The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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クイック・スィ・ブン
クイック・スィ・ブン
Kuik Swee Boon

*1 M1 CONTACT コンテンポラリーダンス・フェスティバル2015 プログラム
・コンティニュウム・ダンス・エクスチェンジ
・ダイバーシティ DIVERCITY
・T.H.E.ダンスカンパニー「トリプルビル:フロム・イースト・トゥ・ウエスト」
・アジアン・フェスティバル・エクスチェンジ
・東南アジア振付家ショーケース Sea Choreographers’Showcase
・インターナショナル・アーティスト・ハイライツ・M1オープン・ステージ
T.H.E.ダンスカンパニー
『オーガナイズド・カオス』
Organized Chaos

(2014年)
振付:クイック・スィ・ブン、キム・ジェドク
不条理で混沌とした世界における普遍的な人間の有り様、社会情勢への呼応がコンセプト。人間の行動を決定づける現在のルールに、批評的な眼差しを向け、理屈と合理性を破り捨てて新たな解釈をダンスとして表現する。
オーガナイズド・カオス
Photo: Kuang Jingkai
オーガナイズド・カオス
Photo: Joseph Nair


※2月10日、11日に横浜ダンスコレクションで上演予定。
http://www.yokohama-dance-collection-r.jp/jp/as2.html
Presenter Interview
2016.2.8
M1 CONTACT  Striving to develop and spread contemporary dance in Singapore 
シンガポールのコンテンポラリーダンス普及と発展を目指すM1 CONTACT 
シンガポールにおけるコンテポラリーダンスの普及をリードしてきたのが、クイック・スィ・ブンだ。ナチョ・デュアトが芸術監督をしていた頃のスペイン国立ダンスカンパニーでダンサーとして活躍した後、2007年に帰国。翌年、T.H.E.ダンスカンパニーを結成するとともに、2010年には自らが芸術監督を務めるM1 CONTACTコンテンポラリーダンス・フェスティバルを立ち上げ。ヨーロッパでの経験と人脈を活かし、シンガポールだけでなく、東南アジアのコンテンポラリーダンスの交流と育成を図ってきた。セッションハウス、横浜ダンスコレクション、福岡ダンス・フリンジ・フェスティバルとも連携するなど、日本とも活発に交流する彼にダンス交流に懸ける思いをインタビューした。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

シンガポールのコンテンポラリーダンス・シーンを育てる
M1 CONTACT


──スィ・ブンさんが芸術監督を務めているM1 CONTACTコンテンポラリーダンス・フェスティバルは2010年にスタートし、2015年は11/26〜12/12にかけて行われました。7つの特徴あるプログラム(*1)が組まれているのがユニークですね。全体のプログラムの説明をしていただけますか。

「コンティニュウム・ダンス・エクスチェンジ」は教育プログラムで、アジア各国のダンス教育を行っている学校に通う、将来プロのダンサーを目指す若い生徒達のためのプログラムです。シンガポールのSOTA(School of the Arts)とナンヤン芸術アカデミー、ラサール芸術大学、オーストラリアからはヴィクトリア芸術大学、韓国の国立芸術大学、ニュージーランド・ダンス学校の生徒たちによる公演を行い、一緒にクラスを受けたりしました。アジア全体で問題意識を持ち、各国のダンス教育のシステム改善について意見を交わし研究する場です。
「ダイバーシティ」は多様性(DIVERSITY)と都市(CITY)をかけた言葉で、シンガポール各地から若手のカンパニーのショーケースを毎日5作品、2日間上演しました。また、「T.H.E.ダンスカンパニー トリプルビル・フロム・イースト・トゥ・ウエスト」はアジアとヨーロッパの振付家がカンパニーに振り付けるもので、私、スペインのイラトクセ・アンサ、インドネシアのジェコ・シオンポの3人が振り付けました。

──私は今回のフェスにうかがい、「アジアン・フェスティバル・エクスチェンジ」から拝見しました。日本からは川村美紀子や香取直人が参加していました。タイトルに「エクスチェンジ(交流)」とあるとおり、「横浜ダンスコレクション」や「福岡ダンス・フリンジ・フェスティバル」「ソウル・パフォーミング・アーツ・フェスティバル」「d'MOTION インターナショナル・ダンス・フェスティバル(マレーシア)」など、アジアのフェスティバルと連携したものでした。
 はい。香取はマレーシアのアミー・レンとのデュオでした。川村は私たちのセカンド・カンパニーに振り付けました。このプログラムでは、アジアの若いアーティストが出会い、互いの考えを知ることが重要だと考えたからです。クリエイションを通して、身体のとらえ方、動きの作り方、その背景にある文化、物の見方といった「ダンス以上の何か」を理解し合えたと信じています。連携するフェスティバルは、どんどん増やしていくつもりです。

──東南アジア振付家ショーケースでは、東南アジアのアーティストが紹介されていました。
 シンガポールのダニエル・コック(Daniel K)、インドネシアのアンダラ・モエイスとモ・ハリヤントらの作品を上演しました。自分が変わるには、周りを変えていかなくてはなりません。シンガポールが属している東南アジアでは特にそうです。だからフェスティバルによって、東南アジアのより多くのアーティストと知り合う機会を提供することが大切だと考えました。

──アンダラ・モエイスが上演した作品は、ローザスが運営しているベルギーのダンス学校P.A.R.T.S.で出会った日本人ダンサーとつくったものですよね。
 そうです。インドネシア・日本・ベルギー・シンガポール──世界はとても小さいですね(笑)。
 それから、「インターナショナル・アーティスト・ハイライツ」では世界中から招聘した最高レベルの作品を上演するというものです。今回はオーストラリアのチャンキー・ムーブと韓国の「R.seダンスカンパニー」、スペインのイラトクセ・アンサの作品でした。また、「M1 オープン・ステージ」では公募によって選ばれた人たちが、2回に分けて10作品(公募7作品とゲスト3作品)を上演しました。このなかから各国のフェスティバルに招聘されるのですが、今回はスペインのマスダンサMASDANZA、マレーシアの国際ダンスフェスティバルd’Motion、ソウルのNew Dance for Asiaに招聘が決まりました。

──フェスティバルの概要について聞かせてください。後で改めて伺いますが、あなたは2007年にスペインからシンガポールに帰国し、翌年カンパニーを設立。その2年後にこのフェスティバルを立ち上げています。ずいぶん急な展開ですね。
 そうする必要があったからです。私が帰国した当時、シンガポールではまだ「コンテンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」という反応が大半でした。その印象を変えるには、カンパニーの活動だけでは十分ではなかった。こうした状況はシンガポールだけのことではなく、近隣の東南アジア全体でもっと国際的な視野からコンテンポラリーダンスについて考え、教育する機会をつくることが必要だと思いました。ですから、初めから“国際フェスティバル”をイメージしてM1 CONTACTを立ち上げました。素晴らしいアーティストに出会うと、人は情熱的になり、他人にも伝えたくなりますから。と同時に、私は常に「ここから何を学ぶことができるか」を自問自答しています。

──どうプログラムすれば良いフェスティバルになるかは難しい問題です。今日では有名なカンパニーを招聘するだけでは十分ではありません。ダンスについて考え、学び、交流するといったサブプログラムが充実していることが重要になっています。
 そのとおりです。前回までは有名カンパニーをプログラムすることは避けていましたが、今年はオーストラリアのチャンキー・ムーブを招聘しました。それは彼らの仕事が良いと思うからで、決して有名だからということで決めたわけではありません。フェスティバルに招聘することで一緒に仕事をする可能性のあるアーティストとの繋がりを広げていきたい。それがアジアの国々にとって、とても重要なことだと思っています。

──現在のチャンキー・ムーブの芸術監督アヌーク・ファン・ディジクはオランダ人で、かつて日本のフェスティバルにも招聘された人です。彼女はチャンキー・ムーブが公募して決めた芸術監督で、オランダの自分のカンパニーを解散してオーストラリアに移住しているそうです。驚きましたが、ヨーロッパとアジアの立ち位置が変化していることを実感しました。
 まさにアジアは激変しています。シンガポールが位置する東南アジアには多くの国が近接していますが、日本から7時間、北京から6時間も離れています。台湾からも遠く、これらの国とはあまり積極的に関わってきませんでした。しかし変化することが必要なんです。だからこそ今は、日本・中国・韓国、さらにはオーストラリアやニュージーランドとも繋がりを持っています。

──フェスティバルのプログラムを拝見して、いまの話を伺うと、あなたのイメージするアジア像が同心円状に広がっていっているのがわかります。まずはシンガポールと隣りのマレーシア、そして様々な国が近接する東南アジア、さらに日本・韓国・中国の北東アジアや環太平洋のオーストラリアと展開する。極めて戦略的だと思います。ちなみに、フェスティバルの予算について伺えますか。
 カンパニーとフェスティバルは、同じスタッフ(フルタイムが5人、パートが2人)が共通の年間予算で運営しています。メインはNAC(ナショナル・アーツ・カウンシル)から52万SGD(約4,300万円)、M1から8万SGD(約660万円)です。M1は電話会社で様々な文化事業を助成しています。あとはチケットセールスと国際交流基金など他国からの資金です。エスプラネードや国立美術館の劇場、ラサール芸術大学なども会場のサポートをしてくれています。


1990年代のシンガポールのダンスシーン

──あなた自身について聞かせてください。ダンスを始められたのはいつ頃ですか。

 私は1973年にマレーシアのジョホール州バトゥパハに生まれました。とても小さな街で、あまり芸術とは縁がなく、私の学校生活も普通に勉強が中心でした。15歳でバトゥパハ舞踊団に入団しましたが、これは中国人コミュニティのためのもので、プロフェッショナルではありません。マレーシアはマレー人・中国人・インド人などからなる多民族国家なので、それぞれのコミュニティで伝統的なダンスを学ぶのです。

──バトゥパハ舞踊団で学んだのはどんなタイプのダンスですか。
 中国の伝統舞踊の要素が入ったコンテンポラリーダンス、といってもマース・カニンガムなどのようなものです。ただ単に伝統を引き継ぐだけではなく、文化が何か新しいものへと発展していく未来が見えて、ワクワクしました。バトゥパハ舞踊団のタン・リアン・ホー先生からは多大な影響を受けました。15歳は人生の意味などを模索する多感な時期ですが、私には彼らがダンスによって世界に反応していく様がたまらなく魅力的に映り、ダンスにのめり込んでいきました。
 しかし、当時のマレーシアではプロのダンサーになるのは難しかったので、1991年、18歳になる直前にシンガポールに移り、「シンガポール・ピープルズ・アソシエーション」に入りました。ここで伝統舞踊、ジャズ、ヒップホップ、バレエ、インド舞踊やマレー舞踊など様々なジャンルのダンスを学びました。私にとっては初のプロフェッショナルなダンスのトレーニングで、バックグラウンドをつくることができました。ただこれは「新しい文化を生み出す」というよりも、「一般の人々が喜ぶダンスを踊る」という感じでした。人々を繋げる政治的な意味合いもあったのだろうと思います。しかし、私はもっと芸術的なダンスを踊りたかったので、結局1年もたたずに辞めることにしました。ちょうどシンガポール・ダンス・シアター(SDT)の芸術監督アントニー・タンが私のことをワークショップで見てカンパニーへの参加を打診してくれたので、参加することにしました。

──SDTはシンガポールを代表するカンパニーです。現在はバレエをベースにした作品が多いようですが。
 そうです。私にはバレエの基礎もなかったので、ここで覚えました。SDTではバレエ作品とコンテンポラリー作品を2シーズンずつ公演します。イリ・キリアンやオハッド・ナハリン等の作品を踊り、とても楽しかったですね。私はSDTに11年間在籍しました。

──当時のシンガポールでは、どんなダンスに人気があったのでしょう。
 シンガポールのダンスカンパニーとしては、SDT、そしてダンス・ディメンション・プロジェクト(2001年にECNADと改名)、アーツ・フィッション・カンパニーなどですね。国際的にはゴー・チョーサン(1948〜87)が有名でした。彼は生前、ワシントン・バレエ団の准芸術監督と専属振付家として活躍しました。
 90年代のシンガポールでは、今とは違いアメリカのカンパニーが多く紹介されていた印象です。私のお気に入りは台湾のフィジカル・シアター・カンパニー「優劇場(1993年に優人神鼓と改名)」でした。特にポーランドの演出家イェジー・グロトウスキの作品からインスパイアされた作品が好きでしたね。

──スィ・ブンさんが過ごした1990年代のシンガポールは、87年にアルビン・タンのネセサリー・ステージ、88年オン・ケンセンのシアター・ワークスなど舞台芸術の新しい波がありました。77年からはシンガポール・アーツ・フェスティバル(2007年からロー・キーホンが芸術監督)も開催されているなど、アートシーンが大いに盛り上がりましたが、こうした流れと接触はありましたか。
 私は1991年にシンガポールに来たので、それが当たり前だと思っていましたね。ケンセンやキーホンと本格的に交流が始まったのは、私がスペインから帰国し、2008年にカンパニーを立ち上げてからです。ケンセンの仕事には当時から注目していて、大いに刺激を受けていました。キーホンは、今では私のカンパニーを最もよく招聘してくれるディレクターのひとりです。
 ダンスで言えば、90年代はやはりバレエやネオクラシカルなものに人気がありました。ダンス・ディメンション・プロジェクトなどは、この頃ジャンル横断的な表現に注力していました。またSDTも創設は1988年で、私が参加した当時はまだ若いカンパニーでした。SDTは民間でダンサーをフルタイムで雇用したシンガポール初のカンパニーで、7人のダンサーがいました(現在は30名以上)。
 私の最初の振付作品は92年。『シンプル・トラブル』という、6人の振付家が短いシーンをつくっていくオムニバス作品でした。振付の経験は、パフォーマーとしての自分を成長させてくれます。考えていることをダンサーや観客に伝える方法を発想しますし、照明や音楽のことにも気を使いますから。


ナチョ・デュアトとの出会い

──SDTで活躍していたあなたが、スペインに渡るきっかけは何だったのですか。

 そろそろ次のステップを考えていた2002年に、ナチョ・デュアトのスペイン国立ダンスカンパニーがシンガポールで公演をしたんです。衝撃でした。動きのボキャブラリー、音楽の使い方、全てが素晴らしく、精密で、かつ情熱的でした。私はナチョのカンパニーのマネジャーに「このカンパニーで踊りたい!」と訴えました。「来年スペインでオーディションがあるから受けたらいい」と言われましたが、自分でも押さえきれない衝動がこみ上げて、気がついたら翌日ナチョの楽屋のドアを叩いていました。「あなたの所で踊りたい。私の踊りを見てくれ」と直談判し、翌日、ひとりだけオーディションをしてもらったのです。他のカンパニーメンバーと一緒に舞台の上に立たされ、ナチョが私に振りを教えてくれている後ろでクリエイションが同時進行して一緒に踊る、という特別な体験でした。

──そしてスペイン国立ダンスカンパニーに入団し、後にプリンシパルになりました。
 はい。私より先に女性ダンサーには日本人の秋山珠子がいましたが、アジア人は私たち二人だけでした。外見など、周囲からある種の期待があったことは事実です。ダンサーとしてしっかりとした実力をつけないと、カンパニーの中に自分の居場所をつくれません。当時ナチョは大人気で、ひっきりなしにオーディション志望者が来ました。ナチョもダンサーに多くのことを要求しましたし、できなければ別の誰かが自分のポジションにつく……シンガポールにはこういう切磋琢磨が足りません。ただ競争がいきすぎると、まるで機械の一部のような気分になってくるので、私は他のカンパニーとも仕事をするようになりました。人生を楽しみ、パフォーマンスを楽しみながら、挑戦と競争を続けていくためです。きついですが、毎日100%出し切ることができ、充実していました。

──そして2007年にシンガポールに帰国します。有名カンパニーのプリンシパルだったわけですから、ヨーロッパに残る選択肢もあったのでは?
 そうですね。スペインは人も文化も素晴らしく、第二の故郷のように思っていますが、5年目にはもう十分に学んだ、何か大きな変化が必要だと感じ、振付家になる決意をしました。確かにヨーロッパに残る道もありましたが、私はアジア人としての身体を前面に出せる振り付けをしたかったのです。もちろんスペインでも不可能ではないですが、やはり根底に持っている精神、文化が違いますからね。

──ナチョのスタイルは、今のあなたの作品に影響していますか。
 影響はあるでしょうが、私の方向性は彼のものとは違います。私はパフォーマンスのなかで「人としての身体」に誠実でいられるもの、よりアジア的なものを探しています。カンパニー名の「T.H.E」は「人間の表現(The Human Expression)」という意味です。人間の身体、人間の存在、人間が生きる条件を表現するためのダンスを目指しています。

──帰ってきたあなたを、シンガポールのダンス界はすんなり受け入れましたか。 
 シンガポールは多民族・多文化国家なので、新しい文化に抵抗はありません。ただこれには良い面と悪い面の両方があります。社会がとてもオープンで常に新しい動きをダイナミックに取り入れる反面、外からの影響を簡単に受け入れすぎて伝統が疎かになるところもあります。


The Human Expression〜人間の表現のためのカンパニーを設立

──2008年にT.H.E.ダンスカンパニーを立ち上げました。

 少しですがナショナル・アーツカウンシルも支援してくれました。しかしダンサーには、毎日6時間、月曜日から金曜日まで働いてもらっても最初の2年間は月に400SGDほどしか払えませんでした。7人のダンサーはフリーで生活もありましたが「2年間はついて来てほしい」と頼み、彼らは私を信じてついてきてくれました。
 とはいえ当時はスタジオも借りなければならず、私個人のお金も持ち出しました。幸いスペインでは2年以上働いた実績があれば失業手当が支給されるので、それを受け取るために3カ月おきにスペインに帰るような日々でした。しかし何かを成し遂げるには全てを投入しなければなりませんから。私は創作からパブリシティまで、全てやりました。

──カンパニーは順調でしたか。
 シンガポールの観客は、私のことは知っていてもカンパニーのことは知りません。設立当時は数カ月に一度のハイペースで公演を続けました。本当にクレイジーでした。しかも一度でも作品のクオリティが低いと、観客は二度と戻ってきませんから必死でした。やがてT.H.E.ダンスカンパニーはプロフェッショナルで質が高いものをやるという評判が定着してきて、3年目にはダンサーにプロフェッショナルなギャランティを払うことができるようになりました。
 現在はダンサー8名。半分はシンガポール人で、後はマレーシア人、中国人、日本人もいます。オーディションはオープンで、国籍は関係ありません。また、セカンド・カンパニーもあります。3年前からNACのグッドマン・アーツ・センターにレジデンスしています。専用のスタジオが使えてとても良い環境ですが、3年契約なのでまた申請する必要があります。

──セカンド・カンパニーがあるのは素晴らしいですね。ヨーロッパでは大きなカンパニーを維持するのが困難になっていて、若いダンサーを育てる環境も縮小しています。
 シンガポールではセカンド・カンパニーのダンサーがクラスを受けるのにお金を払う場合もありますが、我々は無料です。今は16歳から29歳まで、約20人が在籍しています。年齢ではなく経験に基づいたクラス分けです。

──シンガポールは多文化国家で、伝統舞踊などダンサーのバックグラウンドが違うのではありませんか。普段はどんなトレーニングを?
 私たち全員の基盤はバレエだと考えています。普段のトレーニングはバレエを2日間、コンテンポラリーを1日か2日、即興を1日、ときどき創作などの時間をとっています。コンテンポラリーは私のメソッドが中心ですが、即興も重視しています。そこに様々な伝統舞踊、太極拳、GAGA、コンタクト・インプロビゼーションなどを採り入れています。並行して、呼吸や動きといった基本を何度も問い直していきます。
 シンガポールのコンテンポラリーダンスの浸透は目覚ましく、コマーシャルな分野にも及んでいます。変化に敏感なのはシンガポールの美徳ですし、裾野が広がったのは良いことですが、大衆化した結果、「楽しいものを見たい」という観客の要求が強くなりすぎている気もします。私たちはクオリティの高い芸術的な作品をつくり続けるべきだと思っています。

──最後に、今後の展望を聞かせてください。
 実は、2017年からフェスティバルのフォーマットを大きく変え、上演数を減らしてクリエイションに注力していく予定です。コンテンポラリーダンスが浸透した今、これからは普及ではなく、より質を高める時期にきていると思います。新作に挑戦しながらクオリティを保つことは簡単ではありませんが、アーティストには様々なことに挑戦しする実験の場が必要ですし、フェスティバルがそういう場になればと願っています。

──そうですね。アーティストには間違いや失敗ができる場が必要です。
 想像もつかない新しいチャレンジの受け皿になるようなフェスティバルの形を考えています。そのために現在一体化しているカンパニーとフェスティバルを分離するつもりです。フェスティバルはフェスティバルチームに任せ、私はキュレーションはせずにひとりの振付家、アーティストとしてクリエイションします。今、カンパニーは安定し、成熟しています。私とカンパニーにとっては固有のボキャブラリー、審美性をさらに深め、獲得していくいいタイミングがきていると思っています。

──シンガポールのコンテンポラリーダンスは、普及の時期を越え、質の向上を追求するべき時に来ているのですね。ご活躍を期待しています。
 
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