The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
橋本隆雄
Profile
橋本隆雄(はしもと・たかお)
大道芸プロデューサー。東京都ヘブンアーティスト計画審査員。
中央大学法学部卒業。音楽・演劇の企画制作プロデューサーを経て、1986年にスタートした「野毛大道芸」に制作として参加。89年から95年まで野毛大道芸総合プロデューサー。以来、「三茶 de 大道芸」「ひたち国際大道芸」「ヘブンアーティストTOKYO」「高円寺びっくり大道芸」など大規模な大道芸フェスティバルを次々に立ち上げる。



高円寺びっくり大道芸2010(2010年5月1日、2日/東京都杉並区)
高円寺びっくり大道芸
高円寺びっくり大道芸
高円寺びっくり大道芸
高円寺びっくり大道芸
高円寺びっくり大道芸



橋本さんが手掛けたフェスティバルのパンフレット
Presenter Interview
2010.7.8
Making “the whole town a stage” around the country - The man behind Japan’s street performance festivals 
日本各地の“町を劇場に” 大道芸フェスティバルの仕掛け人 
立ち上げメンバーとして1986年に「野毛大道芸」をスタートしてから四半世紀。「三茶 de 大道芸」「ひたち国際大道芸」「テアトル・ド・リュー東京(現在、上野公園で行われている「ヘブンアーティストTOKYO」の前身)」「高円寺びっくり大道芸」などを次々とプロデュース。審査会に合格したアーティストにライセンスを発行し、都有地などを活動場所として開放する東京都の「ヘブンアーティスト」制度の創設や、若いアーティストの海外派遣にも尽力してきた大道芸界の仕掛け人、橋本隆雄さんに四半世紀の歩みを聞いた。
(聞き手:神山典士[ノンフィクション作家])


──橋本さんが1986年から行われている横浜・野毛の大道芸フェスティバルの立ち上げに関わられてから四半世紀になります。そもそもどんなきっかけから大道芸のプロデュースをされるようになったのですか。
 「野毛大道芸」を始めた当初は、町の中に珍しいヤツを集めるとお祭りになって面白いんじゃないかという程度の思いでした。当時パリからIKUO三橋さんというパントマイマーが帰国してきて、彼を中心に仲間と数人で始めました。
 私は大学を出て大企業に勤めていましたが、大きな組織が性に合わなくて3年で辞めた。焼鳥屋に住み込みで働いて、その後、野毛に自分の店を出して1987年頃までやっていました。二足のわらじで、店をやりながら演劇やジャズのプロデュースもしていました。来日した欧米のジャズ奏者や芝居の役者たちがたくさん店に来ていましたね。
 時代は70年代の前半、随分と色んなことをやりました。小劇場が盛んに活動をしていた頃で、天井桟敷の寺山修司さんや早稲田小劇場の鈴木忠志さんなどとも交流がありました。自由劇場の串田和美とは小学校の同級生でした。そういう仲間に声をかけて、横浜をコンテンポラリーな過激な都市にしようと随分いろんなことをやりました。私はストレンジャーですから、横浜に来て、横浜で商いをしていることがすごく嬉しくて、ここを起点に何かを立ち上げたいという思いがありました。
 当時、野毛はまだあやしい町で、大喧嘩があって血まみれのヤツがいたり、事件が起こったり、「野毛のプータロー」という言葉があるくらい、浮浪者もゴロゴロいたような町でした。本当にエネルギッシュというか、アナーキーな町で、川には曳船が浮かんでいて、銚子のほうから船を仕立ててやって来た男たちがそこに住んで港湾作業をして、仕事が終わるとまたその船で帰っていく。そんな何か気持ちのワクワクするような町でした。だからこそ、色んなことができた。その最後の段階で、大道芸をやろうと思ったんです。

──現在、橋本さんは、「町を劇場に」というキャッチフレーズでいろいろな大道芸フェスティバルを各地で展開されています。そうした考え方は野毛を立ち上げた頃からありましたか。
 そんなことは思ってもいません(笑)。その頃の私の気持ちは、「大道芸は風俗だ」ということ。だから、ただハチャメチャに道を騒がすような奴らで町を埋めたいというイメージで、それはそれで良いなあと思っていました。
 演劇の世界とも関わりが深かったので、面白い芝居をつくるのがどれほど大変かよくわかっていましたから、芸人たちが道にいたからといって町が劇場になるとは思っていない。ただ、町の景色を変えて日常をちょっと飛び越える──いわゆる稀人が町に溢れる状況をつくりたかった。言ってみれば、中世の再現みたいなものです。応仁の乱で無秩序になった京都のような、鎌倉時代の文化や風俗を描いた一遍上人絵伝に出てくる町みたいにすれば、カオスになっていいなと思っていました。
 そもそも日本の大道芸の歴史を遡ると、最初はいわゆる風俗でした。江戸時代に車善七(くるまぜんしち)の下にいた非人たちの生業でした。車善七は、浅草を本拠地として全国を統括したという穢多頭(えたがしら)の弾左衞門の下にいた非人頭が代々受け継いだ名前です。吉原のすぐそばに車屋敷とよばれる広大な住居を構えて、300軒を超える非人小屋を統括して、大きな勢力をふるっていました。その支配下に乞胸(ごうむね)という身分の人たちがいて、これが大道芸人たちでした。乞胸は江戸時代の秩序として生みだされた差別用語です。伝来の大道芸の技は父子相伝ですが、これを鑑札で伝統的にもらったのが乞胸です。
 乞胸は、どうしても被差別的立場に自分を置きますから誇りも何もない。居合抜きや、南京玉すだれ、おででこでん(一種の奇術)などが芸の品目です。旅回りをする傀儡、越後獅子、猿回しなども乞胸です。日本の大道芸は基本的にはこうした身分制度の中で生まれたものといっていいと思います。

──それに対してヨーロッパではどういう成り立ちだったのでしょうか。
 ヨーロッパももちろん同じです。ブレヒトの『三文オペラ』には、ピーチャムという乞食の大将がでてきて、乞食商会の生業として芸をさせたりしている。ヨーロッパでは10世紀ごろから、移動する人々がたくさん出てきた。巡礼、騎士、修道士、十字軍、農地開拓民などです。その中に乞食と芸人がいた。これは乞胸と同じような鑑札制で、ドイツ語で「ツンフト」という、ギルドのような排他的な集団をつくり、乞食は乞食で、芸人は芸人で誇りをもってその技術を競っていた。放浪の楽師みたいな人や軽業師系の人もその中にはいて、11世紀ごろからジプシーも入ってきました。そういう集団の中からジャンプアップして、音楽家のようにプレステージの高い所に行く人ももちろんいました。
 そういう歴史を背負っている大道芸ですが、それとは異なる出自の人たちが1970年代から活躍をはじめます。きっかけとなったのは70年代のヒッピー・ムーブメントです。ベトナム戦争に反対し、大国主義に反対して旅をしながらヒッピーになった。彼らはフォークソングを歌うだけでなく、歌は下手だけど芸ができるヤツがいて、それがジャグリングなどをはじめた。80年代初めから、彼らは日本にも来るようになり、すごく人気がでました。これには相当知的レベルが高い人が含まれていて、私も、ハーバードやケンブリッジ大学出身のジャグラーを知っています。彼らの登場は現代でなければ起きない現象で、ツンフトのような放浪せざるをえない運命や、フェリーニの『道』に登場する旅芸人ザンパノやジェルソミーナのような貧しさはない。ジャグラーのような奇人変人が野毛に集まるだけで相当見応えのある出来事になる、なんてことをみんなで話し合って始めたのが「野毛大道芸」でした。

──それが世界を視野に入れるようなフェスティバルの方向性に変わってきたきっかけは何ですか。
 野毛大道芸の頃から、芸人たちは外国からも出入りしていましたから、大道芸は国際的な共通項のある出来事なんだということにはとっくに気が付いていていました。カナダで大道芸人が集まって出来たサーカス団がすごく面白いということを聞いて、88年か89年ごろ、パリにたまたま遊びに行った時に、そのシルク・ド・ソレイユを見ました。それは今までのサーカスのあり様とは全く違ったものでした。その時にフランスにはヌーヴォー・シルクという、伝統的ではないサーカスの形があることも知りました。前々からサーカスには興味があったので、ボリショイ・サーカスや木下サーカス、関根サーカスなどはある程度見て研究していましたが、フェリーニの『道化師』に出ていたフラテリーニのような、味のある古典的な我々の知っている芸とは全く違う、新しい潮流が生まれていて大道芸人たちにもチャンスがあると感じました。
 それでIKUO三橋さんがプロデューサーを辞めて私が引き継いでから、まず90年にモントリオールのジャズ・フェスに行きました。昔からジャズのプロデューサーをやっていましたから、ジャズマンは知っています。彼らの話では、ジャズフェスの期間中、街中は大道芸フェスティバルになるとのことだったので、これはもしかするとチャンスがあるかもしれないと思ったのです。行ってみると案の定その通りだったのですが、知り合いがいるわけではない。大きなテントが本部だと聞いたので、朝から晩までテントの斜め前、同じ場所に座り込んでいました。すると向こうから「お前は何者だ」と言ってきたので、シメシメと(笑)。たくさんもってきた野毛大道芸の写真を見せました。
 彼らに色々聞きながら、アメリカ人のレベルの高いアーティストや、シルク・ド・ソレイユの凄い芸人たちなどとあっという間に知り合いになった。当時のシルク・ド・ソレイユは、まだ大企業化する前で、セントローレンス川の川辺に大きなテントを張っていました。今も社長をやっている創設者のギー・ラリベルテや、総合演出をやっている天才ギー・キャロンもいた。彼はフランスの国立サーカス学校「エコール・ナショナル・ド・シルク」の初代校長でした。その頃からフランスのヌーヴォー・シルクが隆盛してきて、大道芸もそのあたりから一気に芸術的な方向に流れていきます。
 フランスの新潮流は、86年、南フランスのオリヤックの大道芸フェスティバルにフランス文化省や外務省が力を入れて、「テアトル・ド・リュー(道の劇場)」と名付けたのが始まりでした。政府が資金援助して、アーティストの育成も始めました。私も随分フランス政府には支援してもらうことになりますが、そうした国際的な大道芸アートの機運が高まったのは、80年代はじめからでそんなに古いことではありません。

──そうすると、国際的な大道芸の潮流が始まるまさにその前夜から、橋本さんは野毛を皮切りに日本で大道芸を広め始めていたことになりますね。
 本当にたまたまなのですが、不思議なもので、オリヤックと野毛は同じ年に始まっていますね。ですが、もちろんフランスの方がこの流れは大胆でした。フランスでは、81年にミッテランが大統領になり、ジャック・ラングが文化大臣になった。彼はダイナミックな人で、「芸術家は街へ出なければダメだ」みたいな議論を展開した。
 劇場には邪魔な制約があるでしょ。許認可もあるし、水や火が使えない規制もある。ダイナミックに洪水のように水が流れる作品とか、そういうものは劇場内ではできません。ところが大道芸の中からは、そういうダイナミックな作品がたくさん出てきたんです。中でもロワイヤル・ド・リュクスが一番大きな成果を上げました。また、PLASTICIENS VOLANTSは、大きなバルーンとオペラの四重奏、その上でサーカス的なことをやるといった総合的な作品で成果を上げました。まさに野外だからできることです。
 さらに究極の成果がフィリップ・ドゥクフレで、彼はアルベールビル・オリンピックの開会式も仕切っちゃった。そんなことが普通の出来事になると、ジャグラーを見て「これがアーティストか」なんて言っている場合じゃない(笑)。今さらこざかしく、文化だ、文化じゃないなんて議論はしたくないけど、日本でも世界でも、基本的に被差別社会に属していたものが、復権というか、自分たちのアートを高らかに謳歌する時代がきたということだと思います。

──野毛は長く続けるつもりでスタートしたものなのですか。
 もちろん続けるつもりでした。始めたものはつぶさないのが私の人生だから。けれど、やっていくうちに色んなことがあって。町がどのようにこういうフェスティバルに関わるのかとか、風俗のレベルからアート化していく方向性の問題とか、岐路はたくさんありました。
 私は、当初は風俗でいいけれど、世界的な潮流を見てもどこかで脱皮していって、最終的にはアーティスティックなフェスティバルになっていかなければいけないと感じていたんです。最終的に地域のプレステージを上げ、この地域の経済を活性化するための大きなイベントになるには、やっぱり“アート”に脱皮できなければダメだと。そうしたら92年に、日仏会館から「イロトピーをやらないか」と話がきた。イロトピーは、その当時最も過激なフランスのパフォーマンス集団でした。役者のほとんどが学者や博士。私はそういう前衛ものは大好きでしたから、すごく喜んで受け入れました。
 彼らは1つ1トンもある荷物を5個も持って来た。大きな檻の中に白塗りの人が入って、ある人はお風呂に入っていたり、ある人はコーヒーカップにコーヒーを入れていたり、日常の暮らしをしている。そうしたら突然に発泡スチロールが沸いてき、役者の身体は発泡スチロールに固められて身動きができなくなる。するとやおら大工道具をもった人が手押し車に乗ってやって来て、ノコギリで一人一人を切り出し、手押し車に山積みしてゴロゴロ押して戻っていく。すごく面白く刺激的な4時間半の作品でした。ある日の生活を切り取った作品だから、1日の生活の中の、様々な場面の感動がアートなんだ、という作品でした。
 もう1つのショーは、女2人と男3人が真っ裸になって、5色に塗って街中を歩いちゃう(笑)。野毛の前に池袋の、ちょうど東京芸術劇場の前の広場を歩きました。そしたら大騒ぎになっちゃって(笑)。その後野毛でやって、京都、仙台でも公演しました。大きな荷物を通関して、運搬して。そのすごい経費を全部フランス側が払ったんです。翌年はペシェ・クルド、その翌年はテアトル・ド・ユニテと、その類の面白いのをすべて野毛でやりました。

──素晴らしい成果だと思いますが、野毛の街や行政との関係はスムーズだったのですか。
 その点が大変でした。イロトピーなどが来日したのは92〜94年頃だったのですが、その時点で私の心と野毛は完全に離れてしまっていました。私はアートフェスティバルにしちゃうつもりだったから、最先鋭のものをもってきた。でもお笑いじゃないから、大道芸人が一輪車で上手くやって笑わせたとか、そういう次元じゃない。それに対して野毛の側は旧態依然のものをやりたい。イロトピーみたいなものをやるわけですからスタッフの仕事量も大変で、不満もたまっていた。
 それで96年には野毛のプロデューサーを他の人と交代しました。その頃にはもう、三軒茶屋の「三茶de大道芸」や日立市の「ひたち国際大道芸」を始めていました。それらは最初から“アート”を目指したものでしたから、私のヴィジョンをそのままぶつけられた。特に三軒茶屋の場合は、世田谷パブリックシアター開館の2年前から芸術監督の佐藤信さんから相談を受けて、いろんな偉い人がいる会議でとうとうと大道芸のアート論を打ってはじめたものです。
 ──文化施設は基本的にはスノッブすぎる。偉そうだ。世田谷パブリックシアターは、三軒茶屋という普通の商店街の中に突然にょきにょきと劇場ができるのに、「ヴォイツェック」だとか「ゴドーを待ちながら」とか、頭が破裂しそうな、普通のじいちゃんばあちゃんが嫌いなのばかりだ。これだけじゃしょうがない。演劇に特化するためにもまずは市民との架け橋が必要だ。そこは私に任せろ、と──
 そう言って、オープニングの年に大々的に行ったのが「三茶de大道芸」だったんです。
 日立市にもまた色々な事情がありまして、日立シビックセンターという施設があって、ここが否応なしに何かをやらなければいけない。そこで行政から声がかかったんです。日立は2つの町が合併したすさまじく広い市なのですが、その広いところを使って大道芸というアートの風が流れるフェスティバルをつくろうということになりました。

──そういう取り組みの中で、先ほど仰った「地域の経済化」はどのように目指されたのですか。
 そもそも文化はお金を生むと考えなきゃダメなんです。そこが一番重要なところだと思います。
 地域を経済化するためには、文化的な資質を持った市民を抱えた磁極のある都市をつくらないとダメなんです。極論を言えば、そういう人々がテレビを離れて、文化的事業に自分のお金を使う。そういう人々を育てるのは大道芸しかない、というのが私の持論です。
 大道芸の文化レベルが上がれば上がるほど、人々はチケットを買わずにコンテンポラリーなレベルの高いアートにぶつかることができる。そこが大道芸の使命だと私はずっと言い続けています。人間というものは本当に正直で、一度レベルの高いものを見たり聞いたりしてしまうと、もうその下のものには反応しなくなる。高いレベルのものを貪欲に要求してくる。それを少しずつ手を変え品を変え、見せ方を変えて続けていくと、来場者はうなぎ登りに上がっていきます。
 そういう人たちをタダで帰すようでは都市ではない。必ず財布を持ってくるんですから…。私はよく言うんですが、「フェスティバルには最低でも10万人は呼んでやる。彼らに一人千円使わせれば1億円でしょ?」って。2千円なら2億円。そうするためには、より豊かな形式と、よりやさしい心遣いを都市が持たなければならない。それを持つために日常的に市民が切磋琢磨するしかないし、それによっても都市は自ずと経済化する。だからアートは経済化だと言っているんです。三段論法できっちりした論理でしょ(笑)
 フェスティバルを企画したら、出演者は私が選びに選んで国際的な知名度も実績も上げるから、あなた方はただひたすら美味いものをつくったり、ニコニコする練習をしなさいと言っています(笑)。
 そのためには、お客様を受け入れるためのシステムづくりが必要です。例えば屋台もテキ屋にやらせては意味がないから、「屋台創設委員会」とかをつくります。日立も三軒茶屋もそうしています。高円寺はまだ2年目だからこれからつくります。
 それぞれの地域でそういう組織をつくって、どうすれば人が喜んで財布を開いてくれるかを考えていかなきゃならない。フェスティバルは“文化”がベースですから、彼らのアプローチも当然文化が根底に必要で、テキ屋と同じやり方ではダメ。我々が提供するものは、思いを込めて創造し、かつきっちりトレーニングしたものでなければいいものにはならないですから、それを見極めて、厳選していきます。
 場所の設定も大切です。それぞれの都市は成り立ちが違います。一筋縄ではいきません。高円寺では、青梅街道から早稲田通りまでを「場」にしました。「バカじゃないの?」と言われそうだけど、そこに縦横に走っている商店街を回遊するフェスティバルにしました。街の景色に合ったアーティストが角角にいて、広場ではスペクタクルなパフォーマンスを行い、ちょっと移動したらクラシック音楽が響く通りもある。その回りにはたくさん良いお店があるので、10万人が来て千円落とすと、1億円の売り上げになる。

──高円寺は今年2回目ですが、この町を選んだ理由は何でしたか。
 私は、大道芸フェスティバルは文化センターのある町でしかやりません。高円寺の場合は、座・高円寺という劇場があってそこの館長の斎藤憐さんが三軒茶屋の大道芸を見て、ウチでもやってください、というので引き受けました。座・高円寺がなかったら、私はいくら頼まれてもやりませんでした。
 つまり、アートの流出口が必要なんです。基本的には<ここ(劇場内)>の情報が<こっち(町中)>へ流れ出て、また劇場に還っていくという構図だと考えています。私が言っている大道芸は、例えば劇場、テント、スタジオなど、さまざまな芸術表現が行われている場所で行われるべきものを外で行うということなので。ですから、劇場に収まりきれないものは別として、還っていくべき劇場がある町でしかやりません。
 富山のオーバードホールのような、商店街とは離れた場所のホールもありますが、オーバードを取り囲んで、劇場の内外が混沌とするということをコンセプトにしてやっています。最終的にはオーバードの舞台の上に大道芸人もお客さんもみんな一緒に上がってもらって、車座の真ん中で中国雑伎団のパフォーマンスのようなものを至近距離で見てもらうとか。それからセネガルのジャンベ奏者8人と日本の一線級のジャズミュージシャンの共演によるコンサートとか。それらはみんな大道芸なんです。

──野毛から始まって四半世紀で日本の大道芸のシーンには大きな変化があったと思いますが、その最たるものはなんだったでしょうか。
 それは、東京都が始めた「ヘブン・アーティスト事業」です。これは、都が実施する審査会に合格したアーティストにライセンスを発行し都立公園などの公共の場や民間の広場などを活動場所として開放するものです。大道芸フェスティバルは、フェスティバルという日常の特例だからできたところがあります。ところが東京都のヘブン・アーティストは違う。これは世界的に見ても他にはないものです。
 そもそもこの事業は、東京都の思いつきが出発点でした。早い話が、地下鉄の駅に芸人を出したら面白そうだという程度のものです。都知事の石原慎太郎さんは“面白そう気分”で色んなアイデアを口にされます。現場はそれを形にしなければいけないので、ある時、東京都から大道芸をやりたいという相談がきました。東京都としては、目黒庭園美術館でやりたい、入場料もとるという話でしたが、私には承伏できなかった。そもそも大道芸は入場料を払って見せるものじゃない。私は、上野公園で無料でやれないのなら一切手を引くと宣言しました。
 当時上野公園は、大道芸人たちを締め出していました。そもそも東京の大道芸人たちにとって、かつては原宿の歩行者天国が一つのメッカだったのですが、竹の子族と一緒に締め出され、上野公園に移っていった。ところが上野には芸人だけでなく、代々木公園で偽造テレカ等を売っていたような売人たちも移ってきたため、警察は芸人も売人もいっしょくたで全て締め出した。97年頃のことでした。
 けれど上野公園は、新しい世代の大道芸人たちにとっては故郷ともいえる場所でした。野毛のフェスティバルから約15年が経ち、世代交代した新しいタイプの芸人たちがデビューしたのが上野公園でした。昔の大道芸人の変なコンプレックスを引きずっていない新しいタイプの人たちにとって、上野公園は回帰すべき場所だったんです。
 上野公園を追われてから、彼らは渋谷の駅前や新宿の歩行者天国で演じていました。この2つの場所は無認可でしたから、警察の取締の対象です。みんな一度は捕まって、始末書を書いた経験があります。そういう話を聞いていたので、平和な上野公園でできるように何とかならないかと思っていました。それで東京都と掛け合ってこぎ着けたのが、2001年の「テアトル・ド・リュー東京」です。
 ここにもいろいろな裏話があります。このイヴェントは4日間やりましたが、知事が10分間だけ視察に来るというのでその歩くルートを調整した。こっちは「10分で帰してたまるか」(笑)と思っていたので、芸人たちに役割を与えて次々と知事にアタックしてもらった。その辺が石原慎太郎という人の魅力だと思いますが、喜んじゃって、結局、視察が2時間になっちゃった。それで翌日もスケジュールを調整して見に来られた。
 初日の視察の間に、私は知事に「日本にも歩行者天国はたくさんあるけれど、そこにはアーティストや芸人がいない、ただ交通を規制して人が歩いているだけ。こんな悲しい話じゃ、世界の文明大国とは言えないと」と話した。そうしたら、それはそうだ、何とかすると。
 それで翌日の視察のために東京文化会館のところに知事をお迎えに行ったら、突然、「君、名前はパラダイス・アーティストとかヘブン・アーティストでいく!」なんて言い出した(笑)。きっと歩行者天国から名前を付けたんだと思いますが、ここぞとばかりに「それは素晴らしいですね!」と言いました(笑)。
 それと私が知事に言ったのは、クオリティが大事だということでした。例えば、上野公園に大道芸人なら誰でも来ていいということになったら、デキの悪い順、だらしない順に埋まって、本当にアーティストと呼ばれるような人の場所がなくなるのは十分に予想できることでした。実際にかつての原宿がそうだった。はじめは結構いい大道芸志向の人たちが集まっていたのですが、そのうち竹の子族のような子供たちばかりが集まってくるようになった。そうするといい芸人ははじき出されて行き場がなくなる。
 パリのポンピドーセンター前の広場も80年代〜90年代初頭は本物のアーティストが来ていたのですが、そのうち投げ銭目当ての移民のエスニック奏者などが団体で来るようになり、場所を占拠してしまった。ロンドンのコベントガーデンも、アムステルダムのライツェ広場も似たような状況になりました。
 その二の舞にならないためには、何らかのルールをつくらないと、悪貨は良貨を駆逐するという状態になってしまう。反対の人もいるかもしれないけど、絶対に審査をして、あるレベルに達した人にライセンスを発行して、きちんと大道芸をやるという仕組みをつくらないといけませんと知事に進言しました。そしたら知事もそれはそうだと。ただ、審査員がお前一人だと独裁になっちゃうから、もっといろいろな人に関わってもらうおうということで審査制度ができました。
 東京都のシステムのすごいところは、やはり都道府県単位だということです。ローザンヌやモントリオールにも似たような制度はあります。「大道芸人歓迎」で、まず市役所のタックスオフィスに行って税金を払ってハンコをもらい、次に警察に行って許可証をもらい、自分の好きなところで芸ができる。でもローザンヌでも、どこか1本の通りが解放されているレベルです。市内全域、どこでもいいわけではない。
 ところが東京は都全域です。都の所有地でそこに管理者がいることが条件ですが、今は50数箇所の公園や建物前の広場で演技することができます。東京芸術劇場の前もそうですが、博物館の前、再開発する前の土地など、色々な場所があります。
 こんなダイナミックなシステムは世界で東京都だけです。現在、ライセンスをもっているヘブン・アーティストは350〜60人いますが、いつやりたいかを都に申請して、都はその管理者に通知して、道具などは管理者が預かっているものを使って演技をし、終わったら返却して帰ってくる、というのが1つの流れです。何組か組んで動けば、例えば3人いれば3時間枠を取れるので、その中でいろいろな工夫をしながらパフォーマンスをしています。
 特に上野公園は、いつでも見られる場所として今では一番人気のある場所です。あの周辺には都の文化施設、博物館や美術館、文化会館が集約されています。そういう場所を訪れる人々は文化的な好奇心のある人なので、大道芸というものに対しても、意外とすんなりと立ち止まって喜んで見てくれています。

──芸人たちの状況もずいぶん変わってきたのでしょうね。
 その通りです。初年度にライセンスを得た芸人は70数組。以後は大体、音楽を入れて年35、6組を増やしています。これは終生ライセンスで、1年に1回パフォーマンスをして都に報告すれば更新されることになっています。ちょっと役所的な面はありますけど、やはり我々の思いとしては、場所は提供する、便宜も図る、だから1度くらいはあなたたちの最高の芸を都民に見せてくれ、ということです。
 アーティストの活動環境も、色んな意味で、ヘブン・アーティスト以前と以後では大きく変わりました。たとえば静岡や横浜など、日常的に大道芸人がたくさんいるような町もいくつかできてきています。例えば横浜のみなとみらい地区は、本当に365日大道芸人がいます。これはみなとみらいの許可証が必要です。山下公園でもやってますが、こういう所では、もう昔ながらの芸では通用しません。世界の潮流でもありますが、内容的にもクオリティ的にも、昔ながらのレベルでは闘いきれません。
 それから、若い芸人たちがたくさん出てきています。今年も東京都では7月に書類審査をし、9月にオーディションをしますが、年齢層がどんどん下がっている。新しい人生の生き方として、どこかでお定まりの生活は嫌だと思っていた子どもたちが、自由な芸の世界に進出してくるのは当たり前のことです。私も小さいころから性格は大道芸人でしたが、まだまだ古い時代でしたから親の期待どおり大学まで行っちゃったけど、行ってなきゃよかったって思いますよ(笑)。

──フランスには国立のサーカス学校がありますが、日本にはそういう国立の養成機関はありません。みんな、どうやってこの道に進むのでしょうか。
 色々ですが、大学や高校に大道芸クラブ、ジャグリングクラブがたくさんできています。そこに所属する子たちは、最初に技術に対する興味があってはじめますが、人前でその技術を見せているだけではアートではない。それを使って自分に内在する何かの衝動を見せることがアートですから、そこに意識を転換してもらうためには、やはり直接話をして指導しなきゃならない。ヘブン・アーティストに合格した子の中から、将来性のあるこれはいけると思った子には私から声をかけて、徐々に育成しています。海外のフェスティバルにも紹介しています。

──彼らの生活環境、状況も変わりましたか。
 日本国内には、クオリティは別として、ちょっと大道芸人を呼んでギャラを払うというフェスティバルは何百もあります。それを渡り歩いたり、空いた時間は街中で大道芸人をやったりして、みんな結構ちゃんと食べています。そういう経済的な環境づくりもある程度出来上がってきたかなと思います。
私のプロデュースしているフェスティバルだけを見ても、年間に11あります。他にも大きなものがありますので、全部で二十数箇所にはなる。そういうところにデキのいい芸人をキャスティングしています。
 投げ銭に関しては、東京は今はOKですが、それぞれの地域で縛りは違います。でも一応私がやる場合は、投げ銭は取らせます。もちろん、アートを指向する芸人たちは、それを目的にしているわけではありませんが、ひとつの文化だと思うので。
 投げ銭を取るための芸というのを少し説明しておくと、分かりやすいのは、投げ銭入れたら火を噴くぞと言って、5回くらい入れさせておいてからと火を噴く、とか。それを繰り返す芸人たちもいます。でも私がやっているフェスティバルでは、そういうあざといことはやらせない。大道芸の見物客は大体立って見ますから、我慢の限界というのがあって、長くても20分ほどしか同じ場所にはいません。座っていても40分ぐらいで飽きます。フレッシュに観客を引きつけられる1番良いタイミングは7分です。ですから投げ銭が目当てなら、大体7分単位で芸を終わらせて、投げ銭をとれば効率がいいわけです。けれどフェスティバルでは20〜30分くらいのちゃんと演出された仕組まれたショーを出場の条件にしています。いわゆる投げ銭取りには良い環境ではありませんが、目の肥えた観客は本当に良いアーティストたちに対してはきちんと投げ銭を入れています。
 今では真剣にやると、投げ銭は結構入りますし、フェスティバルの出演料も入るので相当な収入になっているのではないかと思います。一番スゴイ例でいうと年間で950回ぐらいショーをやりますから。

──そういう東京の取り組みはしっかりと世界に伝わっているのでしょうか。
 東京都はヘブン・アーティストのDVDを出しました。登録アーティスト全員ではないですが、170組ぐらい紹介しています。担当している生活文化局はかなり真剣に大道芸に取り組んでいると思いますが、ヘブン・アーティストが世界的に見てどのぐらい凄いことなのかの認識がない。フランス大使館の人と都庁を訪ねたのですが、ヘブンのことが話題にでない。これだけのことをやっている国はないんだから、もっと宣伝すればいいのにと思います。

──ヘブン・アーティストが日本国内でも認められ、さらに国際語になるためには、まず都民に誇りを持ってもらうことが先決ですね。
 そういうことです。上野公園で毎年やるようになった「ヘブン・アーティスト東京」には、その時点の最新鋭の芸人たちが来ています。世界の最先端のコンテンポラリー・アーティストを7〜10組呼んで、そこで日本のアーティストと競わせている。開催は毎年10月の第4土日です。今年の出演は総勢150組ぐらいかな。ヘブン・アーティストで出たいと思っている人は断らないで全員参加できるようにしています。世界的に見ても類のないフェスティバルなんです。
 私は明日からフランスのノンテールという町のフェスティバルに9人の日本人アーティストを連れて行きますが、英文のパンフレットを配布して、講演でもヘブンのことを喋ります。これまで私はヘブンのことを、韓国、中国、シンガポール、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、スペイン、イギリス等々、行く先々で話してきました。世界の芸人さん達が東京都のヘブン・アーティストを羨ましがっているんです。
 そのことを東京都民にも日本中の人にも、もっともっと知ってほしいと思っています。
 
TOP