The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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アルベルト・リガルッピ
Profile
アルベルト・リガルッピ氏
Mr. Alberto Ligaluppi

ブエノスアイレス市シアター・コンプレックス統括館長
ブエノスアイレス市シアター・コンプレックス
Complejo Teatral de Buenos Aires
http://www.complejoteatral.gov.ar/
ブエノスアイレス市シアター・コンプレックス
*1 アルゼンチン軍事政権
1976年3月、軍事評議会のクーデターによりホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が大統領に就任、軍事政権が樹立された。反体制派に対して非合法的な手段で弾圧し、3万人余りの若者たち(その大半が、14歳から26歳)が、強制連行、拷問、殺害などで行方不明になった。英国と戦ったフォークランド紛争(マルビーナス戦争)で敗北し、民政移管選挙が1983年に行われた。
*2 アルゼンチン経済危機
大胆な新自由主義を導入して鉄道、鉄鋼、電話から水道、ガス、電気のインフラにいたるまで、次々と民営化し、1ドル=1ペソ兌換法を導入してハイパーインフレを収束させた。欧米やIMFから新自由主義の優等生と呼ばれたが、中間層の没落、失業者の急増、赤字と対外債務の増加により、経済を悪化。ついに、2001年12月対外債務のデフォルト(支払い停止)を宣言した。経済破綻直後、銀行からの預金引き出しが制限され、ブエノスアイレスでは大規模なデモや抗議行動が起こった。
Presenter Interview
2012.5.1
An inside look at the surprising world of Argentine theater 
アルゼンチンの知られざる劇場事情に迫る 
アルゼンチンの現代舞台芸術の状況ついては国外にあまり知られていない。1983年の軍事独裁政権崩壊後、文化シーンは徐々に息を吹き返し、経済危機を乗り越えて今大変な演劇ブームを迎えているという。2011年には、アルゼンチン文化省が中心となって、海外からバイヤーを招待し、音楽、映像、デザイン、出版、そして舞台芸術の5部門を集めた合同マーケット(MICA)がブエノスアイレスで開催されるなど、国の文化支援も活発になっている。2月に横浜で開催された国際舞台芸術ミーティングTPAMのために国際交流基金の招聘で初来日した、ブエノスアイレス市シアター・コンプレックス統括館長、アルベルト・リガルッピ氏にインタビューを行った。
[聞き手:比嘉セツ]

舞台芸術の現状について

──アルゼンチンの舞台芸術の現状について教えていただけますか。
 アルゼンチン、特に、首都のブエノスアイレスにおける舞台は、これまでになく活況で、スペイン語圏の世界では、間違いなく独走状態です。演劇が空前のブームなのです。例えば、1週間に上演される演目は、ブエノスアイレス市だけで400作品にも上ります。これは、ベルリンやロンドンと比べても遜色ないと思いますが、週末(木、金、土曜日)ともなれば、18時、21時、午前零時の3回公演が行われ、それぞれ違う作品が上演されます。ブエノスアイレスでは、午前零時から舞台が始まるのは普通のことで、そこに足を運ぶ観客がいるのです。午前零時の回で冬にもかかわらず、150人規模の小劇場が満席なので、驚いたことがあります。みな演劇を愛しているのだなあ、と思いました。
 ブエノスアイレスには大小の劇場が数多くありますが、大きく分けて、商業演劇のための民間の大劇場、私たちのシアター・コンプレックスを含む、市立、州立、国立などの公立劇場、そして、独立系の小劇場があります。大劇場はブエノスアイレスのブロードウェイと言われるコリエンテス通りにあり、その周辺に中堅規模の劇場があります。公立劇場は、大規模な古典劇から若手や中堅の劇作家の作品も取り上げるので、観客の年齢層は幅広いものとなっています。若手演出家が小劇場で注目されると、次のステップが公立劇場、そして中規模劇場、最後がコリエンテス通りの大劇場となるわけで、公立劇場が登竜門の役目を果たしているのです。また、最も入場料が安いのも公立劇場です。平均して20ドル前後で、独立系小劇場は25ドル、大劇場は30ドルから40ドルです。

──なぜ、そこまでブームになったのでしょうか。経済的な要因ですか。
 いえ、経済よりも歴史的要因が大きいと思います。1976年から始まった軍事独裁政権(*1)が83年に崩壊し、舞台が徐々に息を吹き返してきたことがその根底にあります。アルゼンチンには、イタリアやドイツからの移民が多く、ヨーロッパ文化から大きな影響を受けてきました。舞台も例外ではなく、人々は日常的に劇場に芝居を見に行く、という文化を持っていました。特にブエノスアイレスでは、1930年代に1,200人規模の劇場で同じ作品が3年間ロングランする、という状況がありました。つまり観客が常に存在していたのです。
 それが、軍事政権で中断されたわけですが、民政移管直後から、90年代初頭にかけてアルゼンチンのドイツ文化センターが本国から新進気鋭の劇作家や演出家を数多く教授として招聘してくれたのです。ドイツの若手演劇人たちの影響は多大なものであり、軍事政権時代の停滞状態に突破口が開かれました。その後、フランスの支援も加わり、アルゼンチン独自の新たな作品が、どんどん生まれ始めました。

──その後、2001年に経済危機(*2)が起こりましたが、演劇の勢いは衰えなかったのですか。
 衰えるどころか、人々は、それまで以上に劇場に出かけるようになりました。あまりに打ちひしがれ、家にいたくない、外に出たい、という心理もあったのでしょうが、劇場はどこも満席状態になりました。そのような経過を経て、今、海外でも活躍する若手演出家たちが出てきたことでより大きな波が来たと言えます。興味深いことに、以前は、演劇を観る若者たちといえば、自ら舞台に関わっているか、アート系の学生だったのですが、今では、経済学部や工学部の学生たちが、実験的な演劇や独立系の劇場に足を運び、ファンになった若手演出家たちをフォローしています。

アルゼンチンの若手演出家たち

──今、最先端をいっている演出家にはどんな人がいますか。

 最も有名なのは、劇作家で演出家のダニエル・ベロネッセです。彼は、元々、私たちの劇場で人形遣いのディレクターでしたが、独立してチェーホフの作品を新たな解釈で演出し、一気にスターダムにのし上がりました。そして、再び、私たちと『かもめ』を基に書いた『Los hijos se mueren』(直訳「息子たちが死ぬ」)を制作し、つい最近、パリで大成功を収めました。その後、スペイン、チリと回り、ブエノスアイレスで凱旋公演を行い、オーストラリアにも行きました。現在、活躍している演出家たちの中には、ヨーロッパ、主にドイツへの留学経験を持っている者が多いのですが、ベロネッセもそのひとりです。

──ベロネッセといえば、2008年に東京国際芸術祭で『溺れる男』が上演されました。
 チェーホフの『三人姉妹』を基にした作品ですね。他の作品もありますが、最も成功しているのが、チェーホフの実験的解釈です。実験的といっても、古典をベースにしているところで人気があるのかもしれません。

──2008年には、横浜でマリアーノ・ペンソッティが日本の俳優たちと『ラ・マレア』という作品をつくりました。
 マリアーノは今、米国を回っています。とても頭が切れる演出家です。他にも今、ブームになっている女性演出家がロラ・アリアスです。彼女は、自らが見た現実を基にオリジナル脚本を書き、ヨーロッパ北部で人気を博しています。またパリで好評なのは、『El tiempo todo entero』(直訳「丸ごとすべての時」)を演出したロミナ・パウラです。これはテネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』の新たな解釈です。ブエノスアイレスでロングランを果たしているマルセロ・ミニンノを含め、70年代生まれ劇作家・演出家たちが活躍しています。

──若手演出家たちは制作資金を自分で調達するのですか。
 アルゼンチンでは、若い演劇人たちの企画を対象に、国の機関であるアルゼンチン国立演劇協会の助成金があります。また、ブエノスアイレスでは市の機関であるプロ・テアトロからも助成金を受けることができます。若手劇作家や演出家を育てるためにとられた枠で、少なくともブエノスアイレスの若者たちは、国と市の両方から同時に助成金を受けることができるという幸運に恵まれています。ブエノスアイレスには、また、とても良い演劇訓練を受けられる大学があるので、アルゼンチン人だけではなく、海外、特にイベロアメリカ諸国からの留学生も数多くいます。中でも国立芸術大学(IUNA)では、演劇の実践を中心に学ぶことができます。今の若手演出家たちは、こういった大学から出て来ています。

──最近の舞台で際立った傾向はありますか。
 テーマが変わってきました。ここ数年、盛んに扱われてきたのは、家族の機能不全、つまり家族が家族として機能しない、できない状況を描くことでしたが、最近、それが全く見当たらなくなってきました。代わって、社会との葛藤を描いたものが増えてきたのです。これは歓迎すべき変化だと思います。アルゼンチンは精神分析医の多さで有名で、すぐれた研究もなされています。スペインやラテンアメリカ諸国の優秀な精神科医や分析医は、アルゼンチン人だと言われるほどで、そういう観点からみても、家族の危機は誰もが抱えている、とてもアルゼンチン的なテーマなのです。でも、そこから社会的テーマに目を向ける若者たちが増えたことは、とても健全な変化だと思っています。
 最近では、また、美術や衣装も変わってきました。これまでは低予算の中で、シンプルなものが多かったのですが、最近、60年代のバロック調が増えてきました。衣装も以前は黒をはじめとするニュートラルなものが優勢でしたが、最近では、60年代の色鮮やかな衣装、装飾がほどこされた衣装が目立つようになってきました。舞台は社会の産物ですが、原点回帰とでも言いたくなるような変化です。

──コンテンポラリー・ダンスの状況はいかがですか。
 まだ演劇ほどの活気はありませんが、何かが始まりつつあるところです。コンテンポラリー・ダンスに関してはブラジルのほうが元気です。アルゼンチンは演劇、ブラジルはダンス、といった感じです。演劇はみなが観に行くし、親子連れもいますが、ダンスに関しては、まだそこまでの観客がいないのが実情です。

ブエノスアイレス市シアター・コンプレックスについて

──イベロアメリカ最大のブエノスアイレス市シアター・コンプレックスについて教えていただけますか。

 シアター・コンプレックスという呼び方になったのは2000年からです。シアター・コンプレックスのコンセプトは、市が所有する劇場を統括し、それぞれの特徴を生かして一貫したプログラムを組んでいくことです。以前は、各劇場が独自でプログラムを組み、劇場同士で競合していたところがありましたが、シアター・コンプレックスになってからは、上演作品や方向性は統括館長と委員会で決定し、各劇場には、運営ディレクターがいて、作品の進み具合や舞台制作の準備などの責任を担っています。
 シアター・コンプレックスは、7つの劇場、400席の映画館、そして、主に実験音楽が演奏される音楽ホールと、そこに隣接したアートギャラリーで構成されています。その大半が同じ場所、14階建てのビルの中にあります。最も古くて大きな劇場が、サン・マルティン劇場で1,200席あります。その他、プレシデンテ・アルベラ劇場、レヒオ劇場と、2つの劇場を持つサルミエント劇場とデ・ラ・リベラ劇場です。コンプレックスのビル内には、オフィスや制作工房もあり、靴から衣装、大道具まで、舞台に必要なものは、すべて自分たちで作っています。1,116人のスタッフが働き、みな、正職員としてブエノスアイレス市から給与をもらっています。
 私は、コンプレックスという名称をやめて、その代わりにサン・マルティン劇場にしたいと思っています。各劇場の名を後につけて、サン・マルティン・リベラ劇場、サン・マルティン・サルミエント劇場といった具合に統一したいと思うのです。なぜなら、サン・マルティン劇場は、歴史があり、アルゼンチンだけではなくラテンアメリカ全体の演劇や劇場のシンボルとして認知度が高いからです。でも、これはまだ秘密で、2012年4月に発表される予定です。

──年間のプログラムは、いつ、どのように決まるのですか。
 年間に上演する約35作品を2月の最終週に発表します。私たちの1年は2月から始まります。アルゼンチンでは12月から2月までがとても暑いので、舞台の主要なシーズンは真夏が過ぎた2月から11月までなのです。上演作品を選ぶ過程は2通りあります。選考委員会からの招待と公募です。前年の4月30日までに誰でも自分の企画を応募することができます。昨年は、300件の応募があり、その中から22の企画を選びました。

──委員会の構成と公募作品の選考基準を教えていただけますか。
 委員会は、演出家を初めとする舞台関係者、ジャーナリストと俳優たちで構成されています。選考基準は、応募されてきた完成台本と配役、舞台美術の基本的なコンセプトを各分野の委員会が、それぞれ評価します。民主的で清廉な選考を行うために、熱い議論を交わし、最終的に各劇場に適した作品を選びます。例えば、2つの劇場を持つリベラ劇場は、コンプレックスビルとは違う場所にあり、港やイタリア人コミュニティに近いので、できるだけ人気のある作品を選びます。一方、サルミエント劇場には、若手演出家たちの、より実験的な作品を選びます。演劇の古典と言われる作品は、毎年、必ずプログラムに入れて、サン・マルティン劇場で上演します。今年度は大規模にシェークスピアの『マクベス』を上演します。このように、各劇場の条件やカラーに応じた作品を選んでいきます。実験的な作品を上演するサルミエント劇場には、若者たちが訪れますが、昨年度は、大劇場のモリエールの作品に有名俳優が出演したことから、普段は年齢層が高い劇場にも若者たちが押し寄せました。

新たなプロジェクトと共同制作について

──統括館長として就任後から新たに行っていることは何ですか。

 まず、ラテンアメリカへの視点を強化し、各国との共同制作を行うこと、演出家と観客の双方に、もっと若者を増やして、活性化を図ること、そして、海外作品の上演や国際的なカンパニーのブエノスアイレス公演を再開することです。

──具体的なプランを教えてください。
 今年度は海外作品を積極的に招聘します。ベルギー、フランス、スペイン、そして、コロンビアからは3作品、チリ、ブラジルからも来ます。また、新たな企画として、若手劇作家・演出家プロジェクトがあります。これは、スペイン・ラテンアメリカの若手劇作家や演出家を招聘し、ブエノスアイレスでアルゼンチンの俳優やスタッフと共に舞台制作を行う企画です。まず、脚本を選び、それから演出家を選考します。今年度は、ブラジルの若手女性演出家とコロンビアの若手演出家を招聘します。彼らがブエノスアイレスに来て、アルゼンチンの役者たちをキャスティングし、彼らを演出する。これはアルゼンチンの俳優や劇場スタッフたちにとっても、かなりの刺激になると思います。昨年度から計画していたチリの演出家、ギジェルモ・カルデロンとの共同制作も、今年度の企画の中に入っています。毎年、同じ時期にラテンアメリカから若手演出家を招聘し、2つから3つの作品をブエノスアイレスで制作し、上演しようという試みです。

──共同制作の体制をとるのですか。
 そうです。特に若手劇作家・演出家プロジェクトは、彼らの出身国が一部を負担しますし、昨年は民間企業と「ハムレット」を制作しました。今年度は、若手演出家と有名女優を起用して、ジャン・ジュネの『女中たち』を制作します。市の予算だけでは限界がありますから、共同制作を積極的に行っています。

──日本でも公開されたアルゼンチン映画『ルイーサ』の主役を演じたレオノール・マンソとも舞台を作っているのですか。
 レオノールは、今、スペインにいます。マドリードで私たちが制作した『Cordero de ojos azules』(直訳「青い目の羊たち」)の舞台に立っています。1月の初演の時には、私もマドリードにいました。レオノールは、アルゼンチンを代表する偉大な女優、演出家、そして私の友人でもあります。不思議なことに、これまで一度もサン・マルティン劇場の舞台に立ったことがなかったのです。今回、演出家として参加してもらおうと思ったのですが、「今は演出したくない」と言われたので、女優として参加してもらいました。

リガルッピ氏について

──これまでの経歴を教えていただけますか。

 最初は絵画から入りました。たくさんの絵を描き、今も私の作品が複数の美術館に残っています。それから演出の道に入り、1985年に初めて演劇祭を立ち上げました。最初は大学の演劇祭、次がコルドバ国際演劇祭でした。当時ラテンアメリカに存在した最も前衛的な演劇を集めたもので、とても重要な演劇祭となりました。それから2年ごとに行われるブエノスアイレス国際演劇祭のディレクターに就任しました。2009年のことでした。演出家のルエン・シューマッハと共に共同ディレクターになりましたが、そこで、統括館長の話がきたので、演劇祭から離れました。

──舞台の演出はもうしないのですか。
 あまり良い演出家ではなかったですから(笑)。ある日、思ったのです。文化事業のすぐれた担い手が同時に演出家であり、画家であることなどできるわけがない、と。そして、すべてやめて、文化事業に専念することにしました。

──現在、コルドバ大学でも教鞭をとられていますが、どんなことを教えているのですか。
 文化事業国際コースの修士課程の学術顧問をしています。国や自治体がどのように文化事業を担っていくか、その人材をどう育てて行くかを教えるコースですが、ブエノスアイレスにいるので、大半のことはネットを通じて行い、学生たちとの対面授業は、年に6回だけです。以前はコルドバに住んでいたので、授業が中心でしたが、今は顧問として関わっています。
 コルドバ大学は、アルゼンチンで最古の大学として有名で、400年以上の歴史があります。この話を引き受けたのは、経済学部から提案が来たからです。もし、芸術学部からのオファーなら断っていたでしょう。芸術の枠外の環境の中で芸術や文化を考えることは、芸術とは何かを考えることになる、と思いました。学生たちは、修士課程を終えると、国や地方自治体の文化事業担当になります。すでに小さな町の文化事業部長になっている学生もいます。学生はアルゼンチン国内だけではなく、ブラジルやウルグアイ、チリなど南米諸国から学びに来ています。どのように文化事業を計画し、予算措置をして立ち上げるか、文化プログラムの作り方から助成金申請書の書き方、企業メセナやラテンアメリカにおける文化支援まで、現場ですぐに適用できるよう、アート・マネージメントを実践的に教えるコースです。

日本との関係について

──日本の舞台で印象に残っているのは?

 残念ながら、数少ない舞台しか見ていません。日本の舞台に関する情報が、アルゼンチンまで入ってこないのです。でも、大野一雄さんの舞台は素晴らしかった。私はかなり熱狂的なファンで、ブラジルのサンパウロまで観に行きました。当時、80年代の作品で『ラ・アルヘンチーナ頌』という、アルゼンチンの踊り子の物語を舞踏で演じられたのです。後にやはりブラジルの演劇祭でご本人ともお会いしましたが、息子さんと一緒におられて、非常に気さくな方で驚きました。私からしたら雲上人でしたから、お話しできて感激しました。あとはドイツ在住の演出家・舞踏家の遠藤公義(ただし)氏を、何度もアルゼンチンに招待しました。日本の情報は、本当にわずかなしか入ってきません。今回の話が来たときも、私が日本に行くなら、日本からも誰かをアルゼンチンに招くべきだと大使館に言ったほどです。

──アルゼンチンの情報も日本には中々入ってきません。
 アルゼンチンの演劇は、ヨーロッパやラテンアメリカで上演されることが多く、フェスティバルというよりは、それぞれの劇場や公的機関などから招聘されるので、日本まで情報が届かないかもしれません。昨日、TPAMに参加している米国人から、アルゼンチンの芝居が米国のオレゴン州で上演されていることを初めて聞きました。普通なら、東海岸や西海岸に行くのでしょうが、その芝居を気に入った演出家が招聘して、米国の内陸部を回っているということです。私たちにも日本の情報が入ってこないので、これを機に、日本の演出家を招聘するなど、何らかの交流が図れればと思います。

──最後に、統括館長として、今後やり遂げたいことを教えてください。
 2つあります。とても大きなことですが、まず、シアター・コンプレックスに80年代のような若さと活気を取り戻すこと。次にサン・マルティン劇場を再び、南米の中で最も毅然とした態度を持つ劇場にすることです。とても野心的な抱負ですが、サン・マルティン劇場は、長い歴史の重みを背負って動けなくなっています。つまり、変化を怖れているのです。サン・マルティン劇場は、その昔、もの言う劇場だったのです。それが、90年代にリベラリズムが停滞したこともあって、静かになってしまった。周りの小劇場では、若者たちが元気に声を上げていたにも関わらず、サン・マルティン劇場は口をつぐんだのです。あの軍事政権下にあった1982年にピナ・バウシュを招聘し、カントールや大野一雄など、当時の最も斬新な舞台を展開して、当局に対して毅然とした態度で立ち向かい、南米諸国から一目置かれていた。あの劇場をもう一度、取り戻したいと思っています。

──日本からも、ぜひ経緯を注目したいと思います。今日は、ありがとうございました。
 
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