The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ドミニク・エルヴュ
(C) Fabrice Schiff – Lyon People
ドミニク・エルヴュ
Dominique Hervieu

メゾン・ドゥ・ラ・ダンス
Maison de la Danse

メゾン・ドゥ・ラ・ダンス
http://www.labiennaledelyon.com/
リヨン・ダンス・ビエンナーレ
La biennale de Lyon

ピーター・ゴス
Peter Goss(1946〜)
南アフリカ出身、ロンドンで文化人類学を学ぶ傍らダンスに出会い、アメリカでダンスを学ぶ。1969年にフランスに拠点を移し、73年にカンパニーを設立。ホセ・リモンとモーシェ・フェルデンクライスに影響を受けたスタイルのダンスを発表し、独自のメソッドの教育も行う。1981年にパリで学校(Ecole de danse de Petre Goss)を開校し、多くのダンサーや振付家を育成。1990年からはパリの国立コンセルヴァトワールでも教える。
ホセ・モンタルヴォ
José Montalvo(1954〜)
スペイン移民の子としてフランスに生まれ、美術史や造形芸術を学んだ後にダンスに出会い、フランソワーズとドミニク・デュピュイ夫妻のカンパニーで踊り、マース・カニンガム、アルヴィン・ニコライ、カロリン・カールソンのもとで学ぶ。1986年のスイス、ニヨン国際振付コンクールでの受賞を皮切りに、多数の賞を受賞し、1988年からダンサーのドミニク・エルヴュと共に、カンパニー・モンタルヴォ・エルヴュとして活動。現在は、単独で振付作品を発表している。最新作は、『Carmesn(s)』(2018)。
Presenter Interview
2018.3.27
A new director takes the reins in Lyon, France’s mecca of contemporary dance 
コンテンポラリーダンスのメッカ リヨンを牽引する新ディレクター 
フランス南東部に位置するリヨンは、1980年代からコンテンポラリーダンスを支援してきた。1980年にフランス初のダンス専用劇場メゾン・ドゥ・ラ・ダンス(Maison de la Danse)を設立、1984年にはダンスの国際フェスティバル「リヨン・ダンス・ビエンナーレ」を立ち上げて、コンテンポラリーダンスを都市の文化的アイデンティティとして確立。このメゾン・ドゥ・ラ・ダンスとビエンナーレの創設を主導した元ジャーナリストのギー・ダルメは、2011年に引退するまで両ディレクターを30年にわたって務めた。そのバトンを引き継いだのが、ドミニク・エルヴュだ。ダンサー、振付家としてカンパニー・モンタルヴォ・エルヴュで活動し、国立シャイヨー劇場のディレクターを経て、メゾン・ドゥ・ラ・ダンスの総合ディレクター、ダンス・ビエンナーレの芸術監督に就任。2018年は横浜で開催される「Dance Dance Dance @YOKOHAMA 2018」のディレクターも務めるエルヴュに、メゾン・ドゥ・ラ・ダンスやビエンナーレの今後についてインタビューした。
聞き手:岡見さえ[舞踊評論家]

ダンサーからカンパニー・モンタルヴォ・エルヴュへ

──最初に、エルヴュさんの経歴から教えてください。ダンスを始めたきっかけや、ダンサー時代の活動について教えていただけますか。

 出身はパリから北西に1時間ほど行ったバス=ノルマンディー地域圏のクタンスというところです。ダンスは6歳から地元で始めました。まずバレエを始めましたが、体操も習っていました。それから地元を出てノルマンディーのカーンでダンスを学び、学業を終えたのはパリでした。パリに来て、コンテンポラリーダンスやモダンダンスにも興味を持つようになりました。パリでピーター・ゴスに学び、影響を受けたのです。彼は素晴らしい教師で、のちに世界的なコンテンポラリーダンスの振付家になるアンジュラン・プレルジョカージュもフィリップ・ドゥクフレもゴスのところで学んでいました。私が1981年にジョゼ・モンタルヴォに出会ったのも、ゴスのところでした。

──ジョゼ・モンタルヴォは、エルヴュさんが「カンパニー・モンタルヴォ・エルヴュ」として活動を共にする振付家ですね。
 はじめ私はダンサーとして彼と出会いました。ジョゼが私ともう1人に声をかけて、3人で身振りを含めたダンスの実験を始めました。1人は途中で抜けましたが、ジョゼと私は探求を続けました。私はダンサー、ジョゼは振付家として5年間の試行錯誤を経て、ジョゼが振り付けたソロを発表しました。この作品は1986年に、スイスのニヨン国際振付コンクールでソロ賞と観客賞を受賞しました。このとき、審査員だったギー・ダルメがこの作品に注目してくれて、私たちをリヨンに招いてくれました。だから私が初めてダンサーとしてのギャラをもらった場所は、リヨンだったんです。

──そのソロはどんなスタイルの作品だったのですか。
 後にモンタルヴォ・エルヴュのスタイルになる出発点の作品でした。映像は使っておらず、抽象すれすれの身振りを見つけることがコンセプトの、ムーヴメントの探求からつくられたものです。抽象性と物語性の両方があり、登場人物がいて、無声映画の影響、演劇性やユーモアもあるのですが、身振りと身体性により秩序をもって構成されています。このソロの後、トリオ作品を創作し、それが1988年にフランスのダンス・ア・パリという国際コンクールで2位になりました。同じ年にシャンゼリゼ劇場で開催された国際コンクールで、女性ダンサー賞も獲りました。コンクール漬けの時代ですね。

──振付はいつ頃から始めたのですか。
 たくさん稽古をして、コンクールに出て、それから振付に関わるようになりました。最初に振り付けたのは1994年、青少年向けの『オラカ・オララ Hollaka Hollala』です。これは初めて映像を使用した作品で、世界ツアーで300回以上公演しました。この頃から、フランスでは青少年向けのダンス作品がつくられるようになりました。『オラカ・オララ』の大成功に続いて、97年にメゾン・ドゥ・ラ・ダンスで上演した『パラディ Paradis』も世界的な成功を収めました。88年から「カンパニー・モンタルヴォ・エルヴュ」名義で活動を始めていましたが、2000年以降は全作品に共同振付家として私の名前がクレジットされています。モンタルヴォ・エルヴュは、98年にパリ郊外にあるクレティユのCCN(国立振付センター)のディレクターに任命され、キャリアを積んでいきました。この頃の作品には、『ル・ジャルダン・イオイオイトイト Le Jardin io io ito ito』(1999)、パリ・オペラ座バレエ団に振り付けた『竪琴の笑い Le rire de la lyre』(1999)、『幸福なバベル Babelle heureuse』(2002)などがあります。

──モンタルヴォ・エルヴュでは、ダンサー、振付家以外の活動もされていましたか。
 カンパニーでの私の役割は、徐々に大きくなっていきました。2002年、40歳まで私はダンサーとして踊っていました。それと並行して、カンパニーの初期からずっとダンス教育に携わっていました。カンパニーの他のダンサーを指導するほかにも、公立の学校でもたくさん教えていました。踊るのをやめた後は、共同振付家として作品に携わり、それが2010年まで続きます。この時代に、シャトレ座で上演したオペラ『レ・パラダン Les paladins』(2004)や、リヨン・オペラ座のための作品や、映像作品、アマチュアとの創作など、いろんなことをやりました。非常に盛り沢山な時代です。


新たなダンスの拠点となった国立シャイヨー劇場

──2000年からはパリの国立シャイヨー劇場のポストにも就任されました。どのような経緯だったのですか。

 カトリーヌ・タスカ文化大臣(2000〜02)から、モンタルヴォ・エルヴュにシャイヨー劇場のディレクションに参加しないかと提案されました。2000年からシャイヨー劇場のディレクターにアリエル・ゴールデンベールが就任し、劇場の方針としてダンス公演に比重を置くことになり、ジョゼ・モンタルヴォがダンス部門ディレクターになりました。私は青少年担当に就任し、ダンスの教育と普及を担当しました。その後、2008年にクリスティーヌ・アルバネル文化大臣から(2007〜09)、ゴールデンベールの後任としてシャイヨー国立劇場の総合ディレクターに任命されました。このポストは、2011年にリヨンに来るまで務めました。

──シャイヨー劇場は、2008年に新たなダンスの拠点として国立劇場では初めて公演の大部分をダンスにする方針転換を行いました。その最初の芸術監督に任命された理由を、ご自分ではどのように分析されますか。
 ダンスは観客に支持され、実績があったのにもかかわらず、フランスの制度の中では整備が遅れていました。ダンスはずっと演劇の劇場で上演されてきたわけですが、舞踊芸術の発展の過程を見れば、ダンスが専用劇場を持つ時期に来たことは明らかでした。リヨンにはメゾン・ドゥ・ラ・ダンスがあるけれど、パリにはなかった。ロンドンにはサドラーズ・ウェルズがあるけれど、パリにはなかった。フランスには、パリのシャイヨー、ラ・コリンヌ、オデオン、オペラ・コミック、コメディ・フランセーズとストラスブールのストラスブール国立劇場という6つの国立劇場がありますが、どれひとつとしてダンスを主に扱う劇場はありませんでした。これ以上ダンスを待たせる理由は存在しなかったし、ダンス専門の国立劇場をつくることは、文化省にとって重要な仕事でした。ダンスにとっても、劇場が国立であることは、象徴的に大きな意味を持ちます。国立劇場とは、卓越のお墨付きであり、芸術界の目標でありシンボルですから。
 ディレクターへの任命は、観客の増加の実績、広く支持された振付作品の創造、劇場に関する深い知識といったすべてが重なった結果ではないかと思います。青少年担当の仕事をしていた時代に、私はダンスの創客の仕事に取り組み、既存のダンスの観客に加えて、数年間で飛躍的に観客を増やすことに成功しました。大臣はこうした仕事に信頼を寄せてくれたのでしょう。また、ジョゼと私で作った振付作品が、3週間劇場を満員にしたこともありました。さらにシャイヨーは巨大な劇場ですから、ディレクターには劇場をよく知る人を任命する必要があることも考慮されたのだと思います。

──シャイヨー劇場では、在任期間中に観客動員を20%も増やしました。具体的に、どんな働きかけをしたのでしょうか。
 「観客術 Art d’être spectateur」というプログラムを始めました。これは今もシャイヨー劇場で続いていて、毎月開催されています。それぞれの振付家が固有のアプローチを手掛かりにして、観客と作品との間につながりをつくり出すことがコンセプトです。振付家と一般の参加者を対象にした劇場でのワークショップやトークを開催し、劇場を出て建築学校や高齢者の施設にも行きました。振付家が作品を制作する際のアプローチを綿密に分析することで、多様な観客を顕在化させ、新しい客層を開拓したのです。それから、別領域のアートとの連携を発展させたことで、観客が循環し、クロスするようになりました。
 そのほかには、「シャイヨー・ノマド」というイベントもやりました。ダンスが、ルーヴル美術館、ポンピドゥ・センターの現代美術館、サーカスに出向いていくのです。すると何が起こるか? 突然、予期せぬ場所でダンスに出会った人たちは、ダンスに好奇心を抱いてくれました。普段ダンスと出会わない場所でやるのがコンセプトですから、困難な状況にある人、心身の健康を損ねた人など、あらゆる観客のところに行きました。「ダンスは皆さんのためのものですよ、見に来てください」と、劇場を出てダンスを見せに行ったのです。一種の芸術教育、ダンス教育ですね。時間はかかりましたが、こうした試みから徐々に観客が広がっていきました。


リヨンでの取り組み

──そのシャイヨー劇場を辞して、2011年にリヨンに移ったのはなぜですか。

 私がシャイヨーを離れることに、当時のフレデリック・ミッテラン文化大臣はとても不満でした。でも、私はリヨンに行きたかったのです。たしかにシャイヨーは素晴らしい劇場だし、興味深いプロジェクトでした。しかし労働組合とか管理部門の問題などに、恐ろしいほどの時間を取られていました。そうしたことは自分の性分には合わなかったし、その時間をアートに関するプロジェクトや、カンパニーのために使いたいと思っていたので、いずれにせよシャイヨーに長く留まるモチベーションは失われていました。ちょうどその時、リヨンのギー・ダルメが引退することになり、チャンスだと思いました。

──ダルメさんの後継者になる提案は、彼自身からあったのですか。
 リヨンでの最初の公演からずっと、お互いに良い友人として連絡を取り合っていました。この時の提案はギー・ダルメ自身からで、リヨン市長もギーの意見を受け入れていました。こうしてリヨン市長からの要請を受けて、私はシャイヨーを辞任し、リヨンに赴任することになりました。

──リヨンでは、ダンス専門劇場のメゾン・ドゥ・ラ・ダンスの総合監督と、ダンス・ビエンナーレの芸術監督の二つのポストを引き継がれました。
 リヨンでは、機構改革や2021年にオープンを予定している新施設のプロジェクトなど、たくさんの案件があり、活気と展望があります。そうしたダンスの展望に正当性があり、グループ内のコミュニケーションとお互いに対する敬意、新しい試みを実行し、その成果を実感できる環境など、私にとって理想的でした。チームはシャイヨーより少人数ですが、創意があり、率先して動いてくれる。リヨンでダンスに携わるということは、他にない特別な仕事でした。

──2021年にオープン予定の新メゾン・ドゥ・ラ・ダンス建設計画について教えてください。
 ダルメ時代からの野心的なプロジェクトで、非常に高額な予算を組んで有名建築家のプランによる新施設を建設する計画でした。けれども2011年にフランスが大きな経済危機に見舞われ、リヨン市長から計画の実行が不可能であることを告げられました。それから別の可能性を模索し、リヨン市6区の旧ギメ美術館を改装して、振付家やダンサーのクリエーションの場「アトリエ・ドゥ・ラ・ダンス」をつくるプロジェクトが2015年に始動しました。
 現在のリヨン市8区にあるメゾン・ドゥ・ラ・ダンスは主に上演の場として機能していて、創作をするスペースがありません。ですから、このアトリエ・ドゥ・ラ・ダンスの計画は、今後の私たちの活動に非常に大きな意味を持ちます。しばらく使われていなかった、歴史的建造物の指定も受けている19世紀の美しい建物をリノベーションして、3つのスタジオをつくります。メゾンのある8区は大衆的でアトリエのできる6区はブルジョワ的と雰囲気も異なり、スタジオは国内外のプロもアマチュアも受け入れる開かれた場になります。さまざまな人が出会い、新たな創造の生まれる場になることを企図しています。

──メゾン・ドゥ・ラ・ダンスのディレクションで、ダルメ時代から変えたことはありますか。
 メゾン・ドゥ・ラ・ダンスの出発点は、広い層の観客や家族に向けたあらゆるダンスの劇場であるということ。その思想を引き継ぎ、大切にしていますが、新たな試みも行っています。どんなスタイルであれ高い要求を満たす作品であること、さまざまな観客とアーティストを受け入れること、この二つが私のコンセプトです。
 メゾン・ドゥ・ラ・ダンスでは、年間に約50のカンパニーの上演がありますが、多様なダンスのスタイルを歴史のなかで把握できるように、ギーの時代には上演しなかったバレエもプログラムに入れています。もちろん80年代のコンテンポラリーダンスの歴史的作品も、現代の新作も紹介します。実験的な現代作品を集めた小フェスティバル「サンス・ドュシュ・ドゥス」は私が始めたものですが、今ではリヨンの観客はとても楽しみにしてくれています。
 ダンスに加えて、コメディ俳優のパトリス・チボーのユーモラスな作品も上演しています。チボーはダンサーではないし、ダンス専用劇場での上演は微妙なところでしょう。でもこれは、「人生には笑いが必要、だから我慢しないで笑ってください」という私からのメッセージです。チボーを見て笑っても、同じシーズンにマギー・マランを見る妨げにはなりません。私は、「コンテンポラリーダンスだから、現代アートだから、シリアスでなければいけない」と、劇場で笑うことに観客が罪悪感を抱かないようにしたいのです。
 今のダンスにはたくさんのアプローチがあるし、1年中ずっと同じスタイルを見る義務もありません。いろいろなスタイルを見て、さらにそれが異なれば異なるほど感受性は豊かになる。作品はそれぞれ違った解釈、関係を見る者に求めてくるからです。だから驚きも、笑いも、涙も、思索も、ためらわないでください、と伝えたい。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスでさまざまな体験をしてもらいたいのです。
 観客との関係においては、いつも公正でいる必要があります。観客は料金を払っているし、メゾン・ドゥ・ラ・ダンスは公的な助成金も受けています。子どもや若い世代に対する、芸術教育の責任もある。ですから、自分自身のアプローチは、民主的に誰に向けた活動であるかを常に意識しています。

──いま、人々にとってダンスを見るということはどんな意味を持つと考えていますか。
 観客の60%は娯楽を求めていると考えています。日常の外に出て、もっと感覚的な世界の中に入っていくという気晴らしです。その場合、出発点にあるのは深い学識や、何か非常に深淵なものではありません。でも私はそれを軽蔑しません。だって、仕事に忙殺された金曜日の夜、マルクスを読もうなんて思いませんから。
 でも大切なのは、この「楽しみ」の次元と芸術が繋がることです。これは子どもにも大事で、最初の芸術の経験は「楽しみ」から形成されるべきだと思っています。この楽しみは、知性や知識を排除するものではないし、無意識の動力源になり、その人が生きた時間を評価する力にもなる。そこで、どうやってこの楽しみや娯楽の要請に、好奇心の根を結びつけていくかが重要になります。子どもにとっては、楽しみは既知の事柄と結びついています。大人でも同じ場合があります。『眠れる森の美女』がどのようなバレエか知っていても、見に行くわけですから。
 そしてこの「知っている事柄」から「未知の事柄」へ人々を連れて行くのが、私の役割なのです。私はしばしば自分の仕事を、「知らないことを好きにする仕事」と説明します。まず知らなければ、好きになることもありませんよね? 見たことのあるダンスから、たとえば今度メゾン・ドゥ・ラ・ダンスで初めて上演するニューヨークで活動するミッシェル・ドレーンズのタップ・ダンスのパフォーマンス、形式性のあるフランスの振付家トマ・ルブラン、イスラエル出身のエマニュエル・ガットの振付作品などのようなより難解な作品に、劇場で観客が出会い、発見するように導くのです。そして彼らの中で未知のものと楽しみが結びつけば、きっとそのダンスを好きになってくれる。もちろん、100%こちらの思惑どおりに進むわけでないのが難しいところですが。

──そのために、具体的にどのような取り組みをなさっていますか。
 抜粋映像の紹介や、レクチャーによる観客・教員・企業・メセナなどに対する複数のプログラムをメゾン・ドゥ・ラ・ダンスで開催しています。ダンスに興味を持ち、実際の上演を見てみたいと思ってもらうことが目的です。「これは皆さん見たことがないでしょう。でもこうした理由で、今まで知っているものに加えてこれを見て欲しいのです」と、順序立てて説明していきます。こうして人間的なつながりが生まれると、話に耳を傾け、説明も理解してもらえます。私たちは観客と劇場の絆づくりをとても大切にしています。観客はチケット代を払うだけではなく、話を聞き、公演を楽しみにしてくれる。そして信頼関係ができれば、もっと冒険してくれる。見たことのない難しそうな作品でも、見てみようと思ってくれるのです。

──エルヴュさんはメゾン・ドゥ・ラ・ダンス着任後も、ダンスファンやメセナの支持を着実に増やしています。公的助成が減少傾向にあるなか、チケット販売やメセナからの支援はますます重要になっていますが、民間のパートナーにはどのような働きかけを行っていますか。
 メゾン・ドゥ・ラ・ダンスは、教育とデジタル分野に非常に力を入れています。地域の芸術教育の拠点として、小・中・高校生に向けた芸術教育はもちろん、教員向けの講習を提供しています。「メゾン・ノマド」と名付けて、リヨン市からオーベルニュ・ローヌ・アルプ地域圏まで、美術館やショッピングセンター、図書館にダンスの出張上演を実施してダンスの普及を図り、刑務所や精神科のクリニック、病院等にダンサーを派遣してワークショップを行う社会的な取り組みも実施しています。
 デジタル分野では、約2,700のダンス動画をフリーアクセスで見られるオンライン・アーカイヴ「ニュメリダンス」が春にヴァージョンアップし、併せてダンスについて学べるゲームもリリースします。「マイ・ダンス・カンパニー」というタイトルで、英語版もつくりました。プレーヤーは自分のダンス・カンパニーを立ち上げて、作品を制作するのがゴールです。ゲームを進めるには、ニュメリダンスのさまざまなダンス動画を見て、自分でスタイルや、作品の内容、見せ方を選んでいきます。こうしたデジタル、ソーシャルの取り組みに、メセナは非常に関心を示してくれています。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスの社会的役割が評価されているのです。あとはもちろん、企業には顧客の招待や従業員や家族がダンスを見られる特典もあります。

──メゾン・ドゥ・ラ・ダンスでのプログラムは、どのように決定されているのでしょうか。
 最終的には私が決めますが、一緒に仕事をしてくれるスタッフも2名います。作品選択にはビデオも参考にしますが、分担して国内外にもよく出張しています。また、情報のネットワークも大切です。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスは2016年にヨーロッパ創造拠点(Pôle européen de création)に加わったので、今後はこのヨーロッパ創造拠点に加入している国内の劇場とポルト(ポルトガル)、リエージュ(ベルギー)、バルセロナ(スペイン)のパートナーと新作の制作を発展させることになるでしょう。この枠組み内では人の行来も頻繁ですし、たくさんの情報もやりとりされています。それから、アーティストが作品を提案しにメゾン・ドゥ・ラ・ダンスにやって来ることもあります。リヨンで作品を上演したいアーティストは大勢いますから。

──そのなかから上演作品を選ぶ際の基準は何ですか。
 第一にクオリティです。ここで言うクオリティとは、完成した一貫性のある作品で、堅固な芸術的アイデンティティがあるという意味です。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスはあらゆるダンスの劇場ですから、バレエからパフォーマンスまでをカバーします。バレエだったら1月に上演したロシアのヤコブソンバレエ団の『眠れる森の美女』のような最も古典的な作品、タップでは「タップのコンサート」ともいうべきミッシェル・ドレーンズの作品を3月に上演します。それから2月のフェスティバルで上演する、マギー・マラン、ナセラ・ベラザ、ロビー・オーリンといった現代のラディカルなアーティスト。中庸なものは好みではなくて、焼き直しや、再利用ではない、固有性をもった作品に強く興味を惹かれます。
 私にとって基準となるのは、身体、演出、振付の構成に関して、明白に想像力が感じられるアプローチです。既存の作品からの借用や、類縁関係が明白だったり、強いパーソナリティが感じられないもの、作者が自分のスタンスをきっちり表明していないものには興味がありません。たとえばヤコブソンバレエでは、ダンサーは素晴らしく、完璧で、ダンス・クラシックのクオリティがあります。現代的なパフォーマンスでも同じことです。優れた作品では、アーティストは作品に没入し、過剰なまでに自分たちのアプローチを、世界に対する想像力を、芸術上のスタンスを、物語を表明している。そしてそこには一貫したスタイルがある。こうした作品選択の基準は、ダンス・ビエンナーレの作品選びでも同じです。

──リヨンの観客に向けたメゾン・ドゥ・ラ・ダンスの仕事と、国際的な広がりを持つリヨン・ダンス・ビエンナーレの仕事とではどのような違いがありますか。
 高い要求を掲げ、すべての人とダンスを分かち合うという原則は同じですし、仕事に対するアプローチ、哲学も同じです。ですが、関わる立場が違います。私はメゾン・ドゥ・ラ・ダンスでは総合ディレクター、ビエンナーレでは芸術監督です。メゾン・ドゥ・ラ・ダンスでは、私は全体の責任者ですが、ビエンナーレは独立した組織が偶数年に開催するダンス・ビエンナーレと奇数年に開催する現代美術ビエンナーレの両方を運営しています。たとえば国際的な展開に関する仕事は、このリヨン・ビエンナーレ組織のコミュニケーション部門の担当です。私はダンス部門のディレクターという立場なので、ダンスに関する部分、具体的には、芸術に関する仕事、芸術教育、デフィレ(パレード)、クリエーション、地域振興を担当しています。ダンス・ビエンナーレは、リヨン市を中心に広がるリヨン都市圏、メトロポール・ド・リヨンが助成を行なっており、この都市圏の42の町の62カ所に広がっています。これまでダンスがなかった町に行く、ダンス普及のチャレンジがあります。あとは、特にデフィレの準備のために非常にたくさんの仕事があります。

──毎回のビエンナーレの目玉にもなっているデフィレは、リヨンの各地域のアマチュアのグループが踊りながら中心街をパレードし、30万人の観客を集める一大イベントです。準備はどのように進めるのでしょうか。
 デフィレには、リヨンに住むアマチュアの12のグループ、それからリヨンと姉妹都市関係にある町からの参加もあります。たとえば、前回、2014年はイタリアからトリノ市が参加していました。準備は1年前から始めます。その年のデフィレのテーマに合わせた振付のプロジェクトを公募し、選考した12人の振付家を各地のグループに派遣します。それから約8カ月間、グループはこの振付家の指導のもとに振付を覚えて、本番に向けて練習をします。デフィレには、地域の振付家のサポートと、ダンスの普及の効果があるのです。
 デフィレ当日は、約4,800人のアマチュアが参加し、半日をかけて市内をパレードします。パレードの最後は市の中心の広場に集まり、数万人の観覧者も一緒にプロフェッショナルのダンス・スペクタクルを見ます。全員で、私の振付を練習して、皆で一緒に踊る企画もあります。デフィレの熱気の中で、参加者も観客も踊るのです。

──ダルメさんの時代から変えたことはありますか。
 ビエンナーレでは、ギーが素晴らしい仕事を成し遂げていますから、そこに革命を起こすようなことはしません。そこから出発して、より広く、複雑にしながら前進していきます。ビエンナーレでは21日間に約50作品の劇場公演があり、海外からの約20のカンパニーを含む多様な国や地域のダンス、多くの新作を上演して、ダンスの今を発信しています。と同時に、失業者や社会への同化、健康に問題を抱える人に向けた社会的観点に基づく仕事の重要性も感じています。こうした人たちにダンスをみてもらうことは非常に大切だと考え、公演に招待することを始めています。そして、広場で誰でも無料で見ることのできるデフィレの最後のスペクタクルは、こうした状況の人も含めたすべての人へのプレゼントだと考えています。今年はサーカス出身のダンサーで振付家のヨアン・ブルジョワによるプロとアマチュアのダンサーを使った作品を上演する予定です。
 2018年のデフィレのテーマは「平和」です。第一次世界大戦の終戦から100年、宗教改革から300年、マーチン・ルーサー・キング没後50年にもあたっており、良いテーマだと思っています。

──ほかにも、今年のビエンナーレの特色を教えていただけますか。
 非常にヨーロッパ色が強くなる予定で、さきほど話に出たヨーロッパ創造拠点の存在が明白に示されるでしょう。ポルトガルやベルギー、スペイン、それからイタリアや東欧の国も参加します。ヨーロッパ創造拠点は、フランスではフランス文化・コミュニケーション省が主導し、アンスティチュ・フランセやONDA(フランス芸術振興会)、劇場やフェスティバルが参加するヨーロッパに広がるネットワークです。アソシエイト・アーティストを有しており、カンパニーのリサーチ、新作制作、国際的な上演を支援するために、ヨーロッパの劇場やフェスティバルで共同制作を行い、各都市で公演を行います。
 リヨン・ダンス・ビエンナーレでは毎回、劇場関係者等のプロフェッショナルに向けて新進アーティストを紹介する「フォキュス・ダンス」を企画していますが、今年はこのフォキュスにヨーロッパ創造拠点に関係するアーティストを迎えます。つまり、これまでは10組のフランスのカンパニーを特集していましたが、これにヨーロッパのアーティストが加わり、全体で17作品となります。フォキュスの規模が拡大され、ヨーロッパのダンスのプラットフォームになるでしょう。

──今年は2018年の夏から開催される「Dance Dance Dance @YOKOHAMA 2018」のディレクターも、初めて担当されますね。
 この機会をとても嬉しく思っています。外国とのコラボレーションからはいつも学ぶことがあります。カンパニーで訪れたこともあり、私は日本がとても好きですし、仕事を通して出会った人たちも尊敬しています。素晴らしい文化があり、礼儀正しく秩序があって、人々が衝突することがない。一定の距離を保ちながらも、寛容さ、友情を感じます。このフェスティバルは、リヨン・ダンス・ビエンナーレのような巨大フェスティバルとは異なりますが、アイデアや歴史に何かをもたらすことができると思いました。私からは、フランスのカンパニーや作品の提案を行いました。日仏共同制作もあります。フランスの2人の振付家が日本人のダンサーと協働して新作をつくり、日本のカンパニーの新作を含めた3作品で、フランスもツアーします。まだ日本はこうした国際共同制作の経験があまりないので、私たちが一緒に進めていきます。素晴らしい交流になると期待しています。
 
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