The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ジョン・アシュフォード
ジョン・アシュフォード
John Ashford


Aerowaves
http://aerowaves.org/
Presenter Interview
2016.8.19
The network organization Aerowaves   Working to discover and support young choreographers 
若手振付家の発掘を目指すネットワーク組織 Aerowaves 
欧州の若手振付家を発掘・支援するコンテンポラリーダンス専門のネットワーク組織「Aerowaves」が1996年に設立された。その仕掛け人が、劇場・ダンススクール・付属カンパニーを有し、英国のコンテンポラリーダンスの普及・振興に多大な貢献をしているザ・プレイスの劇場ディレクターを長年務めたジョン・アシュフォードだ。Aerowaves設立にいたる思いを聞いた。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──Aerowavesは、欧州の若手振付家とダンス・プロデューサーを繋げることを主な目的にしています。1996年設立当時、アシュフォードさんはザ・プレイスの劇場ディレクターを務めていらっしゃいました。なぜ劇場ディレクターという重責を担いながら、新しいダンス・ネットワーク組織を立ち上げようと思われたのか。設立経緯について教えてください。
 私が劇場ディレクターを務めたのは1986年から2009年まで。その間、ドメスティックに閉塞しがちな英国舞踊界を海外に向けて開こうと務めてきました。ザ・プレイス在籍時の1990年に立ちあげた「ザ・ターニング・ワールド」という海外作品に特化したシーズンは、そのビジョンを端的に表すものです。ちなみに「海外」と言ったとき、当時の英国舞踊界は主にアメリカに目を向ける傾向がありました。英国最大規模のコンテンポラリーダンス・フェスティバルとして知られる「ダンス・アンブレラ」芸術監督のヴァル・ボーンが、マース・カニングハム、トリシャ・ブラウン、マーク・モリスなど、当時、世界のダンス界を牽引していた米国の才能に注目していたためです。ちなみにザ・プレイスは現在に至るまで、ダンス・アンブレラの主要会場として利用されています。ただ私がザ・プレイスで働き始めた頃から、ダンスを含む知的産業の中心地がアメリカから欧州に移行し始めていました。少なくとも自分はそう感じていた。その直感を信じて、私は欧州に力点を置き、ヴィム・ヴァンデケイビュスやアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルなどを、初めて英国に招聘しました。
 ザ・プレイスがヨーロッパの舞踊作品を上演するロンドンで唯一の劇場として認知され始めると、ヨーロッパ中から自分たちの作品を売り込むビデオが送られてきました。初めは数本。気づいたときにはそれが70本を超えるビデオの山になっていた。もちろん1本1本、丁寧に目を通したいと思いましたよ。ただ当時は映像のクオリティがあまり良くなかったため、全編を再生しても深く理解できないことが多かった。そこで私は、同業種で働く海外の友人たちに国際電話をかけて「どのビデオを見たほうがいい? この作家はどうなの?」とアドバイスを求めるようになりました。そうした電話をかけるようになってすぐに気づいたのは、彼らも私と同様に、国外作家についての知識があまりなかったということ。ベルギーにいるギー・クールズならベルギーの、ポルトガルにいるマリア・デ・アシスならポルトガルの振付家のこと以外、あまり知らなかった。
 そこで私はあるアイデアを思いつきました。舞踊業界に携わる欧州の友人たちを12人ほどロンドンでのディナーに招き、そこで70本のビデオを一緒に鑑賞しようと思った。そうすれば少なくともその12人は、ベルギーからポルトガルに至るまで、あらゆる国の振付家についての知識を共有できます。このようにロンドンの小さなディナー・テーブルを囲むかたちでAerowavesは始まりました。つまり当初はAerowavesの活動もザ・プレイスでの職務の一端のような感じだったので、二足のわらじで進むことにもためらいがなかったのです。

──以後、Aerowavesは「欧州でダンスを発掘するためのハブ組織」をキャッチフレーズに、欧州の都市を巡回しながら毎年開催されています。
 ええ、翌年はヘルシンキのパートナーであるマリアナ・カヤンティが、12人全員を彼女の劇場に招いてくれました。とはいえ全員、旅費は自腹。ビデオテープ数十本を収容する大きなアルミケースの輸送費は、主催者が負担しました。マリアナが運営するヘルシンキの劇場は、市内からはボートでしか辿り着けないハラッカという孤島にあり、1930年代にロシア軍の生体実験室として利用されていた歴史的建造物でした。私たちは実験用の猿を捕らえる檻や、ベンチや、化学実験用ガスバーナーのある不気味な建物の中で、2回目の話し合いを進めました。ある土曜の夜、そこでただひとり海の向こうに広がる美しい朝焼けを眺めながら仕事をしていたことを覚えています……。以後、ネットワークは順調に拡大しつづけ、現在では 欧州41カ国のパートナーと提携しています。毎年違う都市で開催しており、まだ一巡しきっていません。

──Aerowavesという組織名はどのように決定されたのでしょうか。
 現在はケベック州政府ロンドン支局で文化大使として働くアシス・カレイロという友人が、助成団体を限定しないような、多様なスポンサーシップを得られそうな名前にすべきだと、助言してくれました。そして冗談半分で「Aerowavesがいいんじゃない? 製菓会社のRowntreeにスポンサーになってもらえるかもよ」と言ってきました。Rowntreeは「Aero」という有名なチョコレート菓子を製造しているんです(笑)。とにかく当時、私は組織名にあまり重きを置いていなかった。活動が公式に見えてこない、水面下でことが進むダンス・プロデューサーのネットワークでしたから、組織をブランディングする必要性を感じていなかったんです。

──当初、Aerowavesのネットワーク・ミーティングで才能が認められた振付家たちは、ザ・プレイスで毎年1月から2月にかけて5週間にわたって開催される「リゾリューションズ!」という若手振付家プラットフォームで、作品が上演される機会を与えられました。
 「リゾリューションズ!」は連夜約100組のダンスカンパニーを紹介する、若手振付家のためのプラットフォームです。一晩たりとも、同じ作品は上演されない。毎晩、異なる3作品がザ・プレイスで上演されます。これはその当時、ロンドンを中心に英国のインディペンデント・シーンから新しい振付家が育ち始めていた状況に呼応するかたちで立ちあげられたプラットフォームでした。「若い才能に発表の場を与えたい」と、思ったんです。そして毎週末のプログラミングに、私は必ず国外アーティストの作品を忍びこませることにした。
 5週間にわたる土日、つまり10日間に1本ずつ、Aerowavesのミーティングで選出した海外作品を上演する。10作品を2〜3日に固めて一気に上演しない、というのは自覚的な決断でした。当時の英国におけるコンテンポラリーダンスの客層は、大多数が出演者の知人や友人たちだったので、海外作品だけでプログラミングしたら客席が埋まらないことは明らかでした。そこで私はあえて、トリプル・ビルのうち1本だけ、しかもいちばん最初の演目に、ヨーロッパの作品を持ってきた。トリに置いたら、友人の作品に満足した観客が帰ってしまう可能性がありますからね(笑)。でも結果的に、ヨーロッパの作品はいつでも観客に好評でした。Aerowavesの最初の10年ほどは、そのようにしてザ・プレイスでの上演を軸に進んでいきました。

──10作品を選出する際の「評価基準」のようなものはあったのでしょうか。
 最初からありました。ロンドンでの晩餐に12人の友人たちを招く際、私は自分の考える9つの評価軸を紙に書き、それを全員に渡しました。その評価条件はいまでもAerowavesのウェブサイトに掲載されています。現在では評価軸は9つに増え、そのすべてが以前ほど有効だとは思いませんが、それでも大枠は変わりません。その評価軸というのは、「1.良質なアイデアに支えられた作品であること」「2.アイデアが先にあり、そこから独創的な振付が生まれていること」「3.余剰物を削除する勇気があること」「4.明確で骨太な構造があること」「5.明解さ、力強さ、献身性、自信が見えるダンスであること」「6.テクニカル面で簡素な条件下に置かれても鑑賞に耐えうる作品であること」「7.海外巡業経験が少ないカンパニーであること」「8.Aerowavesによって経験値が膨らむ可能性があること」「9.未来があること」です。なかでも重要なのは、2番目の「着想から振付が生まれる」という条件です。当時の英国では、自分が教わったとおりのダンスをただアレンジしただけの作品が多かった。そうではなくて、まず取り組みたい主題があり、その主題を表現するのに最適な身体言語を探るべきだと思いました。今年の「スプリング・フォワード」に招聘したギリシャの振付家クリストス・パパドポゥロスによる『Elvedon』などがその成功例です。既存のテクニックを利用してテーマを表現しようと試みる、あべこべの順序で作られている作品にはあまり興味がありません。

──Aerowaves創設の4年前、1992年2月にマーストリヒト条約が調印され、その翌年、欧州連合が誕生します。そう考えるとAerowavesは欧州連合の拡大にシンクロするかたちで成長したダンス・ネットワーク組織と捉えられるかもしれません。
 いえ、欧州連合とAerowavesの成長は、全くとは言いませんが、さほど相関関係はないです。逆にもしかすると我々の活動がEUの拡張指針になったのかも、なんて思ったりします(笑)。我々のネットワークの拡張は、欧州連合の拡大よりも、当時、欧州各地で散見し始めていたインディペンデントなダンスシーンの成長に由来すると思います。その証左として、私たちは欧州参入以前の東欧諸国とも頻繁にコミュニケーションを取っていた。そして当時、欧州連合に属していなかった東欧との関係性を守るために、2000年前後に一度、欧州連合から助成金を獲得できそうな機会があったものの、あえてそれを見送りました。どの国のパートナーとも対等な関係でありたいと考えていた私にとって、西欧と東欧を否応なく分断する予算を運用することは、致命的に間違っていることのように思えたのです。

──約1週間後の6月23日に、英国が欧州に止まるべきか否かを決断する国民投票が行われます(2016年6月15日にこのインタビューは行われた)。投票結果次第では、Aerowavesの展望も変わってくるのではないでしょうか。
 欧州連合から確保している3年助成は2017年まで契約が続くものなので、すぐさま問題が生じることはないはずです。この助成金によって、私たちは2014年から毎年約42万ユーロ(約4,800万円)の予算を得ています。英国が欧州から離脱するとしても、それなりの時間と手間を要するはずなので、いきなりこの予算を奪われることはないでしょう。ただ我々は2014年から2020年の7年間で、総額14億6,000万ユーロ(約1,670億円)の予算を保持するEU産業振興策「クリエイティブ・ヨーロッパ」の、最初の3年間の助成金しか現時点では確保していないので、もし欧州離脱が決定したら、後半4年間の助成金は申請できないかもしれません。このスキームで満額助成を狙った場合、確保できる年間の最高金額は約500万ユーロ(約6,000万円)です。私としてはこの予算をぜひ確保したい。ですので、もし英国が欧州から離脱したら、Aerowavesの本部を欧州のほかの国に移転しようと考えています。欧州連合のなかでもユーロ圏(ユーロ通過を導入している18カ国)の国に本部を移すのが、おそらく最善策ではないでしょうか。

──2011年に、Aerowavesは「スプリング・フォワード(Spring Forward)」というダンス・フェスティバルを立ちあげます。なぜ、これまで通りザ・プレイスで上演するのではなく、20作を一挙上演するフェスティバル形式に移行しようと思われたのでしょうか。
 徐々に私はザ・プレイスとAerowavesのディレクター職を兼任することに難しさを覚えていました。Aerowavesでの仕事量が、副業では手に追えないほど膨らんでいたのです。そこでAerowavesを、独自の助成金と委員会によって運営される組織として独立させようと考えました。ありがたいことに、ザ・プレイスのディレクター職を辞任した2009年春の6カ月後には、たった7万ユーロ(約800万円)ですが、欧州連合からAerowavesの運営資金を確保することができました。この金額はザ・プレイス在籍時から敏腕マネージャーとして仕事を支えてくれていたアナ・アーサーと私が食べていくには充分でした。
 Aerowavesを独立組織として立て直そうと考えたとき、それまで表面下で行われていた活動を、社会に向けてよりオープンなものに切り替えていく必要性を感じました。そのためには、フェスティバルを開催するのが最も効果的ではないかと考えた。きっかけは、フランクフルトのムーゾントゥルム劇場での出来事です。当時、同劇場のダンス・プログラマーで、私たちのドイツのパートナーであったオリヴィア・エヴァートが、ダンスのミニ・フェスティバルを開催した。そのフェスティバルに参加した9名の振付家は、Aerowavesのネットワーク会議で選出された若者たちでした。私はそこで、9名の振付家と何人かのプロデューサーが一堂に会したときに生まれる、素晴らしいシナジー効果を目の当たりにしました。そしてフランクフルトのミニ・フェスティバルで9名紹介することが可能なら、きちんと国際市場に開かれたフェスティバルを立ちあげたなら、一気に20作上演することも不可能ではないと思いました。そこで2011年に、スロベニアのリュブリャナで第1回のスプリング・フォワードをザ・プレイスで紹介したダンスグループのひとつであるEn-Knapの主宰者であるIztok Kovacと共に開催し、23作品(うち3作品は、地元スロベニアの作品)を上演すると同時に世界中のプレゼンターやプロデューサーを招待しました。
 フェスティバルが唯一、あえて招聘しなかったのはマネージャーです。もちろんとても優秀なマネージャーがこの業界に存在することは知っています。ただ中には作家のDVDをばらまいて去っていくだけの人たちもいる。だからアーティストとプロデューサーが直接話しをするために、マネージャーの方々には参加をお断りしました。ちなみにリュブリャナでは、アーティストからプロデューサーまで、すべてのゲストが予算の都合上、1泊19ユーロの同じホテルに宿泊することになりました。朝食会場で、様々な人たちが談笑しているのを見て、私はこのフェスティバルの成功を確信しました。En-Knapが運営するSpanski Borskiという劇場が主会場のひとつでした。

──スプリング・フォワードによって予期していた通りの成果が得られましたか。
 まず予期していた通りの成果としては、プレゼンターたちがより確かな自信を持って、自分たちの劇場にアーティストを招聘できるようになりました。いくらビデオで作品を見たり、他人から評判を聞いたりしても、やはりどこかで不安は残ります。でも実地に自分の目で作品を見たら、途端にその不安は消えます。Aerowaves選出作品がヨーロッパの劇場に招聘された上演回数は年間100回を超えていると思います。
 予測していなかったボーナス効果は、Aerowavesのネットワークには所属していないプロデューサーやプレゼンターが来てくれたこと。結果的にアーティストたちは、フランス・パリの市立劇場から、ドイツのタンツ・マインツ・フェスティバル、あるいはムルスカ・ソボタという発音できないようなハンガリーとの国境にあるスロベニアの小さな町の劇場などに招聘されていくようになりました。パリ市立劇場のような格式高い組織から、それまで名前も知らなかったような小さなインディペンデントな劇場まで、劇的にネットワークが広がっていったのは予測していなかった事態でした。

──2011年にスタートしてからスプリング・フォワードはどのように発展していったのでしょうか。
 第2回となる2012年には、イタリアのバッサーノ・デル・グラッパでフェスティバルを開催しました。本当にありがたいことに、我々のパートナーのひとりであるロベルト・カッサラートが、1981年から同地で開催されているOperaestate Festival Venetoの演劇舞踊部門「Bモーション・フェスティバル」の総予算をスプリング・フォワードの開催資金に当ててくれたのです。第3回は「チューリヒ・タンツト・フェスティバル」の一環として、スイスのチューリッヒで行われました。ただそのときはファンドレイジングに失敗し、16演目しか上演できなかった。そのうち3作は地元スイスの作品でした。第4回となるスウェーデンのウメオでの開催から、Aerowavesは飛躍的に拡大していきます。ウメオは2014年度の欧州文化首都に指定されていたため、私たちは16万ユーロ(約1,800万円)の予算を手にすることになりました。のちにオペラハウスが2万ユーロ加え、総予算は18万ユーロ(約2,000万円)となった。そのおかげで、私たちはウメオで初めて自分たちのビジョンを十全なかたちで実現することができました。その成果があったからこそ、「クリエイティブ・ヨーロッパ」の3年助成を確保できたのだと思います。以後、なるべくその年の欧州文化首都に選ばれた場所でフェスティバルを開催しています。2015年度はスペインのバルセロナ、2016年度はチェコのプルゼニ、そして来年度はデンマークのオーフスです。

──2014年度から、スプリング・フォワード・フェスティバルでは2つの新たな試みが行われています。1つ目が、全作品をAerowavesのウェブサイトを介してライブストリーミングすること。2つ目が「Spring Back Academy」という若手批評家育成のためのプラットフォームを立ち上げたことです。
 ウメオでそれなりの予算を確保したとき、私たちはライブストリーミングのアイデアを思いつきました。助成金申請の3割は観客育成によって判断されるので、何らかのかたちでオーディエンスに働きかけるプロジェクトを始めたいと思ったのです。何人かの知り合いから、ロンドンでartStreamingTVを運営するアンドレ・ポルタシオという男性を推薦されました。実際に彼に会って話してみたところ、元英国ナショナル・バレエ団のダンサーでダンスに対しての理解がとても鋭く信頼できる人のように思えたため、私はアンドレと4年契約を結ぶことにしました。2014年度に750時間前後だったオンライン鑑賞時間が、今では1,200時間ほどに増えました。鑑賞者数は3,500人から4,000人程度で頭打ちになっていますが、ライブストリーミングは新たなコンテンツを増やすことを可能にします。例えばアーティストやゲストへのインタビューなどです。いずれにせよ、これはまだ実験段階なので、これからどのように強化していくべきかパートナーたちと議論しているところです。
 Springback Academyについては、私の大学院修了後の初仕事が、ロンドンのタイムアウト誌の演劇ライターだったことと関わっています。その仕事でいかに舞台作品を文章化することが困難かということを身を持って知りました。同時に「言語化することで初めて人は学習できる」という信念を持つようになりました。児童心理学でも「命名することで、初めて子どもは物事を理解していく」といったことを言いますが、同様に、ダンスは極めて言語化が難しい表現であるからこそ、あえてそうすることによって作品の理解が深まると感じています。さらに言えば、ある作品がどのような作品であり、どう自分を感化したかを適確に言語化できれば、それはダンスコミュニティ全体の作品に対しての理解促進に貢献することになるはずです。つまり、ダンス批評は振付言語を発展させるために必要な解析作業なのです。
 ただ近年の紙媒体の衰退により、ダンス批評家の権威はほぼ失われてしまった。この危機的事態の原因を問い、打開策を考えるために、私はSpring Back Academyを立ちあげました。ここでは欧州中から集う8〜10人の若手ライターが、フェスティバルで鑑賞した作品について英語で文章を執筆します。また彼らの文章をより信頼のおける代物に仕上げるべく、3〜4人のプロのダンス批評家を招聘し、生徒たちの文章を添削してもらっています。当初は、フェスティバルが終わったら、若手ライターたちとの関係性はそこで終わるものだと考えていました。でも、バルセロナでの集中講座がとても楽しかったという初年度の生徒たちが、翌年のフェスにも来たいと言ってきた。なので、来年度には1年生、2年生、3年生といった経験値の違う生徒のいるアカデミーに変貌することになります。来年のオーフスがちょうど3年目になるので、その後、書籍化するというプランもあります。その本ではダンスの発展を支えてくれる新しい世代の書き手を集めています。

──タイムアウト誌の演劇ライターからどのようなキャリアを経てダンス・プロデューサーになったのでしょう。その道のりを教えてください。
 英国国立レスター大学で英文学の学位を得た後、マンチェスター大学で演出家になるための修士号を取得しました。初めはテレビのディレクターになりたいと思っていたのですが、夏休みに少しだけテレビ局で働いてみたら、あの業界には向かないことがわかった。そこで方向転換して、演劇の演出家になるべくサイドウォークという学生劇団を創設しました。2〜3作発表した頃、タイムアウトという新しいカルチャー雑誌(当時は3週間に1度のペースで発行)がライターを探している、と聞きました。採用されたのち、最初は演劇批評のみ書いていましたが、その後、隔週刊からその後週刊となったタイムアウトの初代演劇編集長になりました。とはいえ私は編集者ではなく演出家になるのが夢だったので、数年後にロイヤル・コート・シアター、アップステアーズ劇場(120席の小劇場)の支配人職に転職しました。そこで年間12本、サム・シェパードなど同世代作家の芝居をプロデュースしました。世界で初めて『ロッキー・ホラー・ショー』をプロデュースしたのは私です。また演出家として『クラウド9』『トップ・ガールズ』で知られるキャリル・チャーチルの戯曲を何本か手掛けました。
 その後、就任したのはICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ)演劇部門のディレクター職です。ICAには7年在任していました。その途中で、他人の作品についてあれこれジャッジを下しながら、演出家の仕事を続けることに限界を感じ始めました。全く異なる部分の脳を使う仕事なんです。そこで私は演出家としての自分の才能に見切りを付け、ディレクターの職務に集中することにしました。たしかローザスのアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルを初めて英国に招聘したのは、私がICAにいたときです。演目は『FASE』でした。その後、ザ・プレイスでも彼女とは継続的に仕事を続け、最終的にはクイーン・エリザベス・ホールという900席の劇場での上演にこぎつけました。ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスのエドゥアール・ロックもICA在任時に初めて招聘し、北ロンドンにあるザ・フォーラム(現O2フォーラム)という2,000席のロック・コンサート会場で上演しました。これはコンテンポラリーダンスの公演としては、かなり画期的なことです。

──ICA在籍時に、日本に1年間留学していたそうですね。
 ええ。国際交流基金の助成を得て、1980年に1年間日本で暮らしました。当初の目的は安部公房スタジオの演劇作品をリサーチすること。ところが来日直前に安部さんとお電話でお話しさせていただいたら、彼は「申し訳ないが劇団を解散して、自分にとって最後の小説を書くつもりだ」と伝えてきた。癌で死期が迫っていることを、自覚していたのだと思います。事実、その後、安倍さんは『密会』という作品を書き上げたのち、残念なことにお亡くなりになりました。私が安部さんの作品に興味を持ったのは、小説家でもある彼がセリフを排した演劇を作っていたからです。彼の映画を観ましたが、演劇というより“振付”に近かった。なぜ小説家が言葉を排除するのか。その理由を知りたかったのですが、願いは叶わぬまま終わりました。とはいえ、せっかくの機会なので国際交流基金の好意で訪日し、とにかく演劇やダンスを観まくることにしました。そこで興味を持ったのが、太田省吾の転形劇場です。太田さんはそれこそ言葉を完全に排除した無言劇を作っていました。その作品の完成度や、太田さんとの対話に打ちのめされた私は、帰国後、ICAに『小町風伝』と『水の駅』を招聘しました。おそらく私がICAで招聘した作品の中でも、最も実験的で素晴らしいもののひとつだったと思います。

──キャリアの過程で興味が演劇からダンス的なものにおのずと移っていったのは、なぜだったのでしょうか。
 初めてICAでダンサーと働いてみて、俳優ではなくダンサーと仕事をするほうが、自分の性分には合っていることに気づきました。なぜかというと、例えば俳優たちに「ソファに移動してくれないかな」と演出家として頼むとしますよね? そうすると役者たちはその後10分、「なぜ」そのソファに移動する必要があるのかについて議論します。けどダンサーたちは「どうやって」そのソファに移動すべきかを思考する。「WHY?」が演劇で、「HOW?」がダンス。その目に見えて形が変わっていく感覚、そして創作として速度感がある感覚が、私には楽しかった。だからこそザ・プレイスで劇場ディレクターを募集中だと聞いたとき、「これこそ自分のやりたいことだ」と思ったのです。とはいえダンスに関してはかなり門外漢だったので、ザ・プレイスの創設者であるロビン・ハワードと会う面接日まで、とにかく英国中で上演されている舞踊公演を見まくりました。そして、正統な舞踊教育は受けていないけれど、可能な限り公演に通い目を肥やしてきたつもりですと、面接で答えられるよう準備しました。

──結果的に、あなたには振付家の才能を見抜く目があった。ザ・プレイスであなたに発掘された世界的振付家は数えきれません。
 そう言っていただけるのはありがたいですが、私は別に「発掘」したわけではなく、ただ彼らに「場を提供した」だけなんです。だってマシュー・ボーンやウェイン・マクレガーを見たら、誰だって彼らが特別だってことはわかりますよ! 彼らの才能を見逃す人のほうがおかしい。ウェイン・マクレガーに出逢ったときのことは、今でもよく覚えています。それは1990年代に開催された「リゾリューションズ!」の上演演目のひとつで、劇場の照明が落ちて幕が上がると、舞台中央に痩せぎすで不器用そうなスキンヘッドの男性が立っていた。そしておもむろにサックス演奏に合わせて胴をくねらせながら踊り始めた。私は上演中に話すことはほとんどないのですが、そのときは隣席にいた元同僚のレイチェル・ギブソンに「こいつ、凄いじゃないか」とつぶやいてしまった。レイチェルは、「私、この人のこと知ってる。ロンドン市レッドブリッジ区で、ダンス・アニマトゥーア(振付、ダンス、教育のすべてを担うダンス専門職)として働いている人よ」と返してきた。ウェインはまだ大学を出たてでしたが、私はすぐに「ザ・プレイスのアソシエート・アーティストにならないか」とオファーしました。彼はそれを快諾してくれて、現在まで続く自身のカンパニー「ランダム・ダンス」をザ・プレイスで設立しました。

──最後に、もし仮に、あなたにダンス・プロデューサーとしての特異な能力があるとするなら、それは何だと思われますか。
 正統なダンス教育を受けなかったことでしょうか。やはりバレエなどの教育をきちんと受けたプロデューサーは、作品を見る際に「技術力」に目がいってしまうようです。でも自分にとっては、どれほど技術力が高い作品でも、退屈なダンスは退屈にすぎない(笑)。私はちょうどインディペンデントなダンス・シーンが英国で活性化する時期に、ダンス・プロデューサーとして働けて幸運だったと思います。DV8カンパニーのロイド・ニューソンからホフェシュ・シェクターに至るまで。多種多様な才能を、ザ・プレイスを介して英国ダンス界に紹介することができた。とにかく私の願いはただひとつ、英国の若い才能に門戸を開きたかったということです。そして今は欧州の若い才能を、Aerowavesの活動を通じて世界に紹介したいと思っています。
 
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