The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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マティアス・ペース
マティアス・ペース
Matthias Pees


ムーゾントゥルム
Mousonturm
http://www.mousonturm.de
*1 ニッポン・コネクション
例年5月に約1週間、ムーゾントゥルムをメイン会場としてフランクフルト市内で開催されている日本映画祭。日本映画にフォーカスしたものとしてはヨーロッパ最大の映画祭として、幅広いジャンルの日本映画を上映、ドイツ国内のみならず欧州各地から約16,000人の来場者が訪れる。ボランティアで集まったスタッフを中心に運営されている点にも特徴がある。
http://www.nipponconnection.com
*2 フランクフルト・ブックフェア
例年10月にメッセ・フランクフルトに世界各地の出版・メディア関係者が集う世界最大の書籍見本市。
http://www.buchmesse.de
*3 フランク・カストルフ
1951年東ベルリン生まれ。ベルリンの壁崩壊前から西側でも活動し、1992年よりベルリン・フォルクスビューネの芸術総監督に就任した、現代ドイツを代表する演出家の一人。古典戯曲や小説などのテキストを破壊的な大胆さで再構成した過激な演出、西側資本主義社会および現代世界を鋭く批判する数々の作品で熱い支持を得る。2005年、東京国際芸術祭において『終着駅アメリカ』の来日公演を行った。2017年夏をもってフォルクスビューネ芸術総監督を退任。
*4 ニコラス・シュテーマン
1968年ハンブルク生まれ。ハノーファー州立劇場、ハンブルク・タリア劇場、ベルリン・ドイツ座等、各地の劇場で、古典作品やエルフリーデ・イェリネク作品などをポストドラマ的な演出で上演し支持される。ドイツ語圏で初演された注目作品10本が上演されるテアタートレッフェン(ベルリン演劇祭)で、2012年に『Faust I+II』(タリア劇場)を上演し、3sat賞受賞。同年「年間最優秀演出家賞」(テアターホイテ誌)受賞。2004〜07年にウィーン・ブルク劇場の、2015年からはミュンヘン・カンマーシュピーレの劇場付演出家(Hausregisseuer)を務める。2014年、静岡県舞台芸術センター(SPAC)で『ファウスト 第一部』の来日公演を行っている。
*5 クリストフ・シュリンゲンズィーフ
1960年オーバーハウゼン生まれ。1984年長編映画作家としてデビュー。1989〜92年、ドイツ三部作『アドルフ・ヒトラ─100年』『ドイツ チェーンソー大量虐殺』『テロ2000年』で一躍脚光を浴びる。1993年、フォルクスビューネで舞台演出家としての活動を開始、以来ドイツ語圏の劇場で多数の作品を演出。障がい者や一般人を頻繁に起用し、映像を多用した独自の舞台を作り上げた他、アートアクティビストとして社会を挑発するプロジェクトを行い、常にメディアを騒がせた。2010年、49歳の若さで他界。2011年、ヴェネチア・ビエンナーレでは、彼の作品を展示したドイツ館が金獅子賞を受賞。2014年のフェスティバル/トーキョーでも特集上映が組まれた。代表作に『外国人よ、出て行け!』(2000年/ウィーン芸術週間)など。
*6 テアター・アム・トゥルム(Theater am Turm/TAT)
1953年にフランクフルト市の劇場として開設。70年代にはライナー=ヴェルナー・ファスビンダーが芸術監督だったこともある。1980年には劇場アンサンブルを持たない新しいコンセプトでリニューアルオープンし、1986年まではフリーシーンの実験的なアーティスト集団や国際的なアーティストの公演地になっていた。2004年閉館。
*7 タンツプラットフォーム
当サイト「フェスティバル/見本市スケジュール」を参照
*8 リゾーム
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『千のプラトー』の中に登場する比喩的用語/哲学用語。伝統的に西洋の形而上学が取ってきた、ある絶対的な一つのものから展開していく「ツリー」のモデルに対抗し、中心も始まりも終わりもなく、多方向に錯綜する「地下茎/根茎的」なモデルを差す。
*9 『完全避難マニュアル フランクフルト版』
高山明(Port B)とムーゾントゥルムが2014年9月に約1カ月上演したプロジェクト。15団体の他のアーティストとの協働で、フランクフルトおよび隣接地域に40ヵ所の「避難所」を設け、観客はウェブサイトから地図をダウンロードしたあと、電車等の公共交通機関を使ってそこを訪れる。批評サイトNachtkritikの「2014年ドイツ語圏最重要作品」にノミネートされ、一般投票の結果8位に選ばれた。
http://portb.net/archives/622/
*10 フライシュヴィマー(FREISCHWIMMER)
演劇、パフォーマンス、ライブアート、現代美術、音楽、映像、メディアアートのジャンルを超え活動する新進アーティストたちのためのプラットフォーム。応募の中から選ばれた作品は、ゾフィーエンゼーレ Sophiensæle (ベルリン)、FFTデュッセルドルフ、ムーゾントゥルム、brut (ウィーン)、ゲスナーアレー Gessnerallee (チューリヒ)のうちの1劇場で制作され、フライシュヴィマー・フェスティバルにおいて全ての劇場で上演される。「フライシュヴィマー」は「遊泳者」の意。
*11 パウラ・ロソレン
1983年生、フランクフルト在住の振付家、ダンサー。ここで言及されている新作『Puppets』(2016年7月ムーゾントゥルムで初演)は、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川に滞在した際の文楽・獅子舞の取材、およびマレーシアの人形劇の取材に基づいた作品。
http://www.paularosolen.com/projects/puppets
*12
リトアニア生まれで、アメリカで活動した社会活動家、アナキスト、フェミニストのエマ・ゴールドマンの言葉。
Presenter Interview
2016.9.27
Leading the “free scene” Frankfurt’s Mousonturm 
フリーシーンを牽引するフランクフルトのムーゾントゥルム 
ベルリンのHAUやハンブルクのカンプナーゲルなどとともに、ドイツの“フリーシーン”を牽引する劇場として注目されているフランクフルトのクンストラーハウス・ムーゾントゥルム。1920年代にフランクフルト初の高層建築として建てられた塔を改修し、1988年、オルタナティブなアーティストの創造拠点としてオープンした。2013年に芸術総監督に就任したマティアス・ペースは、フォルクスビューネ・アム・ローザルクセンブルク・プラッツ、ウィーン芸術週間といったドイツ語圏を代表する公立劇場、フェスティバルのドラマトゥルクとしてのキャリアと共に、ジャーナリストとしての出自やブラジルへの移住といった異色の経歴を持つ。ムーゾントゥルムでは、アーティストとの協働を重視した独自のコンセプトで新たな展開をもたらしている。劇場所属のアーティストを持たず、既存のジャンルや国境を越えた様々なアーティストとの交流を通して、ドイツにおける舞台芸術の国際的な交差点となっている“プロダクションハウス”“フリーシーン”のあり方、フランクフルトからヘッセン州/ライン・マイン地域へと延びるムーゾントゥルムの活動の様々な広がり、その考え方や将来展望などについて詳しく話を聞いた。
聞き手・インタビュー構成:岡本あきこ、野村政之

──まずはムーゾントゥルムの設立から現在までの歴史的経緯を教えてください。
 現在のムーゾントゥルムは、国際的なプロダクションハウスです。そもそもは1970年代末に、ディーター・ブーロッホ率いるアーティスト集団Omnibusがフランクフルト市文化局長からのサポートを受け、廃墟となっていたムーゾン石鹸工場跡で9日間の文化フェスティバルを開催したことが始まりです。それから10年、政治的な調整、資金調達、改装工事を進め、1988年末にクンストラーハウス(=「芸術家の家」)・ムーゾントゥルムとしてオープンしました。
 最初の基本的なアイデアは、「オルタナティブなアーティストの家」でした。ジャンルを超えたあらゆるアートに可能性とインフラを提供し、アーティストが自律的に生活して活動できる、フランクフルトのフリーのアーティストたちのための制作拠点でもありました。 当時から色々と変わりましたが、テクニカル、プログラム、広報、管理の常勤スタッフから成るチームがあり、所属するアーティストがいるわけではないという基本原理は今も同じです。アーティストはプロジェクトのためにその都度来ます。それで「プロダクションハウス」と呼んでいます。ドイツの公立劇場では決まった演出家や俳優のアンサンブルが所属し、通常はその人達が活動を行いますので、この点が異なっています。

──ムーゾントゥルムの設備やスタッフについて説明してください。
 ムーゾントゥルム(トゥルム=塔)は、建設当時、フランクフルト初の高層建築でした。現在の劇場ホールは増築されたもので、客席は最大280席、通常は160〜200席です。3つのリハーサルスタジオ、2つのアトリエ、5部屋のアーティストが宿泊できるレジデンスがあります。木工工房、照明・音響の技術設備が整っています。従業員は28名で、舞台技術、経営管理、広報、ドラマトゥルク、プロダクションオフィス、工房チーフ。そして30人のフリーの舞台技術者が関わっています。加えて、フランクフルト市内にあるFrankfurt LABを4つの団体と共用で使っていて、ここでも劇場プログラムを行うことがあります。

──劇場の自主製作や他団体との共同製作など、プロジェクトの形が多様だと思いますが、劇場の年間の上演プログラムはどのような構成になっていますか。
 劇場のオリジナル製作は年に1度ほどで、ほとんどありません。これはドイツにおける過去15年くらいのフリーシーンの発展と関係があります。(公立劇場のように)公演場所である劇場が自作を製作するのではなく、アーティスト集団が作品を製作し、共同製作費とインフラの提供を劇場から受けるという形になっているからです。あくまで作品の管理者、プロデューサーはアーティスト集団自身です。彼らは、作品を巡演する劇場を他に見つけたり、全体予算を確保したりといったことを自分たちでやらなければなりません。ドイツでの助成のあり方は時間をかけてこの方向に変化してきました。
 ムーゾントゥルムでの、こうした形の共同製作は年間30本くらいです。資金提供に加えて、リハーサル室及びテクニカルの提供、ドラマトゥルク的なサポートをします。一番多いのが、共同製作ではない作品の巡演で、年間の半分以上です。
 また別の形としては、ニッポン・コネクション(*1)、Lichter映画祭など、他の主催者との提携も行っています。パートナーとして、建物とインフラを提供します。 フランクフルト・ブックフェア(*2)では年毎に、ゲスト国がどこかによって提携の形を決めています。

──アーティスト集団との共同製作に関して、ドイツ国内での共同製作と、他国のアーティストとの国際共同製作の割合はどのようになっていますか。
 国際共同製作と国内共同製作の境が消えていますね。今日、ダンスでは特に「国内のプロダクションだ」と言えるケースが少なくなっています。パフォーマンスや演劇は言語の境目がありますが、その場合でも多くの国の共同製作であることは普通です。むしろ劇場プログラムとして、それがダンスなのか、パフォーマンスなのか、演劇なのかという区別をします。これは我々が美学的な区別を信じているからではなく、劇場に来る観客のためです。
 ダンスのプログラムのうち3分の1は、ムーゾントゥルムでリハーサルをするような、地域のアーティストとの共同製作です。もう3分の1がドイツの他地域で同じように製作された作品で、残りの3分の1が海外からのプロダクションです。後者の3分の2は混じり合っているので分け難いといった感じです。演劇のプログラムでは、約半分くらいの割合で外国作品をプログラミングしています。

──ムーゾントゥルムの運営資金はどのようになっているのでしょうか。資金調達に関する課題などはありますか。
 ムーゾントゥルムは初めから市の施設、フランクフルト市が100%出資している有限会社(GmbH)です。我々の年間予算はおよそ500〜550万ユーロ、このうち約380万ユーロは市からの補助金で、 内訳は施設の運営、スタッフの雇用、上演プログラムの費用等です。残りは自分たちで資金を調達しなければなりません。チケット収入は30〜40万ユーロで全体予算の8%程ですから、残りの100万ユーロ程を調達するか、それができない場合は作品数を減らすなどして支出を抑える必要があります。自分たちで調達できた金額によって全体予算は増減するわけです。
 これには2つの問題があります。1つは、この資金調達のために、私たちの組織が多くの労力を費やさなければならないことです。多くのスタッフが、企画の売り込み、入金・支払の手続き等こうした資金にかかる仕事に関わらざるを得ません。もう1つの問題は、他機関からの資金のほとんどは、通常の劇場プログラムのためのものではなく、特定のプロジェクトの実施と結び付けられたものであることです。そのプロジェクトを支援する意義を、各助成財団の役員や審査員などに納得してもらわなければなりませんが、彼らも独自のコンセプトや取り決めを持っています。これがとても複雑で、多くの活動を支援者の条件に適合させなければならないため、我々のプログラムや趣旨を弱めることもしばしばあります。
 公立劇場の場合は、例えば劇場で行われる演劇新作10本、オペラ10本、劇場教育プログラム等の資金は十分に確保されており、単に内部での配分の問題なので、他に資金を集める必要はありません。そこが違います。

──あなたのキャリアについてお聞きしたいと思います。2013年8月にムーゾントゥルムの芸術総監督に就かれましたが、それまでに様々な職や立場で、多くのアーティストとの仕事を経験されています。どのようにして演劇に関わるようになり、どんな経験があなたの活動に影響を与えてきたのでしょうか。
 私はハンブルクの大学に行きましたが、アカデミックではありません。5年間フリーのジャーナリスト、演劇批評家として働いたことが、私にとってはインテンシブな学業でした。たくさんの上演やテキストの鑑賞・分析、劇評に関するジャーナリストや編集者との対話・対峙を通して、独学で仕事の実践を学びました。他の都市へ何時間もかけて行って作品を観て、夜中に帰ってきて6時に起き、10時には原稿を納品するという生活だったので規律が必要でした。その頃は20代初めだったのでできましたが、体力的にも今ではもう考えられないことです。決められた文字数の中で、読者にとって面白く、公演について知ることができ、かつ、その作品をどう受け止めたかを批評家を代表して書く。何を伝えたいかを執筆において試みる中で、芸術そしてアーティストとの肯定的な関係を持つようになりました。「何が機能していなかったか」を羅列するのではなく、「到達できていなかったことを達成するにはどんなアプローチがあり得たか」を書く。これは肯定的です。つまらなかったとか書いても仕方ないですしね。この経験が、後々、自分がもう一方の側へ転向する結果へと繋がりました。

──お話を聞いていると、ジャーナリスト・演劇批評家からドラマトゥルクに転向したのはロジカルな流れであったように感じます。
 ドラマトゥルクは、様々な観点・アプローチから記述することができます。ドラマトゥルクを作品の最初の観客として捉えるのが、その可能性のひとつです。 例えば、リハーサル中にはドラマトゥルクの意見はプロセスを変化させるのに有用です。俳優や演出家が当然うまくいっていると思っていることを「自分にはわからない、あるいはほとんど伝わらないから、止めるかもっと強調するべきだ」等とドラマトゥルクは伝えるわけです。

──ジャーナリストの経験を経て、1995年からはフランク・カストルフ(*3)が芸術総監督を務めるフォルクスビューネでドラマトゥルクとして劇場での仕事を開始されました。
 フォルクスビューネでの5年の経験は、私のキャリアにとってとても重要なものでした。特にカストルフとの仕事は、私の演劇観のある部分を覆しました。もはや普通の演劇を観ても信じられなくなりました。 彼の仕事の極限まで逆説的で多層的で生命力に溢れた瞬間…。未知の、余人に代えがたい発想。彼は無鉄砲かつ20手先を読む棋士のように、今の試みが何を意味し、どこへ向かい、どんな深淵や高みに至れるかを見極めることができる。天才です。私は、彼が発明し発展させた独特の仕事の為し方に影響を受けました。
 次にハノーファー州立劇場で働きました。一般的な働き方でした。若手の演出家、特にニコラス・シュテーマン(*4)とは同世代なので、同じ目線で仕事をすることができた。カストルフは2世代上で、フォルクスビューネにいた演出家クリストフ・シュリンゲンズィーフ(*5)も1世代上でしたからね。
 その後、レックリングハウゼンのフェスティバルで働きましたが、既にブラジルへの移住を決めていたので行ったり来たりしていました。短い期間でしたが、プログラム・ドラマトゥルク、そしてキュレーターという仕事で予算に関わり、自分にとって重要な経験になりました。公立劇場のドラマトゥルクは、お金にタッチしないで内容に関われる贅沢な職ですからね。

──レックリングハウゼンでの経験が後にサンパウロでのあなたの仕事に活きたわけですね。
 その通りです。プロデューサーとして働けるということに初めてそこで思い至りました。当時は「ドラマトゥルク」という概念がポルトガル語になかったので、サンパウロでドラマトゥルクとして稼ぐことは考えられません。それで移住後は、ブラジル人のリカルド・ムニース・フェルナンデスと共に制作会社を立ち上げて、キュレーター的に企画し、出資者や劇場に提案するような形で沢山の文化交流プロジェクトをプロデュースしました。シュリンゲンズィーフなど、私がドイツで一緒に仕事をしたことがあるアーティストや、他の国の様々なアーティストと仕事をしました。リカルドは、鈴木忠志さん、ダムタイプ、大野一雄さん・慶人さんなど、日本との繋がりもありました。彼は彼の、私は私の持っていた繋がりを持ち込んで、とてもよいコンビでした。

──2004年から6年間、ブラジルに移住して仕事をしたのは、非常に特徴のある経歴で、この業界に従事する人のキャリアとしてもユニークです。このことがあなたに与えた影響はどんなものでしょうか。
 まず違う大陸の国に住むこと自体が何にせよ大きかった。自分自身や自国への視点、また、文化的・歴史的・社会的なコンテクストが全く変わります。相対化し、新しい視点をもつことができます。私は、特定のテーマに関して、こうした文化的脱皮を経験したことがない人と真剣に討論することができません。実際の体験なしに、理論上のみで省みるのは困難です。多くの人は、自分の居るところが絶対だと思ってしまいますから。文化的脱皮によって生まれる相対的な視点は、我々の仕事やそのテーマにとって必要不可欠かつ本質的なものだと私は考えています。というわけでブラジルでの経験とそこで生まれた視点は、私の人生にも多大な影響を及ぼしています。

──サンパウロ以前と以後ではいろんなことが大きく変わったんですね。
 様々な観点から見てそうです。とても重要な区切りになりました。
 その後、2010年からウィーン芸術週間で働きました。オーストリアというのはドイツとかなり違う国で…。文化に熱狂的で毎晩のようにいくつも文化イベントがあるのに、どこも満席。観光客もいますが、多くはウィーン市民で、それはもちろん素晴らしいことです。そんな市のフェスティバルで働いたのはよい経験になりました。フェスティバルに関して全く違ったふうに考えることができたので。そうして今、ムーゾントゥルムでは新しいフリーシーンという領域にいるわけです。

──そのように異なる3つのフィールドを経験した方はあまりいないでしょうね。
 そうですね! 私はそれに関して幸せに思っています。

──ムーゾントゥルムの芸術総監督になられるまでの経緯を聞かせてください。
 ブーロッホが23年間勤め上げた後に芸術総監督を引き継いだニールス・エヴァーベックが急逝するという出来事がありました。ムーゾントゥルムはフリーシーンで活動する全ての人にとって重要な施設ですから、誰がどうやってこの状況を救うのだろう、と私も思っていました。そうした中で直接問い合わせがあり、私も考えぬいた結果、市文化局長とじっくりと話し合いを行って、その過程で私が次期芸術総監督に決定しました。

──このポジションのどこに惹かれたのでしょう。
 ムーゾントゥルムという機構とそれを取り巻く環境で働くことに惹かれたのです。ちょうど機が熟し、これまでの自分の経歴・経験に照らして十分担えると思いました。プログラムに対する任務や裁量、支援する市の体制も素晴らしいです。自分のポジションはスタッフを常に動機づけ、できる限り引っ張っていくことです。計算や戦略ではうまくいかないことです。必要なのは自分と彼らが同じものを共有し、皆がそのことを納得していることです。

──現在のムーゾントゥルムの芸術総監督そして代表取締役としての任務は、これまでお聞きしたような、あなたが経験されてきた様々な仕事と異なるものでしょうか。
 全く違うということはないですが、責任が少し違います。ブラジルでは、わずか1人か2人の社員と30〜40人くらいの様々なスタッフが働いているだけでした。労働者の保護規則が非常に緩く搾取ができてしまう国で、 自分は搾取しない、という責任が鋭く問われました。あらゆることは起こり得た。保険をかけるのか、休暇を与えるのか…義務づけられているわけではないがするべきか。これは1つのキャラクターテストでした。私企業で、自分のお金から引かれるわけですから。
 ブラジルでは会社の経営・管理等を自分でやっていましたが、今は劇場の担当課が行い、私は最終責任者として最終的な赤字を出さないようにしなければならない。これについては経営経験が役に立っていますし、フランクフルト市が私に期待するのは主にこのことでしょう。プロジェクトのプロデューサーとしてもこうしたことはありましたが、インフラや従業員給与などの総予算ですから、責任と権限が大きくなります。ドラマトゥルクは、プログラムについて内容寄りで考えますが、芸術総監督にとっては従業員の負荷や作品の実現性、伝達可能性という点が問題になります。

──現代では、グローバルな資本主義社会が進展し、モノ・人・情報の流通が一層活発になっています。舞台芸術の分野でも、国や地域を越えたコラボレーションや作品の巡演が促され、また同時に、各国・地域で芸術の社会における役割が鋭く問われるようになってきたと思います。そうした中で、舞台芸術の既存のあり方・境界を問い直す様々な試みが行われるようになっています。このような変化に対して、ドイツにおいてはフリーシーンが最も直接的に呼応しているのではないかと思います。国際的なプロダクションハウスとして、ムーゾントゥルムの芸術面における考え方を教えてください。
 「芸術がどこまで現実を変容させる性質を持ち得るか」ということ。これが、個々のプロジェクトの選択や年間プログラムの編成、世の中とのコミュニケーションにおける私たちの起点です。実際これは、他機関がしていることよりも苦労が多いと思います。
 同時代の芸術においては、調和のとれた身体的な美や言葉の響きが与える魅力といった、我を忘れて没入する瞬間よりも、社会における生(せい)の現実に関わる省察、挑発、問題提起のほうが大切です。私たちが生きる社会が持つ政治的・社会的なメカニズムへの視点、世界観や歴史観、私たちが共生・共栄を望む未来に対する視点が重要になります。それは個人、組織、国家、民族、どのレベルにおいても私たちが関わらざるを得ないものであり、同時に、それこそが現代における私たちにとっての芸術創造の核になるもの、芸術創造を芸術創造たらしめるものです。そしてここから同時代に生きるものによる同時代性を持った芸術作品が生まれてくるのです。
 そういった意味で、我々は常に活動やプログラム、施設のあり方についての自省・自問を繰り返しています。これは我々のコンセプトの一部でもあります。足を投げ出して休んでいる暇はありません。これに耐えるのは大変なことです。しかし、動きつづける中でしか伝えることはできません。向こう見ずに芸術をする。いい俳優が別の作品にいい役で出るとか、ある演出家が毎年新作を創るといったことで何をしているかを確認するために劇場に行く──私たちはそのレイヤーで世の中に働きかけているのではありません。我々は次々とアーティストや内容、形式が変わる中で仕事をしているため、観客もついてくるのが大変です。私たちにとってはこれが課題です。
 ベルリンのように、アヴァンギャルドなシーン、劇場があり、アーティスト、そして観客が十分に居て、いつも議論し転回させているところとは違います。フランクフルトでは、ほとんどのアヴァンギャルドなアーティストは、既に私たちと働いています。また、フランクフルトの観客層というのは、享受して納得したい人たちです。フランクフルトは予算も潤沢で、街の規模の割に多くの様々な文化イベントがあります。あるいは食事に出たり、家でテレビをみたり。そういった選択肢がある中で、観客はいろんな選択をします。

──あなたは、フランクフルトは現代芸術にとってよい街であると考えていますか。
 ええ。フランクフルトには同時代の芸術の伝統があります。最も重要な現代音楽楽団であるアンサンブル・モダンの拠点であり、ドイツの最も重要な作曲家・演出家であるハイナー・ゲッペルスがいて、フランクフルト・ゲーテ大学に演劇・映画・メディア学科があります。ドイツ演劇を牽引するギーセン大学応用演劇学科も近くにあります。いずれもハンス=ティース・レーマンが教授を務めた大学です。そして、ピナ・バウシュに並んでコンテンポラリーダンスにおいて最も重要な、ウィリアム・フォーサイスのフランクフルト・バレエ団がありました。また、テアター・アム・トゥルム(TAT)(*6)は80年代末まで自治的なあり方をしていました。かつてのフランクフルトはかなりアヴァンギャルドで、だからこそジャーナリストとして私はこの地をよく訪れていたのです。
 その後、フォーサイスやバレエ団への対応、TAT閉館など、ひどい文化政策的決断をしましたが、よい街であることは変わりません。文化局長に素晴らしいコンセプトやビジョンがあったので、それがフランクフルトをいい立ち位置にしています。資本主義的・商業的で芸術都市ではありませんが、フランクフルトの市民はオープンです。シーンが小さいため、あちこちの分野を移動している人たちがいて、そこがいい。ムーゾントゥルムはフランクフルトでしか成り立ちません。

──ムーゾントゥルムは、諸外国のフェスティバルとの共同製作や、フランクフルト市域/ライン・マイン地域/ヘッセン州にある大学・劇場等、様々な団体との連携を行っています。3月に開催された「タンツプラットフォーム 2016」(*7)では隣接する都市にも会場が広がっていました。これは何を意図しているのでしょう。
 タンツプラットフォームではできるだけ多くの会場を、という面もありましたが、根底にあるのは、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」(*8)という考えです。人というのは、網状に繋がった沢山の興味関心のプラットフォームのうちの、ひとつのプラットフォームです。そう考えて、我々は様々なレベルで、地理的あるいは分野的に、また芸術と現実の間で、結びつきます。他の文化関係機関や学術機関、または難民やマイノリティ、環境問題などに取り組む市民団体や機関など…関心や必要に応じて、様々な理由で連携し協力しようと試みています。これは我々の活動が影響する範囲を広げるためでもあります。
 例えば、映画祭とはよい連携をしています。1週間で1万5,000人以上の、普段ムーゾントゥルムに来ない人が来場します。継続することで、彼らもムーゾントゥルムを自分たちの場所だと認識するようになります。私の考えでは、我々が芸術領域や企画業務で接する人たちとよい成果を生むことで、我々の創造活動の社会的な正当性を出来る限り広げていくことが大切です。そこから我々の視野や輪郭が更に広がります。
 国際的・国内的な共同作業では特にそうです。毎度ゼロからプロジェクトを始めるのではなく、他の場所での蓄積の上にさらに築いていけるように試みていくこと。特定の問題提起は共有・交換できますし、協力して更に発展させていくことができるはずです。
 また、こうした連携や協力は財政的な側面もあります。一団体ではできないことも多いので。ただその場合も、単なる資金の足し算という意味ではなく、互いのポテンシャルの掛け算という意味です。そうすることでまた新たな働きが生まれてきます。

──劇場での上演作品のプログラミングはどのように行われているのでしょうか。
 プログラムの最終決定は私がしますが、その過程はかなりフラットです。私はドラマトゥルクたちを信頼しています。私がよいと思わないものを彼らが選ぶこともありますが、その作品が彼らにとって、あるいはフランクフルトにとって大事なものだと思うのであれば受け入れます。4人で考えたほうが面白くなるし、幅も広がるし、将来にとってもよいと思います。

──マルクス・ドロス、アンナ・ヴァーグナー、エリーザ・リープシュ、そしてあなたの4人ということですよね。4人でプログラミングしていると言ってもいいですか。
 彼らがどう思っているかはともかく(笑)、私としてはそうですね。どちらにせよ、プログラム・チームであると言えます。国際的な作品で、他のドラマトゥルクが観なくても私が招聘を決めてしまうことがありますし、逆に私が観ていなくても、プログラムする枠があれば彼らの直観に従って決めることもあります。彼らは一度私と話し合う必要がありますが、私には決めてしまえる特権があります。私がやりとりをせず、彼らに任せるアーティストもいます。いずれにしても皆でプログラムを相談します。

──3人のドラマトゥルクに担当ジャンルはありますか。
 他劇場によくあるように分野で分けてはいません。一方で、それぞれ特性があり、マルクスはパフォーマンス、アンナはダンスやアジア・太平洋地域、エリーザは公立劇場から来ているのでその辺りの知見があり、お互いの意見を聞き合います。

──ムーゾントゥルムは、「アソシエイティブ・アーティスト」として、高山明、ディエドネ・ニアングナの2人と協働しています。以前あなたは、アソシエイティブ・アーティストついて「長期間に渡り様々なプロセスとプロジェクトをムーゾントゥルムで実現すること。その際に自らのイメージを芸術的に置き換えるだけではなく、プログラムにおける他に依存しない領域を共に作りあげること。キュレーションを共にすること。ムーゾントゥルムのイメージと作用・影響を刻印すること、そして共に決定すること」をアソシエーションの意味するところだと説明していたと思います。これは通常の「アソシエイト・アーティスト」等の位置づけとは大きく違っていますね。
 今のところ、まだ花開いてはいませんが、この裏に隠されているのは、「芸術家の家」の理念です。そもそも、“劇場はプロフェッショナルなプログラム・ディレクターやキュレーターの発想で形を決められるべき”でしょうか。少なくとも、“アーティストが考えること、劇場の仕組みや他の芸術家とのパートナーシップ、交流について彼らが思うことと共に劇場を形づくることができないか”、というのが私たちにとっての重要な問いです。
 例えば、この2016/17シーズンから始まるYRD.Workとの共同プロジェクトもその意味で興味深いものです。空間や身体、場がどのように形づくられるか、芸術家によってそれらがどのように別の可能性に向けて開かれ得るのか。まさに、我々の「芸術家の家」という名前についての問いです。
 高山さんは、正真正銘の劇作家・演出家であり、コンセプチュアル・アーティストです。彼は、よくある古典的な演劇形式に既に見切りをつけたコンセプチュアルな作品を作っていますが、2014/15シーズン・オープニングに組み込んだ『完全避難マニュアル フランクフルト版』(*9)は、ムーゾントゥルムの実践における全体イメージそのものを刻みました。これはとても影響が大きく、人々は我々と高山さんの活動を強く結びつけ、我々はこれを通して新しい側面を獲得しました。チケットを買って劇場で観るのではないサイトスペシフィックなものだったからというのもあります。都市空間の演者として、アクティビストとして、協働する社会集団や特定のテーマへの介入者として…その活動すべてに満足しています。ドイツ人やシリア人ではなく、日本人とともに難民というテーマを考えることで、既知の考えとは何か違う、新しい寄与をするパースペクティブが得られます。
 原理的にこれは長期で取り組むことです。我々は今シーズンから、高山さんと『ヨーロピアン・シンクベルト』(European Thinkbelt)という3年間のプロジェクトをスタートします。我々がドイツでどのように移民を統合するかという問いを考えていた時に、高山さんが、イギリスの建築家セドリック・プライスの実現しなかったプロジェクト『ポタリーズ・シンクベルト』にインスパイアを受けてこれを構想しました。

──加えて、ムーゾントゥルムはアーティスト育成を熱心にされています。どのようなプロセスでフリーシーンのアーティスト育成は行われているのでしょうか。
 アーティスト育成は、我々の芸術的立場の大切な基礎であり、観客もそこに関心があります。アーティストを目指す人達は、独学か、または大学で学んだ後すぐに、まず、プロフェッショナルな枠組みの中で成長するための環境にアプローチしなければなりません。フランクフルト周辺には、ダンス、パフォーマンス、応用的な演劇など、我々が上演しているような同時代の表現芸術を学べる学科がいくつもあります。我々はそういった学生達の問合せ先であり推薦者です。学科とも密に連携をとっています。加えて、我々は、ドイツ内外に様々なネットワークをもっています。例えば、プロフェッショナルな文脈での可能性を追究する、ドイツ語圏の新人アーティストに特化したフェスティバル「フライ・シュヴィマー」(*10)はその1つです。
 フリーシーンの若手アーティストが置かれている状況は、若い俳優や劇場の演出助手とは比べものにならないくらい厳しいので、私はこの点を非常に重要だと捉えています。彼らは、自ずと雇用契約のチャンスが得られるわけでもなく、最初から優れていなければスタートが切れません。なので、彼らの予算づくりや資金調達、チームづくりといったことに対して私たちは積極的に関わります。
 加えて、我々がもっと積極的に取り組み、ネットワークを広げ、改善・発展の必要を感じているのが、ドイツ国内でも地域限定でしか知られておらず、国際的にもまだ認められていない、もう若手ではないアーティストたちに関してです。彼らの作品に目を向けて、招聘したり共同制作したりする場の全体量が、注目すべきアーティストの数に比べてかなり限られています。彼らの重要な発展のステップを可能にする人たちが少ないんです。他の都市のフリーシーンの劇場にも同じように中堅アーティストが多く埋もれていて、交換できる枠がない。これは予算の問題ではなく、シーンに対応した公演場所や関心の不足の問題です。彼らの仕事が循環するメカニズムを私たちはもっと考えなければなりません。

──ベルリンのHAUやデュッセルドルフのタンツハウスnrwなど、ドイツの他都市のフリーシーンの劇場、プロダクションハウスとも強いネットワークで結ばれています。
 それが最初はそうでもなかったんです。私がムーゾントゥルムで仕事を始めた時、タンツハウス nrwのベッティーナ・マーズッフも就任したばかり、HAUのアネミー・ファーナケレも就任して1年と、3つの劇場がフレッシュなディレクターという状況だったので、会うことになりました。そこで、それまで劇場のディレクター同士がシステムや仕事のやり方などを話し合う会合がなかったことがわかりました。やはり、互いに競争相手として認識していた時期があり、各劇場の成り立ちやアイデンティティーを越えて繋がることに時間がかかったのだと思います。

──ヨーロッパの他の国々にもフリーシーンがあるのでしょうか。
 オランダとフランスのいくつかのグループとは深い繋がりがあります。ただ、「フリーシーン」と言われるものには、それぞれの場所で異なったストラクチャーや定義があり、同じではありません。ドイツの公立劇場といわれるものも、ドイツより西にはないくらいですし。ちなみに、オーストリアとスイスのカンパニーは我々のシーンに属しています。ドイツ語圏をナショナルなシーンとして見做していて、交流が活発に行われています。

──欧州内の国際共同製作は欧州外とのそれに比べると容易だと言えますか。
 EUの新しい助成制度の中で我々の分野が発展していくかどうかは不明です。児童演劇のようなポピュラーな分野への助成は強化されています。また、大きなプロダクションを欧州の様々な劇場やフェスティバルで実施する場合、費用の50%をEUから得られます。これは非欧州国のアーティストとの共同製作とは異なる点です。

──最近では、HAUの芸術総監督だったマティアス・リリエンタールが公立劇場(ミュンヘン・カンマーシュピーレ)の芸術総監督に就任したり、フリーシーン出身のアーティストが公立劇場のプログラムで作品を上演したりといったことも見られます。公立劇場とフリーシーンはどのような関係にあるのでしょうか。
 制度的にものすごく沢山のことが公立劇場に投入されていて、それとの線引きがフリーシーンの自己定義だったので、敵対的だと定義されています。ただ、構造的にはあまり変わっていませんが、プロジェクトによっては敵対的な感じではなくなってきています。
 プロダクションハウスの自己定義、そしてアプローチが公立劇場のそれとは異なるものになったことはよいことだと思います。芸術的な仕事のプロセス・思考の道筋が社会の発展を代行するモデルであれるかどうか。リサーチや問いの立て方が異なります。我々には公立劇場とは別のフレキシビリティーがありますし、観客の期待も違います。我々には観たこともないような何かを試す自由があります。

──ムーゾントゥルムは公立劇場とも提携を行っていますね。珍しいケースと思えるのですが。
 我々はヘッセン州立バレエと提携しています。これは、伝統的な州立劇場組織のバレエカンパニー(ヴィースバーデン/ダルムシュタットの2つのヘッセン州立劇場に帰属)が我々のようなフリーシーンの劇場との協働を探るモデル事業です。共同のプロジェクトチームを設け、一定の枠組みで若手の作品などを国際的な場と結びつけています。パウラ・ロソレンはこの形で州立劇場と共同で作品を制作しました(*11)。まだ手始めの段階ですが、州立バレエの人たちが地域のダンサーや振付家に興味を持つこと自体が革命的です。

──昨年来の難民問題やテロ、そして、イギリスの国民投票におけるEU離脱派の勝利など、近年激しく世界情勢が変化しています。そうした国際社会、あるいは欧州・ドイツ社会の変化の中で、ドイツそして欧州の舞台芸術の将来展望をどのように考えていますか。
 我々も他の人と同様にこの出来事の当事者です。このようなことが起きた時、我々には芸術で阻止することも実際に影響を及ぼすこともできません。我々の役割の中で謙虚に表現するだけです。文化、民族、生い立ち、心に受けた傷、様々に違う人間同士のコミュニュケーション、あるいはコミュニケーションの不能について、検討することはできるかもしれない。しかし、モデルとしてだけです。舞台上や劇場に立つのが本当の人間であれば、人間は全て現実です。ふりをしようが、何をしようが。しかし、現実世界ではそうなりません。
 これは市民社会の実験室として自分たちを捉えている我々のような人間にとっての挑戦なのだと思っています。相応しい問いを取り上げ、試みの形や討議する場を創りだすこと。そして更なる挑戦は、我々の使命はこの討議の場を社会的な観点から創ることではないということです。モデルとして、芸術的なプロセスとして創るということ。そうすれば、手がかりの糸口になります。人間が大勢でお互いにどうやって付き合い始め、対峙し、近づき、自分たちの境界を主題に据え、話し合うかという例示になります。我々は芸術における社会のコンセンサスを探しているわけではありません。違い、差異に向かっている。
 これは、我々が、人々がそれぞれ違っていること、同じではないことをよいと思っているからではなく、話したり演じたりすることができるベースを持つことを大切だと考えているからです。人は全てのことを話して解決しなくてもいいんです。たぶん、踊ることもできます。“If I can’t dance it, it's not my revolution”(「私が踊れないなら、それは私の革命ではない」)(*12)。

──本当に長い時間、中身の濃いお話をありがとうございました。
 
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