク演劇界の伝説的存在となったエレン・スチュワートにより1961年に開設されたラ・ママ実験劇場。たった収容人数25人の極小空間から出発し、今では4つの建物を所持するまでに発展。2011年に逝去したエレンの後継者として多彩な事業を展開している新芸術監督ミア・ユーに事業を支えるラ・ママの精神について聞いた。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──ラ・ママ実験劇場(La MaMa Experimental Theatre Club)は、のちにニューヨーク演劇界の伝説的存在となるエレン・スチュワートにより1961年に創設されました。当初、イースト9丁目321番地に誕生したのは、たった25人しか収容しない極小空間。アフリカ系米国人女性であるエレンがアーティストたちのために「表現の場」提供することは容易ではなく、所謂ブロードウェイの劇場以外の施設で観客にパフォーマンス上演するための法律など当時の社会はこの新しい動きを受け入れる体制が整っていませんでした。そこで、エレンは、この環境下でどうすればアーティストたちのために「表現の場」継続していくことができるのかと知恵を巡らせ応援してくれる人たちの知恵も借り、「カフェ」という形態でラ・ママを継続していく術を考えました。こうすることにより、観客からコーヒー代として徴収し、アーティストたちに少しでも生活していくためのお金を分配することができたのです。半世紀以上が経ち、今ではラ・ママ実験劇場は4つの建物を所持する組織にまで成長しています。まずはハード面でのラ・ママの歴史的変遷を教えてください。
 60年代当時、イースト9丁目321番地に建つアパートには、ほぼ白人居住者で、エレンに地下スペースを賃貸することを好ましく思わない人は多かったようです。白人男性(アーティストたち)が入れ替わり立ち替わり建物を訪れたため、エレンが売春宿を経営すると思った人が、あるとき健康局に通報したそうです。ただ幸運にも様子を見に来た局員がパフォーマーで、エレンにカフェとして経営してはとアドバイスをしてくれました。そうして「カフェ・ラ・ママ」がオープンすることになったわけです。
 2年後に、ラ・ママは土地使用制限法違反のため、2番街82番地に移転しました。この場所で「カフェ・ラ・ママ」は「ラ・ママ実験劇場」と改名して再始動します。とはいえたった1年後には、今度は建築法違反により、この建物も追い出されることになり、数ブロック先の2番街122番地に移転します。そしてこの3番目の空間の賃貸契約満期を迎えた1968年に、ラ・ママは現在の本拠地であるイースト東4丁目74番地の建物を、フォード財団やロックフェラー財団などからの助成金をもとに購入します。
 この建物の1階 にまず、現在では「ザ・ファーストフロア・シアター(元ラ・ママ・レパートリー・シアター)」と呼ばれる小劇場がオープンしました。その後、2階にキャバレー空間のような「クラブ」が建設され、3階にはリハーサル空間がつくられました。また最上階には、エレンが実際に住んでいたアパートがありました。同じ通りの66番地にあるビル……、いま私たちがインタビューのためにいるこの建物ですが、ここにはエレン・スチュワート・シアター、創世期からラ・ママの公演資料などすべてを所蔵する資料館、2年前に新しく創設した地下劇場、私たちスタッフのオフィス、そして訪問するアーティストのための宿泊施設があります。
 またワンブロック南のグレイト・ジョーンズ通りには、リハーサル・スタジオ、テクノロジー・スタジオなどがある6階建てのビルを所有しています。さらに1丁目にも、もうひとつビルを所有しています。そこの1階は「HOWL! ARTS」というNPO芸術団体にアート・ギャラリーとして貸し出しています。地下階には、ダンススタジオがあります。つまりすべて合わせて、現在のラ・ママは約8万8,000平方フィート(8,175m²)の広大な敷地を所有しているわけです。しかも1丁目の建物以外は、19世紀に建てられたもので、老朽化していることもあり、いま数年がかりで修繕・改装工事を進めているところなんです。
 エレンは「いまあるもので実行する」というモットーを掲げ、常に「いまこの瞬間」に生きてきました。ただ芸術的衝動に突き動かされて工夫をしながら邁進してきた。またそのモットーがあったからこそ、ラ・ママは現在まで続いて来たのだと思います。ただ、使っていれば古くなりますが、限られ資金の中で施設への設備投資は大変で、言わば「バンドエイド処置」の域を出ない対応でした。エレンの存命中は「ラ・ママはエレンで、エレンがラ・ママ」でした。彼女がそうしたいと思ったなら、劇場を燃やしたって誰も文句は言いませんでした。でもエレン亡きいま(2011年逝去)、この劇場はたったひとりの人間のものではなくなりました。残された私たちには、この劇場を次世代に受け継ぐ義務がある。そのためにも改装工事は必須なんです。

──1960年代のニューヨークには小劇場群が一斉に誕生し、いわゆる「オフ・オフ・ブロードウェイ演劇運動」が台頭しました。ラ・ママ実験劇場はその中心的存在で、他にもカフェ・チーノ、ジャドソン詩人劇場、シアター・ジェネシス等が創設されました。ただそれら黎明期の小劇場集団で現存するのはラ・ママだけです。なぜ、ラ・ママだけが生き残ったのだと思いますか。
 いくつか理由は挙げられます。一つはラ・ママの「高い適応力」にあるでしょう。エレンは常に周りで起きていることを敏感に察知し、その空気感を作品に落とし込むことができました。だからこそラ・ママは時代精神を反映する劇場として、いつの時代も最先端の地元や海外のアーティストたちとコラボレーションをしてきたのです。
 もうひとつ理由として挙げられるのは、地元コミュニティとの密接な関係です。私たちの「コミュニティ」という定義は、ラ・ママを愛し応援してくださるアーティストたちや舞台に携わる関係者やお客さま方です。エレンは常々世界中にはラ・ママ・ファミリーがたくさんいると言っていました。この劇場は、これらの人たちにより支えられ、またアーティストたちと共存しながら生きてきている。だから沈まない。劇場が何度移転しても、私たちの仲間と呼べるアーティストたちはついて来てくれると言っていました。いまだにラ・ママの観客の約7割は「アーティスト」と名乗る人たちです。つまりラ・ママは、アーティストのための「ホーム」として機能することで存在し続けてきたのです。
 ちなみにいまラ・ママが建つイースト4丁目通りは、実に15団体以上もの芸術関連組織の本拠地となっています。この66番地のビルは、ニューヨーク市の持ちものだったのですが、2005年にこの地域一帯は、当時のニューヨーク市長マイケル・ブルームバーグにより「4丁目アートブロック」 というニューヨーク市文化区画に指定されました。そのとき私たち芸術団体は、市から劇場を購入しました。賃貸契約から解放されたのは、本当に大きな幸運でした。一方で市の所有物ではなくなったため建物にまつわるすべての修繕・修理費は自らが負担しなければならないのでビルにかかる維持費も大変なのは事実です。

──現在、ラ・ママ実験劇場では、年間60から70もの作品が発表されています。しかも、そのほとんどは世界初演作。他所で成功したものを招聘上演したがる劇場とは、全く異なる方針が掲げられていることがわかります。その成果が評価されて、2018年のトニー賞では「地域劇場賞」を受賞されました。
 私がよく言うのは「アーティストと崖から飛び降りる覚悟」で、世界初演作を上演しているということ。それくらい未知数のアーティストに私たちは賭けている。だからほとんどの場合、初日前夜まで作品がどうなるのか見当がつかない。例えば事前に「上演時間を教えてください」という問い合わせをもらっても、おおまかな時間をお伝えすることしかできないんです。新人アーティストであれ、成功した中堅アーティストであれ、なにかアーティストが「実験したい」と思ったときに手を差し伸べるのがラ・ママです。またそうしたリスクを背負ってきたからこそ、いまのラ・ママがあるのだと思います。エレンだって、目の前に突如現れた若者たちが、20年後にフィリップ・グラスやサム・シェパードやハーヴィ・ファイアスタインになるなんていう思いがあって彼らと付きあっていたわけではないですからね。そういえば元アジアン・カルチュラル・カウンシル理事であり、ラ・ママの国際関連プロジェクトの熱心な支援者であったリチャード・S・レニァは、ラ・ママ実験劇場45周年記念イベントで、面白いことをおっしゃいました。「この劇場では世界が一変するほど素晴らしい作品にも巡り会ったし、信じられないほど退屈な駄作も目にした」って(笑)。

──ラ・ママは「劇作家のための劇場」という指針で始動しました。そしてサム・シェパード、ランフォード・ウィルソン、エイドリアン・ケネディなどの、数々の名劇作家を輩出した。ただ翌1962年にはすでに、韓国の人形劇団を招聘し、言語を超えた演劇に興味を持つようになっていきます。1991年にラ・ママで初演された「ブルーマン・グループ」(*)の『TUBES』は非言語演劇の一例と言えるかもしれません。
 エレンは常に、言語を超越する舞台芸術表現に魅入られていました。彼女は「どの国の人とも舞台芸術を通して対話すること」を目指して視覚及び音楽的要素が強い作品に興味を抱きました。そのひとつが人形劇です。人形という物体を通じて対話する魔法に魅せられたエレンは、世界中から実験的な人形劇集団を招聘するようになっていった。その伝統を受け継ぎ、いまでも私たちは「ラ・ママ パペット・シリーズ」というフェスティバルを隔年開催しています。日本からも2015年に、五代目家元西川古柳率いる八王子車人形劇団「西川古柳座」が参加してくださいました。

──日本人アーティストとの縁が深いのも、ラ・ママの特徴のひとつです。例えば1970年には、東由多加率いる東京キッドブラザースの『黄金バッド』と、寺山修司率いる天井桟敷の『毛皮のマリー』が立て続けに上演されています。同年10月には、東京キッドブラザースの『Coney Island Play』も上演されました。その後も、日本人アーティストたちとの関係は継続していったのでしょうか。
 現在に至るまで70を超える日本人アーティストの方々の作品を上演しており、応援してくださっています。ラ・ママでの最初の日本人アーティストは、画家・シーナリーデザイナーの斎藤規矩夫さんです。まだラ・ママが「カフェ・ラ・ママ」だったころ、規矩夫さんがインスタントコーヒーをつくり、サム・シェパードがウエイターをしていたらしいです。
 もしエレンがここにいたら、必ずこういう取材の機会を頂いた際にお話をしていたことがあります。エレンは常々東京キッドのみなさんのアメリカでの功績を、日本の演劇界はもっと評価すべきであると言っていました。日本からやって来た20代前後の若者たちが当時まだアジア人に対して偏見や差別がある中で、演者と観客が一つになる舞台『Golden Bat』をこのラ・ママの舞台でつくり上げた。そして、別の劇場に移りロングラン公演を収めた。すごいことを彼らは成し遂げたんだと。
 1978年には江戸の糸あやつり人形と俳優(吉行和子と宮本信子)のコラボレーションで観客を魅了した、朝倉摂さん(舞台美術と演出)による『人形姉妹』が上演されました。79年には安部公房スタジオによる『仔象は死んだ』を招聘しています。80年には再び寺山修司がラ・ママを訪れ『奴婢訓』を米国初演、東京キッドブラザースが『Shiro』上演しました。また翌年には大野一雄さんが初渡米し『ラ・アルヘンチーナ頌』と『私のお母さん』を踊ってくださいました。83年と85年には、田中泯さんが来てくださいました。87年にはヨシ笈田さんがいらして、日仏合作の演出作を発表してくださいました。90年代に入ると、舞踏家の大野慶人さん、劇作家の倉本聰さん、舞踏家の三上宥起夫さんなど毎年のように日本人アーティストのみなさんとの文化交流は続いています。つい先週、川村毅さんとジョン・ジェスランのコラボレーション公演『ディスタント・オブザーバー』(2018/3/16〜4/1)が公演されました。

──ピーター・ブルック、タデウシュ・カントール、イェジィ・グロトフスキなどの才能を米国に初めて招聘した劇場としてもラ・ママは有名です。現在でもこうした国際プロジェクトは積極的に続けているのでしょうか。
 もちろん続けています。いまでもラ・ママで上演される作品の3〜4割は海外作品です。今となっては、大きなスケールの海外作品を上演する劇場(プレゼンター)はたくさんあります。ラ・ママは、自国でとても意義のある活動をしていてもなかなかアメリカで上演の機会のない公演に力をいれています。私たちは半世紀以上に渡る国際交流の成果として、いまや「ラ・ママ大使」とでも呼べるような、様々な地元情報を提供してくれる世界中の人材とつながっています。彼らとの会話から国際プロジェクトを実現させていくのです。また、ラ・ママの専属劇団・グレイトジョーンズ・レパートリー・カンパニーや、ラ・ママの作品が海外公演に招聘されたり、その際に海外で地元アーティストたちとコラボレーションしたりして、その中からまた新たな交流が生まれます。

──公民権運動やウーマン・リブ運動がまさに開花し始めていた60年代米国で、世界中の誰とでも対等に会話をしていたエレン・スチュワートという人間は、時代の先駆者であったと思います。
 まさにそうです。エレンは、時代のずっと先を行っていたんです。ようやくいま、時代が追いついてきた。エレンは当時から誰よりも「世界市民」でした。インターネットのない時代から、誰とでも対等につながろうとした。だから彼女は、米国のアフリカ系アメリカ人に「黒人らしくない」と批判されました。彼女が「黒人作家」だけを紹介しなかったからです。また彼女は「アメリカ人らしくない」ともバッシングされました。米国の実験的演劇作品を紹介することに特化しなかったためです。
 すでに72年にラ・ママは、「ネイティブ・アメリカン・シアター・アンサンブル」という、米国初の劇団員全員がネイティブ・アメリカンであるカンパニー(主宰・劇作家Hanay Geiogamah)をレジデンス・カンパニーとして迎え入れていました。また台湾出身の演劇作家Wu Jing-Jyi と元生物化学者のChing Yehによる「ラ・ママ・チャイナタウン」もレジデンス・カンパニーのひとつでした。今でこそ、人種、ジェンダー、国籍といった「アイデンティティ・ポリティクス」に関するパフォーマンスがニューヨークでは盛んですが、ラ・ママはすでに60年代からこれら人々の声を発表・表現する「場」だったのです。

──いまでもラ・ママはネイティブ・アメリカンの演劇活動を熱心に支援されています。例えばレジデンス・カンパニーのひとつに「Safe Harbors Indigenous Arts」と呼ばれるシアター・コレクティブが存在します。
 セイフ・ハーヴァーズは、5〜6年前にミュリエル・ボルスト・タラントが発起人となり創設されたシアター・インディジネス・コレクティブです。彼女自身、いわゆる「アーヴァン・インディジネス(都市部に住むネイティブ・アメリカン・アーティスト)」であり、都市部でアート活動を展開するネイティブ伝承・伝統表現に特化したカンパニーとして打ち出しています。スパイダー・ウーマン・シアター、サンダーバード・カンパニーなど、エレンが70年代から支援してきた数々のネイティブ・アメリカン劇団の活動の延長にあるといえます。ネイティブ・アメリカンの演劇活動だけを支援してきたのではありません。この他にも、フラ(ハワイアン・ダンス)、フィリピンの伝統舞踊など伝統も大切な表現継承のひとつでもあります。

──現在、ラ・ママにはレジデンス・アーティスト(カンパニー)が約30名(団体)存在します。そのなかには中国系米国人アーティストピン・チョン&カンパニー、日本人振付家の中馬芳子&ザ・スクール・オブ・ハードノックス、LGBTQ演劇活動の先駆者であるスプリット・ブリッチズ、美術家の前田順などがいます。これら多くの人々は、ラ・ママと共に何十年も活動し、すでに名を成した人たちです。社会的に成功したレジデンス・アーティストは手放して、より若い世代に手を差し伸べてコラボレーションをしようと思うことはありますか。
 いいえ。そうは思いません。もちろん若い世代の公演も、ラ・ママでは積極的に行っています。例えばいま上演されている『シーガル・マシーン』は、ニック・ベナセラフという若手作家によるものです。ニックは私たちが年3回行っている「ミート・アップ」という、ラ・ママのキュレーターと誰もが対話できるイベントに来て、そこで自作の売り込みをして公演実現にこぎつけました。私たちラ・ママは、個々のキャリアに関わらず、新たな試みに挑戦するアーティストたちを応援します。
 このアメリカという国の文化は、あまりにも次世代のもの、新しいもの、未来のものに翻弄されがちです。若手アーティストに比べ、中堅以上のアーティストたちが作品発表の場に恵まれずに苦しんでいることがあります。 例えばマルチ・パフォーマンスのジョン・ケリーや、先週、川村毅さんとの共作『ディスタント・オブザーバー』を発表した劇作家・演出家のジョン・ジェスランは、米国演劇界で新たな表現手法を開拓した先駆的アーティストです。にもかかわらず、彼らは十分な資金援助を得ていないと感じます。ラ・ママは新進作家の「新たな才能」を支援するだけではなく、キャリアにかかわらずアーティストの「新たな賭け」を後押ししたい。だからこそ私たちは、レジデンス・アーティストたちを長きにわたり支援し続けているのです。彼らとは稽古場や新作発表の場の提供、という物理的支援を超えた信頼関係を築いています。とにかくラ・ママは、アーティストが完全に信頼できる“ホーム”のような場であるべきなのです。

──「新しさ」を追求し続ける米国文化に抗うかのように、ラ・ママでは一時代を築いたアーティストとその作品群を再訪する「コーヒーハウス・クロニクル」という無料の教育トーク・プログラムも続けています。
 2005年に始まったこのプログラムは、かつてラ・ママで活躍したアーティストをゲストにお招きし、当時の状況を語ってもらうというオーラル・ヒストリー(対談・対話型)講座です。またミカル・ガミリーという新プログラム・ディレクターになってからは、単なる歴史講座ではなく、そのパフォーマンス(アート・フォーム)の変遷・変貌を理解することによりどのように現在の創作現場へと繋がってきたのかを探るプログラムへと発展しています。つまり60〜70年代の人々が集うイベントではなく、若いアーティストや学生も招き入れ、インター・ジェネレーション(異世代)交流を活性化する試みとして行われています。実験劇場は主流の外にあり、大学の演劇授業には含まれないことが多い。若いアーティストが過去の試みを知ると同じく、私たちには歴史を継承していく責任があります。実験が何であるかを考えるなら、それは学ぶことができる機会です。過去の試みについて話し合い、経験に基づいて教えることによって、次の世代のアーティストがオリジナルのアーティストの教訓を学ぶことができるようになることを願っています。
 歴史に目を向ければ、例えばいま流行っているイマーシヴ・シアター(参加方演劇)は、すでに1974年にアンドレイ・セルヴァン率いるザ・グレート・ジョーンズ・レパートリー劇団が『トロイアの女』公演で行っていたことだとわかります。この公演では観客は客席に座って漫然と舞台を眺めていたわけではなく、そこら中でハプニングが勃発するなか、ギリシャ軍かトロイア軍の一員、もしくはトロイの市民として作品に参加していたわけですからね。

──少し話題を変えます。あなた自身はいつごろ、エレン・スチュワートと出会われたのでしょうか。
 私は祖父母の時代から三世代つづく演劇一家に生まれました。祖父は劇作家で、父は演出家でした。のちに祖父のチー・ジン・ユーは、ソウル芸術大学という韓国で初めての近現代芸術に特化した大学の創設者となりました。父がロックフェラー財団の奨学金を得て渡米していた時期、エレンと出会いました。また父は渡米中、ユダヤ・ロシア系米国人である母と出会い結婚しました。ですから、エレンとの付き合いは両親の時代にまで溯るわけです。
 演劇界で働くことになるなど、私は学生時代には全く思っていませんでした。高校まで韓国のインターナショナル・スクールに通っていた私は、医者や弁護士、世の中の役に立つようなソーシャル・ワーカーになりたいと考えたこともありました。けれど大学生になってアメリカにやってきたとき、なぜか演劇学部に進学することにしたんです。運命だったのか、血筋なのか、何なのかは自分でもわかりません。しかもシャイな性格である私にとって、舞台にあがることは毎回苦痛とさえいえる経験でした。「なんで私はこんなことをしているんだろう」と、いつも思っていました(笑)。でも同時に、人間の持つ秘めた可能性が舞台上で解放されることに魅了されていきました。
 卒業後、進路を決めかねていた私に、声をかけてくれたのがエレンでした。エレンはお見通しだったのでしょう、私に、イタリアのウンブリア州で毎夏ラ・ママが開催している「演劇プログラムにおいで」と声をかけました。そうして私はエレンが演出する『ロミオとジュリエット』に出演することになったのですが、その体験は私が大学で教わった演劇とは全く異なるものでした。大学の演劇はエリート主義で排外的だったけれど、エレンの演劇は包摂的でクレイジーだった(笑)。イタリア人でない出演者は、私を含めて二人だけだったけれど、疎外感を感じたことは全くありませんでした。その体験は魔法のようで、本当に私の人生を変えてしまった。
 以後、私は舞台芸術に積極的に関わるようになっていきました。韓国で伝統演劇を学んだり、演劇学部の大学院に進学したり、ポーランドのグロトフスキー・センターに留学することを考えていた時期もありました。また俳優として、国内外のプロジェクトに携わるようになっていきました。でもいつも、どこかで、私のなかには「ラ・ママにいつか戻る」という感覚がありました。それで1990年頃からラ・ママの制作部門を手伝うようになり、05年にはアンドリュー・W・メロン財団から、芸術分野で「将来のリーダーを育てるための助成」をいただき、エレンのもとで本格的にアート・アドミニストレーションについて学ぶようになりました。09年に共同芸術監督に任命され、その2年後にエレンは亡くなりました。

──エレンさんに「あなたが次世代のエレン・スチュワートになるのよ」と告げられたときにはどう思われましたか。
 ちょうどラ・ママの関係者全員が集まる、シーズン終わりのお疲れ会ディナー・パーティーの席で、エレンからみんなの前でそう告げられると、部屋から走って逃げました(笑)。嬉しいとか、哀しいとかではなく、とにかくどう対応していいかわからなかったんです。特にエレンが存在しない世界があると考えると、それだけでどうしていいかわからなかった。でも彼女自身は、自分が亡くなったあとのこともちゃんと冷静に考えていてくれたのだと。健康の衰えとともに、徐々に自分の仕事を私や他の人間に受け渡していった。だから彼女が亡くなったときの悲しみはとても大きく…でもなんとかみんなで力を合わせて乗り越え、続けていくことができたと思います。

──現在、ラ・ママには何名のスタッフがいるのでしょうか。
 まず「スタッフ」という言葉は、私もエレンもあまり好きではないので使わないようにしています。仕事仲間のことは「メンバー」と呼んでいます。フルタイムのメンバーは18名います。そこにパートタイムで働くメンバーも加えると、時期により異なりますが、全員で35〜45名ほどでしょうか。でも人員は本当に足りていません。劇場施設管理、公演プログラミング、資金面のやりくり、広報マーケティングなど、すべてのことを存分にまかなうにはもっと大勢の人に協力してもらう必要があります。でもラ・ママに携わってくれている人たちは、この組織を心底愛していて、情熱をもって長時間労働に従事してくれている。今後はメンバーの賃金を上げることも、考えねばと思っています。

──おおまかな年間予算構成を教えてください。
 年間運営予算は280万ドルから320万ドルの間を行き来している感じです。エレンが亡くなったとき、予算規模は160〜170万ドルでした。ここ数年で予算総額は倍増したことになります。その内の約55%は個人、財団、政府からの寄付・助成、援助です。残りの約45%は、施設レンタルやチケット代収入、プログラムや著作権収益です。

──あなたが芸術監督に就任した2011年は、まだオバマ大統領就任3年目の時期でした。それから2017年にトランプ大統領による共和党政権に代わり、米国の政治は暴風雨に巻き込まれています。その時代の変化に合わせて、ラ・ママで上演される若手作家たちのテーマにも変化の兆しがあらわれていると言えますか。
 政治変遷は、作品に反映されていきます。いまラ・ママで上演される作品の多くは、アメリカがなぜいまある状況に辿りついてしまったのか、ということを再考する作品がほとんどです。でもどれほど劇場で批判・反省の弁を語ったとしても、劇場に足を運ぶ人たちのほとんどは、そもそもリベラルな思想の持ち主たちです。私たちは劇場に来ない人たちと、対話を繰り広げる必要がある。そんな思いもあって、私たちは2009年に、ソウル芸術大学と連携して「カルチャー・ハブ」というデジタル・プログラムを立ち上げることにしました。これはデジタル・テクノロジーを用いて、世界中のアーティストや観客を繋げることを目的にしたプログラムで、現時点で世界30カ国500人のアーティストたちを繋げています。具体的に説明するなら、「カルチャー・ハブ」では、例えばニューヨークとソウルのアーティストが共同制作した作品を両国の舞台上にあるスクリーンに投射して、異なる都市にいる観客にほぼ同じ作品をお見せすることができたりします。常にエレンは、国境を越える新しい対話法を模索していました。デジタル機器はそれを可能にする、最先端のデバイスです。国境も、年齢も、言語も関係なく、あらゆる人たちとの対話を拡張していくことができるわけですから。

──米国の政治状況によって、「ラ・ママが、今後どうなってしまうかわからない」という不安に襲われることはありますか。
 それはラ・ママだけではなく、どの劇場もいま感じていることじゃないでしょうか。でも私は、わりと楽観的に考えています。「分断」を促進する政府とは逆に、ラ・ママにはあらゆる人々が訪れます。そして自然に対話をはじめ、社会を内部から変えていきます。だから私は、どのような社会にも、文化は不可欠なものだと考えています。文化は、私たちが何者かを理解するための手助けになってくれます。そしてまた、より良い社会をつるための気づきを与えてくれます。ラ・ママは、そんな文化を生みだす機関として半世紀以上活動してきました。まただからこそラ・ママは単なる劇場ではない。ラ・ママは劇場である以上に、ある「世界観」を象徴してきたんです。

──「カルチャー・ハブ」内の取り組みとして、年1回、テクノロジー・パフォーマンスに特化した「フェスティバル・リフェスト 2.0」が開催されています。またその他にもラ・ママでは、LGBTQに光を当てる「ラ・ママ スクワーツ」、ダンス・パフォーマンスをプログラムする「ラ・ママ ムーヴス!」、人形劇に特化した「ラ・ママ パペット・シリーズ」など、本公演プログラムの他に、数多くのミニフェスティバルが年中開催されています。すべてのプログラミングを、あなたが監修しているのでしょうか。
 いいえ。そうではなく、フェスティバル毎にキュレーターを立てて、彼らに各自のプログラムは任せるようにしています。もちろん彼らが選出したアーティストたちには、全員直接会ってお話しをします。キュレーターたちの多くは、彼ら自身ニューヨーク在住のアーティストです。若くて才能に溢れる彼らにプログラムを任せることで、より広範囲なアーティストたちと繋がることができると思っています。他者を信頼するこうした方法論は、エレンから学んだことです。

──最後の質問です。あなたがラ・ママの芸術監督に就任して今年で7年目です。世界中の才能を魅了してきたこの劇場を運営するのに必要な能力は何だと思いますか? それは芸術的ビジョンでしょうか、資金繰りの上手さでしょうか、コミュニケーション能力でしょうか、交渉術でしょうか、あるいはただ忍耐力でしょうか。
 そのすべてでしょうね。それが私に備わっているかどうかは、別にして(笑)。あとは最初にも述べたように、日進月歩で進化する社会状況にあわせてプログラミングしていける、高い適応力を持ち合わせていることが重要です。そして何より、人に対してオープンであること。誰に対してもオープンであれば、何か斬新なアイデアがあればそれに耳を傾けることができるし、才能ある若者が話しかけて来れば彼らにチャンスを与えることができる。あるいは困っているメンバーがいれば、適確に助けてあげられる。だから質問に答え直すなら、いまあなたが言ったすべての能力は、オープンであることの次に来るものだと思います。時間が許す限り人に会い、オープンに対話する。すべては、そこから始まるように思います。
 
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